8杯目 魔界の村にて
魔王城の正門前。
朝日が昇り始めた空は、薄紫色に染まっている。
三頭の魔馬が、静かに待機していた。
黒い毛並み、赤い瞳。魔界特有の生物だ。
「……これに、乗るのか……」
アルが呟く。
リリアが笑う。
「大丈夫よ、アル。魔馬は賢いから、ちゃんと言うことを聞いてくれるわ」
マリアが荷物を確認しながら言う。
「地図と食料は準備できてるわ。最初の村まで、約半日の道のりよ」
アルが頷く。
その時——。
「アル」
低く、重い声。
振り返ると、魔王ゼクセル・クマガワが正門から降りてきていた。
「魔王様……」
アルが驚く。
魔王は、手に一本の瓶を持っていた。
深い赤色の液体が入っている。
「これを持っていけ」
魔王がアルに瓶を差し出す。
アルが受け取る。ずっしりとした重み。
「これは……?」
「魔界蒸留酒だ。百年前の、な」
魔王の目が、優しく細められる。
「旅の途中で、きっと役に立つ」
アルが瓶をじっと見つめる。
「……ありがとうございます」
魔王が深く頭を下げた。
「アル……お前に任せる」
「村の者たちを、頼んだぞ」
その姿に、アルは息を呑む。
魔王が——頭を下げている。
「……はい、任せてください」
アルも深く頭を下げた。
リリアとマリアも、父に向かって頭を下げる。
「お父様、行ってまいります」
「必ず、村の者たちを安心させます」
魔王が三人を見つめる。
その目には、深い信頼と期待が込められていた。
「……気をつけてな」
三人が魔馬に乗る。
城門をくぐる。
魔王が、その背中をじっと見つめている。
アルが振り返ると、魔王はまだそこに立っていた。
手を振る魔王。
アルも手を振り返す。
◇
魔界の平原を進む。
朝の空気は、冷たく澄んでいる。
紫色の草原が、どこまでも広がっている。
「……すごいな……」
アルが呟く。
遠くに、巨大なキノコの森が見える。
キノコ一本一本が、家ほどの大きさだ。
「魔界って、こんなに綺麗なんだな……」
リリアが笑う。
マリアが静かに語る。
「私も初めて人族の領域を見たときは驚いたわ」
「緑の草原、青い空……全てが新鮮だったの」
三人は、ゆっくりと魔馬を進める。
やがて、太陽が高く昇り、昼になった。
空の色が、より深い紫に変わっていく。
昼過ぎ。
三人は、小さな泉のほとりで休憩を取った。
リリアが持ってきたパンと干し肉を分け合う。
「ここから村まで、あとどれくらい?」
アルが尋ねる。
マリアが地図を広げる。
「そうね……あと三時間ほどかしら」
「夕暮れには到着する予定よ」
アルが頷く。
「分かった」
リリアが心配そうに言う。
「アル……村の人たちは、きっと最初は警戒すると思うの」
「でも、大丈夫。私たちがついてるから」
アルが笑う。
「ありがとう、リリア」
昼食を済ませ、三人は再び魔馬に乗った。
午後の日差しが、徐々に傾き始める。
時折、奇妙な鳥が空を横切る。
三つの翼を持つ、魔界の鳥だ。
「あれ、綺麗だな……」
アルが見とれる。
リリアが嬉しそうに語る。
「あれは『トリプルウィング』っていうの。魔界にしかいない鳥よ」
「へえ……」
さらに進むと、遠くに小さな集落が見えてきた。
カーシュ村だ。
空が、徐々に夕暮れの色に染まり始める。
深い紫色の空。
そして——。
遠くに、二つの月がゆっくりと昇り始めた。
「……二つの、月……」
アルが息を呑む。
一つは白く、もう一つは淡い青色。
二つの月が、魔界の空を照らしている。
「……本当に、異世界なんだな……」
アルが呟く。
リリアが優しく言う。
「ええ。ここは、あなたのいた世界とは違う場所」
「でも……同じように、人が暮らしている場所よ」
マリアが村を指差す。
「見えてきたわ。カーシュ村よ」
三人は、村へと向かった。
◇
カーシュ村。
人口五十人ほどの、小さな村だ。
