59杯目 きみが見ていてくれたから
扉が開かれた。
月明かりが、金色の髪を照らす。
ルーナは屋敷の玄関に立ち、目の前の光景に息を呑んだ。
屋敷全体が——黒い糸に覆われていた。
まるで巨大な蜘蛛の巣のように、糸が壁を、天井を、床を這い回っている。生き物のように蠢き、屋敷を貪り食っている。
「なんて……こと……」
奥から聞こえる悲鳴。マリアの声。リーサの叫び。
そして——かすれたリリアの「助けて……」という声。
ルーナの瞳は怒りをにじませていた。
何か呪文を唱えると、 彼女から眩いばかりの光が放たれた。
光は屋敷全体を包み込み、黒い糸を次々と溶かしていく。
ジュウと音を立てて、糸が消滅していく。
壁から、天井から、床から——屋敷を覆っていた悪意が剥がれ落ちていった。
* * *
リヒトの亡骸がある部屋へ駆け込むと——そこには信じられない光景があった。
リリアが床に倒れている。その足首には、まだわずかに黒い糸が絡みついていた。
マリアとリーサが必死にリリアを助けようとしているが、糸は消えない。
「リリア! しっかりして!」
マリアが治癒魔法を放つが、黒い糸には効果がない。
リリアの瞳は完全に焦点を失っていた。呼吸は浅く、まるで人形のようだった。
「ルーナ姫……!」
マリアが振り返った。
「リリアが……! 黒い糸が……!」
ルーナはリリアの傍に膝をつき、その足首に絡みついた糸に手をかざした。
「リリア……大丈夫よ」
柔らかな光が、リリアの足首を包む。
黒い糸が、ジュウと音を立てて消えていく。
最後の一本が消えた時——リリアの体から力が抜けた。
マリアがリリアを抱き起こす。
「リリア……!」
リリアの瞼がわずかに動いた。だが——その瞳には、まだ何の光も宿っていなかった。
記憶は、まだ戻っていない。
「よかった……間に合って」
ルーナが静かに呟く。
「ゲルドさんも意識を取り戻したみたい!」
リーサが別室の方を指さす。マリアもそれを聞いてホッとした顔をした。
だが——ルーナの表情は険しいままだった。
「アルは? アルはどこ?」
マリアの顔が青ざめる。
「アルは……自分の部屋に……!」
ルーナは階段を駆け上がった。
* * *
アルの部屋の扉を開けた瞬間——ルーナの足が止まった。
アルが立っていた。
だが、それは生きている人間の立ち方ではなかった。まるで操り人形のように、糸に吊られているかのような不自然な姿勢。
その全身を、他の場所よりもはるかに太く、濃密な黒い糸が覆っている。
アルの瞳は虚ろで——そこにはもう、アルはいなかった。
「アル……私が来たわ」
ルーナは慎重に近づいた。
この糸は違う。屋敷を覆っていた糸よりも、はるかに悪質だった。直接、魂を蝕んでいる。
ルーナは手に光を宿し、アルの体から糸を取り除き始めた。
だが——これは困難を極めた。
糸はアルの魂に深く食い込んでおり、無理に剥がせば彼の精神を傷つけかねない。
「少しずつ……丁寧に……」
まるで外科手術のように、一本ずつ、慎重に糸を除去していく。
「アル……」
マリアが息を呑む。
「大丈夫、私に任せて」
ルーナは集中を切らさず、作業を続けた。
胸から、腕へ、足へと——光が触れるたびに、黒い糸が一本ずつ消えていく。
アルの表情が、少しずつ和らいでいった。呼吸も次第に安定してくる。
そして——最後の糸を取り除いた時。
アルの体が、がくりと床に崩れ落ちた。
ルーナは彼の傍に膝をつき、頬に手を当てた。
「アル……聞こえる?」
アルの瞼が、わずかに動いた。
みんなが息を呑んで見守る中——
* * *
「ル……ナ……」
アルの唇が動いた。
ルーナの顔が、ぼやけて見える。まるで水の向こうにいるように、輪郭が曖昧だった。
黒い糸の感覚が——少しずつ、薄れていく。
指先から始まって、腕、肩へと。あの生ぬるい絶望の感触が、遠ざかっていくのを感じる。
「アル……」
ルーナの声が、優しく響く。
アルはゆっくりと瞬きをして、視界を整えようとした。
「……俺は……」
かすれた声が漏れる。
