57杯目 絶望の糸
扉の向こうでマーカスが叫んでいる声が、遠くで響いていた。
けれど、俺の耳には——ただ雑音みたいにしか届かない。
酒の匂いが部屋にこもる。
床に転がった瓶。喉の焼ける感覚だけが、現実の証拠だった。
新月まで、あと数時間。
王都全体の記憶を奪う儀式が発動する。
分かっている。分かっているのに——体が動かない。
俺は目を閉じた。
目を閉じても、リヒトの最後の顔が浮かぶ。
リーサの叫びも、リリアの困惑も、全部がまとわりついて離れない。
* * *
屋敷のメインフロア。
マーカスは机に広げた地図と、羊皮紙の走り書きを睨みつけていた。
新月までの残り時間。
儀式を止める方法。
スーを倒す条件——リヒトが残した「条件」という言葉だけが、喉に刺さって抜けない。
「条件ってのは何だ……。くそ……」
情報が足りない。
動ける戦力も足りない。
ゲルドは別室で寝かせてある。蒸留酒の肉体強化で死は免れたが、まだ立てる状態じゃない。
マリアはリーサと共に、リヒトの亡骸の側から離れられない。
リリアは——屋敷のどこかにいる。だが、記憶の揺らぎは目に見えて進行している。
そして、アルは自室に籠ったまま。
「……あいつが、いねぇと始まらねぇのに」
マーカスは舌打ちした。
でも、ただ扉を叩いても意味がない。
リヒトの死と、リリアの喪失と、迫る新月が——一気に、アルの芯を折った。
そんなときだ。
屋敷の奥——玄関とは別の、使用人用の通路から、微かな音がした。
風? 違う。
足音だ。ゆっくりと、迷うような歩み。
マーカスは即座に剣を抜いた。
「……誰だ」
返事はない。
代わりに、屋敷の空気が変わった。
肌にまとわりつく冷たさ。
鼻を刺す、鉄錆のような匂い。
そして——床の隙間から、細い黒い糸みたいな魔力が、這うように伸びてきた。
「結界……いや、侵食か」
マーカスは歯を食いしばった。
スーの手下の魔術だ。屋敷を外から破るんじゃない。内側から、じわじわ食い破る。
——つまり、最悪の誤算。
「ここに来るつもりかよ。俺たちが動けねぇって分かってて……」
スーは、急がない。
新月まで待てば勝ちなのに、わざわざ「崩す」ために手を伸ばしてくる。
絶望を、最後の一滴まで絞り取るために。
* * *
別室。
ゲルドは冷たい汗を浮かべ、唇を噛みしめていた。
体中が鉛のように重い。
意識だけが、嫌に冴えている。
壁の向こうの気配が、分かる。
魔力の流れが、屋敷の中へ侵入している。
「……やはり、準備段階で終わらせる気はないか」
ゲルドは枕元の杖に手を伸ばそうとして、指先が震えるのを見て歯を食いしばった。
こんな時に、動けない。
——違う。動かないといけない。
だが、立ち上がった瞬間、視界が揺れた。
内臓が裏返るような吐き気。
アルの介入で、命は助かった。だが体の損耗は大きい。
「マーカス……早まるな……」
声は小さく、届かない。
ゲルドは、布団を握りしめた。
頭の中で計算する。新月までの残り時間。敵の侵入経路。こちらの戦力。
結論は——冷酷だった。
このままでは、屋敷は持たない。
* * *
リヒトの亡骸のある部屋。
マリアはリーサの肩を抱いたまま、涙を堪えていた。
リーサは、泣き疲れて目を腫らしている。
それでも父の手を離そうとしない。
「父さん……ごめん……私が、来ちゃったから……」
「リーサちゃん、違う。あなたのせいじゃない」
マリアは必死に否定した。
だが、リーサの罪悪感は簡単に消えない。
そこへ、部屋の隅でじっとしていたリリアが、小さく呟いた。
「……この人……大切な人、だったんですね」
マリアは息を飲む。
リリアはリヒトを覚えていない。なのに——悲しみだけは拾ってしまう。
その視線が、ふと宙を泳いだ。
「……でも……どうして、胸が……痛いの……?」
リリアは自分の胸元を押さえ、眉をひそめる。
「リリアさん?」
マリアが近づこうとした、そのとき——
リリアの足元に、黒い糸のような魔力が這い上がった。
「……っ!」
リリアの体が強張る。
目の焦点が、一瞬で揺らいだ。
「……え……?」
マリアの背筋が凍る。
これは——ただの呪いの進行じゃない。
外から“触れてきている”。
「やめて……! スー……!」
マリアが叫ぶ。
黒い糸が、リリアの足首に絡みつく。
まるで、引きずり込もうとする手のように。
「リーサちゃん、下がって!」
マリアは治癒の光を放ち、黒い糸を焼こうとした。
だが、糸は切れない。
熱で焦げても、すぐに次が生えてくる。
その時、リリアが震える声で言った。
「……アル……さん……?」
その呼び方が、あまりに曖昧で。
まるで、紙に書かれた名前を読んだだけみたいで。
リーサが唇を噛んだ。
「……アル兄、どこ……?」
* * *
メインフロア。
マーカスは扉の向こうから聞こえた悲鳴に、血の気が引いた。
「マリア……?」
次の瞬間、床下の黒い糸が一気に増殖した。
屋敷の柱、壁、天井へと伸び、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。
——屋敷そのものが、罠になっていく。
「くそ……! 止める!」
マーカスは剣で糸を断ち切った。
だが切ったそばから、また生えてくる。
その奥から、声がした。
柔らかい。穏やかで、丁寧な——商人の声色。
「焦るな。急ぐ必要はない」
マーカスは歯を剥いた。
「……スー」
姿は見えない。
だが、確かにそこにいる。
「新月になれば、王都は完成する。……私はただ、その前に“整える”だけだ」
「整える?」
「君たちが諦めるように。君たちが壊れるように。——そして、アルが絶望を忘れないように」
笑い声が、屋敷に溶けた。
マーカスは叫んだ。
「アル!! 出てこい!! 今すぐだ!!」
扉の向こうは、沈黙。
そして、黒い糸は——アルの部屋へ向かって、確実に伸びていった。
マーカスは走った。
剣で糸を断ち切りながら、廊下を駆ける。
だが——
床の魔法陣が、ぼうっと浮かび上がった。
転移の陣。
「……またかよ!」
マーカスが踏み込もうとした瞬間、足元が光に包まれる。
スーの声が、耳元で囁いた。
「君は、間に合わない」
光が弾け——
マーカスの体が、屋敷から消えた。
* * *
アルの部屋。
扉の下から、黒い糸が伸びてきた。
ゆっくりと。確実に。
まるで、獲物の呼吸を測る蛇のように。
俺は床に横たわったまま、それを見ていた。
怖いのに、動けない。
止めなきゃいけないのに、腕が上がらない。
「……もう、どうでもいい……」
口から漏れた声は、驚くほど乾いていた。
次の瞬間——扉の向こうで、何かが倒れる音がした。
マリアの悲鳴。
リーサの泣き声。
そして、リリアの——かすれた声。
「……たすけ……て……」
その声が、俺の胸を刺した。
けれど、立ち上がれない。
黒い糸が、俺の指先に触れた。
冷たい。
——それは、諦めの温度だった。