木造の家が十数軒並び、魔人たちが生活している。
三人が村の入り口に到着すると——。
ざわざわと、村人たちがざわつき始めた。
「誰だ……?」
「リリア様とマリア様だ!」
「あれ、人族じゃないか……?」
警戒の視線が、アルに集中する。
アルは居心地が悪い。
「……」
リリアが小さく呟く。
「大丈夫よ、アル。私たちがいるから」
その時——。
「おお! リリア殿、マリア殿!」
豪快な声が響いた。
一人の魔人が歩いてくる。
がっしりとした体格、60代くらいの男性。
温厚そうな顔つきだが、どこか迫力がある。
「よくぞおいでくださった!」
「私はこの村の村長、ドラゴと申します」
村長が深々と頭を下げる。
リリアが微笑む。
「お久しぶりです、ドラゴ村長」
マリアも頭を下げる。
「お元気そうで何よりね」
村長がアルに目を向ける。
「で、そちらの人族の方は……?」
アルが一歩前に出る。
「アルと申します」
「魔王様の命できました」
印象はただでさえ悪いんだからと思い、丁寧にお辞儀をする。
村長がアルをじっと見つめる。
その目は、驚きと疑念が混ざっている。
「……人族が、魔王様の使者、か」
「ほう……これはまた……」
村長が笑う。
「まあ、とりあえず中へどうぞ!」
「立ち話もなんですからな!」
村人たちがざわざわと話している。
「人族が、魔王様の使者?」
「本当かよ……」
「何しに来たんだ……」
アルは、その視線の痛さを感じながら、村長について歩いた。
◇
夜。
村の酒場。
この夜、村人の大半が酒場に集まっていた。
木造の温かい雰囲気だが、空気は重い。
アル、リリア、マリアは、テーブルに座っていた。
村長ドラゴが立ち上がる。
「皆、聞いてくれ」
「魔王様の使者がいらっしゃった」
「リリア殿、マリア殿、そして……人族のアル殿だ」
ざわつく村人たち。
視線が、アルに集中する。
その時——。
ガタン!
一人の若い魔人が、椅子を蹴って立ち上がった。
ガロン。
20代後半、筋肉質、鋭い目つき。
「待てよ、村長」
低く、怒りを含んだ声。
「なんで人族がここにいるんだ?」
酒場が静まり返る。
ガロンがアルを睨む。
「あいつらが何人の魔人を殺したと思ってる!」
「何百年も、俺たちを苦しめてきたんだぞ!」
村人たちがざわつく。
「ガロン……」
「でも、リリア殿とマリア殿が一緒だぞ」
「それでも、人族は信用できない」
ガロンがアルに向かって歩いてくる。
「おい、人族」
「お前、何しに来た?」
「まさか、また侵略か?」
アルが冷静に答える。
「違います。和平のために来ました」
「和平?」
ガロンが笑う。
冷たい、嘲りの笑い。
「笑わせるな!」
ガロンが怒鳴る。
「俺の家族は、人族に殺されたんだ!」
「母さんも、妹も!」
「お前らが和平とか言って、俺たちを騙そうってのか!」
酒場が静まり返る。
アルが、じっとガロンを見つめる。
——やっぱり……そうなのか。
胸が、痛む。
アルが静かに立ち上がる。
「……すみません」
アルが深く頭を下げる。
ざわつく村人たち。
「え……?」
「頭を下げた……?」
アルが顔を上げる。
「あなたの家族を殺したのは、俺じゃない」
「でも……俺も、人族だ」
アルの目は、真剣だ。
「俺には、あなたたちの痛みを完全に理解することはできない」
「でも……」
アルが拳を握る。
「だからこそ、俺は変えたいんです」
「人族と魔人が、もう傷つけ合わない世界に」
アルが村人たちを見渡す。
「最初にリリアに会ったとき、角を見て驚きました」
「でも……怖いとは思わなかった」
「むしろ、助けてくれた優しい人だと思いました」
アルが続ける。
「そして、リリアや、マリアや、魔王様と過ごすうちに確信しました」
「魔人も人族も、同じなんだって」
「皆、大切な人を守りたい。平和に暮らしたい」