「……皆に……嘘をついていた……」
アルの自嘲めいた言葉が始まった。
「仮面をかぶって……本当の自分を隠して……」
「ほんとは……何もできない……」
「周りを気にする……弱虫で……」
アルの声は途切れがちで、それぞれの言葉が重い。
「リヒトを守れなかった……」
「リリアの記憶も取り戻せない……」
「俺なんかに……何ができる……?」
ルーナは黙って聞いていたが、やがて小さくため息をついた。
「仮面、仮面って……アル、あなたはそればかり言うけれど」
ルーナの表情に、少し怒ったような色が浮かぶ。だが、その怒りには優しさが滲んでいた。
「その仮面は、偽りじゃない」
「それは本当のあなたなのよ。なぜ気づかないの?」
アルは首を横に振った。
「でも……俺は……嘘をついて……」
「みんなを騙して……」
「こんな俺が……本当の自分なんて……」
ルーナはアルの言葉を遮るように、手を上げた。
「そうね。あなたは仮面をかぶって、嘘をつき続けてきたかもしれない」
アルが驚いたような表情を見せる。
「でもね、アル——その仮面のおかげで、救われた人もいるのよ」
ルーナの頬が、少し赤らんだ。
「その中に……私もいる」
「俺が……お前を……?」
「私は、嘘が悪いとは思わない」
ルーナは優しく微笑む。
「あなたが仮面をかぶったのは、周りを思いやる優しさからでしょう?」
アルの瞳が揺らいだ。
「でも……もう仮面は……はがれてしまった……」
「みんな……俺のこと……嫌いになる……」
「遠ざけられる……」
その時——ルーナの表情が変わった。
「アル!」
少し強い口調になる。だが、すぐに優しい表情に戻った。
「あなたは……自分のことが、好きになれないの?」
「その仮面と呼んでいるものを、嘘をついている自分を……」
「もしそうなら——」
ルーナはアルの両手を握った。
「私が、全部肯定するわ」
「……え……?」
「弱った姿のアルも」
ルーナの言葉が、静かに続く。
「お酒を飲んで、みんなを楽しませようとするアルも」
「二日酔いになって、みんなに頼り切っているアルも」
「自分ができることを、一生懸命考えて行動するアルも」
「どんな困難でも『なんとかなる』と考えて、普通の人にはできないことをやってのけるアルも」
ルーナが少し照れながら、言葉を濁す。
「妙に鋭い感覚を持っているはずなのに……恋愛に対しては……」
そして、力強く言い切った。
「全部、全部——本当のあなたよ」
アルの目から——一筋の涙がこぼれた。
「ルーナ……」
声が震える。
「俺は……俺は……」
ルーナはアルの涙を見て、優しく微笑んだ。
「あなたは一人じゃない」
「私がいる。マリアも、リーサも、ゲルドも——そして……もちろんリリアも。みんな、あなたを信じている」
「リヒトも、あなたに託したの」
「だから——もう一度、立ち上がって」
ルーナはアルの涙を拭った。
「私が、あなたと一緒にいるから」
その瞬間——アルの瞳に光が戻っていった。
アルは拳を握る。
「……ああ」
「そうか俺は……馬鹿だな」
アルは何もない天井を見ながら目頭あたりをぬぐった。
「ふふっ、そうねほんと馬鹿よ」
ルーナは姫様とは思えない屈託のない笑顔で答えた。
「リリアを……取り戻す」
「皆を……守る」
「そして——」
アルはルーナを真っ直ぐに見つめた。
「お前と……みんなとまた飲み明かすんだ」
「俺は、俺をそんなすぐに好きになれるわけではないけどそれでも、受け入れようとも思う」
「ええ、それでいいのよ。それでこれからどうする?」
アルは体を伸ばしつつ答える。
「なんとかなるさ、といいたいところだけど俺一人じゃだめだ、リヒトから託されたものがあるって言ってたやつまだあるんだろ?」
アルは不敵に笑う。それを見てルーナは頬をうれしそうな赤らめた。
「さすが鋭いわね、もちろんあるわ」
「じゃあ早速教えてくれ、そうしたらなんとかする」
アルは任せろと言わんばかりに親指をたて、それに対してルーナも呼応するかのように親指を立てると二人は笑いあった。




