58杯目 絶望の果てに
黒い糸が指先を這い上がり、腕へと侵食していく。
扉の向こうから聞こえる悲鳴。マリアの声。リーサの叫び。
そして——リリアの、かすれた「助けて……」という声。
だが、俺の体は動かない。
* * *
リヒトの亡骸がある部屋。
黒い糸が床一面を覆い、まるで生きた絨毯のように蠢いている。
マリアは必死に治癒魔法を放っていた。
「癒しの力よ、この邪悪を祓い給え!」
温かな光が部屋を照らす。黒い糸が一瞬ひるんだ。
だが——すぐに再生し、より太く、より多く這い上がってくる。
「マリアさん……これ、きりがないよ……」
リーサが震え声で言った。
彼女は父の剣を握りしめているが、魔力相手にはなすすべがない。
「リーサちゃん、下がって!」
マリアが再び魔法を放つ。
その時——部屋の隅で、リリアがふらふらと立ち上がった。
「あの……ここは……どこですか?」
リリアの瞳は、完全に焦点を失っていた。
名前も、場所も、状況も——何一つ理解していない様子だった。
「リリアさん! しっかりして!」
マリアが駆け寄ろうとした瞬間——
黒い糸がリリアの足首に巻きついた。
「……っ!」
リリアの体が硬直する。
そして——彼女の瞳から、最後に残っていた光が消えた。
「やめて! リリアさんから離れて!」
リーサが叫びながら、剣で黒い糸を切ろうとする。
だが、刃は糸を通り抜けてしまう。物理的な攻撃は効かない。
「リリアさん……リリアさん!」
マリアの治癒魔法も、黒い糸には届かない。
リリアは——まるで人形のように、ただそこに立っているだけだった。
記憶だけでなく、意識そのものが奪われようとしている。
* * *
別室。
ゲルドは歯を食いしばりながら、ベッドから身を起こした。
体中が悲鳴を上げる。だが——このままでは皆が危ない。
「くそ……こんな時に……」
杖に体重を預けながら、なんとか立ち上がる。
壁に手をついて、魔力の流れを感じ取った。
「侵食魔法……それも、相当に高位の……」
ゲルドの分析が始まる。
この魔法は、対象の精神力を奪い取る。そして奪った精神力を術者に還元する——典型的な搾取系の魔術だ。
防ぐ方法は、ないわけではない。
「対抗魔法を……」
ゲルドは杖を構えた。
だが——体が限界だった。
魔力を練り上げようとした瞬間、激しいめまいが襲う。
「ぐっ……!」
膝をつく。
それでも——諦めるわけにはいかない。
「皆を……守らないと……」
最後の力を振り絞って、防御結界を展開しようとした。
その時——
体が、がくりと崩れ落ちた。
「アル……頼む……」
意識が遠のいていく中で、ゲルドは仲間の名を呟いた。
* * *
王都の地下、廃棄された下水道。
マーカスは転移魔法で飛ばされた先で、辺りを見回していた。
「くそ……またこのパターンかよ……」
石造りの壁に囲まれた狭い空間。出口は見当たらない。
だが——前回とは違う点があった。
壁の一角に、古い文字が刻まれている。
「これは……古代文字か?」
マーカスは文字に近づいた。
読める文字もある。断片的だが——
「……封印……条件……心の……」
全ては読み取れないが、何かの手がかりのようだった。
「リヒトが言ってた『条件』って、これのことか?」
マーカスは石壁を調べ始めた。
文字の下に、小さな窪みがある。何かをはめ込む形状だ。
「鍵……いや、触媒か?」
その時——転移魔法の痕跡を感じ取った。
「戻る方法があるのか……?」
だが、魔法陣は不完全だった。何か足りない。
「畜生……! 皆が危ないってのに……!」
マーカスは拳を壁に叩きつけた。
血がにじむ。だが——その血が、古代文字にわずかに触れた。
瞬間——文字が微かに光った。
「血液……? まさか……」
マーカスの目が見開かれる。
スーを倒す条件——それは、特定の血統。特定の魂の在り方。
そして——
「アル……お前じゃないと、だめなのか……?」
* * *
屋敷、メインフロア。
黒い糸は屋敷全体に広がり、まるで巨大な蜘蛛の巣と化していた。
糸は生き物のように蠢き、屋敷の隅々まで侵食している。
リヒトの亡骸がある部屋から、マリアとリーサの悲鳴が聞こえる。
ゲルドの部屋からは——もう何も聞こえない。
そして——
アルの部屋の扉が、ゆっくりと開いた。
黒い糸に覆われたアルが、まるで操り人形のように立ち上がる。
その瞳は虚ろで——もう、そこにアルはいなかった。
黒い糸が、獲物を捕らえたかのように満足げに揺れている。
その時——屋敷の玄関で、足音が響いた。
誰かが来る。
ゆっくりと、確実に——
扉が開かれる音。
そして——
金色の髪が、月明かりに照らされた。