「俺は……その未来のために、ここに来ました」
静寂。
ガロンが、一瞬だけ目を伏せる。
——まさか……。
しかし、すぐに首を振る。
「……綺麗事だ!」
ガロンが叫ぶ。
「人族が何を言っても信用できない!」
しばらくして、村人たちがざわつき始める。
「……本当なのか?」
「いや、でも……」
「綺麗事だ! 人族が何を言っても信用できない!」
「でも、リリア様とマリア様が一緒にいるってことは……」
「それとこれとは別だろ!」
「……とりあえず、様子を見ようじゃないか」
「様子見? 甘いんだよ!」
村の中で、意見が分かれている。
リリアが立ち上がる。
「皆さん、アルは本当に誠実な人です」
「信じてください」
マリアも立ち上がる。
「彼は、私たち姉妹を和解させてくれたの」
「それだけでも、信じるに値すると思います」
しかし、ガロンは納得しない。
「姉妹が和解したのは、身内の問題だろ!」
「俺たちとは違う!」
「俺は、人族なんて絶対信用しない!」
村人たちがざわつく。
村長ドラゴが、深くため息をつく。
「……では、村の皆で決めよう」
ドラゴが重々しく言う。
「この人族、アル殿を信じるか、それとも……」
「挙手で決めよう」
静寂。
村長が言う。
「アル殿を信じる者、手を挙げてくれ」
数人の手が上がる。
村人の三分の一ほどだ。
「……では、信じない者」
多くの手が上がる。
村人の半数以上。
村長ドラゴの顔が曇る。
——やはり、か……。
残りの者は、腕を組んだまま黙っている。
村長ドラゴが、深く深くため息をつく。
「……アル殿」
ドラゴが苦しそうに言う。
「すまない」
「これが、村の総意だ」
「あなたには……この村を出て行ってもらう」
——やっぱり、か。
胸の奥が、重い。
でも……仕方ない。
アルが静かに頷く。
「……分かりました」
ガロンが冷たく言う。
「当然だ。人族なんて、信用できるわけがない」
リリアが叫ぶ。
「そんな! アルは何も悪いことしてないのに!」
マリアも静かに言う。
「村長……これは民主主義の限界を示してるわね」
「多数決が正義とは限らない。これは古来からの課題です」
しかし、アルが二人を止める。
「いいんです」
アルが静かに言う。
「俺が出て行きます」
「……皆さんの気持ちも、分かりますから」
アルが酒場を出る。
リリアとマリアも、慌てて後を追う。
村人たちが、その背中を見送る。
ガロンは、腕を組んだまま、冷たい目をしていた。
◇
アルたちが出て行った後。
酒場は静かになった。
村長ドラゴが、深くため息をつく。
「……これで良かったのか……」
村人の一人が言う。
「村長、仕方ないですよ」
「多数決ですから」
ドラゴが苦い顔をする。
「……多数決が、正しいとは限らないがな」
村人たちがざわつく。
「え?」
「どういうことです?」
ドラゴが窓の外を見つめる。
「リリア殿とマリア殿が信じている人物を、追い出してしまった」
「もし、本当に誠実な人物だったとしたら……」
ドラゴが深く頭を下げる。
「……俺は、取り返しのつかないことをしたかもしれん」
ガロンが言う。
「村長、甘いですよ」
「人族は絶対に信用できない」
「追い出して正解です」
ドラゴは何も言わない。
ただ、窓の外を見つめ続けた。
その目には、深い後悔の色が浮かんでいた。
◇
村の門を出た三人。
暗い夜道。
二つの月が、空を照らしている。
リリアが涙目で怒る。
「ひどい! あんなのひどすぎる!」
「アルは何も悪くないのに!」
マリアも、珍しく感情を露わにする。
「多数決だからといって、正しいとは限らないわ」
アルが静かに笑う。
「……いいんだ」
「俺、分かってたから」
リリアが驚く。
「え……?」
アルが空を見上げる。
「そんな簡単に、理解してもらえるわけないって」
「俺、あの村の人たちからしたらよくわからない人族なんだし」
「魔人の中には、家族を殺された人もいる」
「そういう人たちが、俺を信じられないのは……当然だ」
リリアが泣きそうな顔でアルを見る。
「アル……」
アルが笑う。
「でも、俺……諦めないから」
「いつか、必ず……」
マリアが静かに言う。
「……あなたは、本当に強いのね」
三人は、村から少し離れた森へ向かった。
森の中。
三人は野宿の準備をする。
焚き火を囲んで座る。
魔界の夜は、静かだ。
虫の声も、風の音も、全てが異世界的だ。
アルが、魔王からもらった酒の瓶を取り出す。
「……少し、飲もうかな」
リリアが心配そうに見る。
「アル、大丈夫?」
アルが笑う。
「大丈夫。ちょっと、落ち着きたいだけ」
魔界蒸留酒を一口飲む。
体の中に、温かいものが広がる。
——これは……。
アルが驚く。
いつもとは違う。
体の奥から、力が湧いてくる。
「……うん、美味い」
——そして、強い。
この酒は、ただの酒じゃない。
魔王が言った通り——。
「旅の途中で、きっと役に立つ」
アルは、その言葉の意味を、まだ知らない。
マリアが静かに言う。
「……アル」
「ん?」
「あなたは、本当に優しいのね」
アルが首を傾げる。
「え?」
マリアが続ける。
「あれだけ拒絶されたのに、怒りもしない」
「普通なら、もう諦めるはずよ」
アルが空を見上げる。
二つの月が、綺麗に輝いている。
「……俺、元の世界でも……」
アルが静かに語る。
「理解されないこと、多かったんだ」
「でも、それでも……分かり合いたいって思ってた」
「今も、同じ」
リリアがアルを見つめる。
「アル……」
リリアが立ち上がる。
「念のため、結界を張っておくわ」
リリアが手をかざすと、淡い光が三人を包む。
「これで、魔物も近づけないはず」
アルが笑う。
「さすがだな、リリア」
アルが笑う。
「さて、寝よう」
「明日、また次の村に向かうから」
三人は、焚き火の横で眠りについた。
◇
深夜。
焚き火が、小さくなっている。
リリアとマリアは、静かに眠っている。
アルは、眠れずに空を見上げていた。
——俺は、本当にこれで良かったのか……。
その時——。
微かに、風に乗って何かの匂いがした。
煙の匂い。
アルが立ち上がる。
「……煙?」
村の方角を見る。
遠くに、赤い光。
「……火事?」
いや、違う。
あの光は——炎だ。
大きな、大きな炎。
そして、結界の外から、風に乗って聞こえてくる。
悲鳴。
「——助けて!」
「過激派だ! 襲撃だ!」
アルの顔が凍りつく。
「……嘘だろ……」
リリアとマリアが目を覚ます。
「アル? どうしたの?」
「何の音?」
アルが村の方を指す。
「……村が、襲われてる」
マリアが立ち上がる。
「何ですって!?」
遠くから、さらに悲鳴が聞こえる。
炎が、どんどん大きくなっている。
リリアが叫ぶ。
「急いで助けに行かないと!」
アルが走り出す。
「行こう!」
マリアが叫ぶ。
「でも、あの村はあなたを追放したのよ!」
「それでも助けに行くの!?」
アルが振り返る。
その目は、真剣だ。
迷いなど、微塵もない。
「——関係ない」
「俺が守りたいのは、村の人たちだ」
「例え、俺を拒絶したとしても……」
アルが拳を握る。
「守りたいんだ!」
リリアとマリアが、アルを見つめる。
その姿に、二人は言葉を失う。
「……アル……」
三人が魔馬に乗る。
全速力で村へ向かう。
炎が、どんどん大きくなる。
悲鳴が、どんどん大きくなる。
アルが叫ぶ。
「間に合ってくれ……!」
魔馬が、夜の闇を駆ける。
二つの月が、その背中を照らしている。
炎の村が、目の前に迫る。
アルの目に、決意の光が宿る。
「——待ってろ、皆!」
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