55杯目 絶望の始まりは向き合うこと
リヒトを——俺たちは屋敷へ運んだ。
マーカスが肩を貸し、俺が足を支える。
リーサは父親の手を握りしめたまま、涙を流し続けている。
「父さん……父さん……」
リーサの声は嗄れ、もう声にならない。
だが、彼女は父親の名を呼び続ける。
俺の胸も——締め付けられるように痛んだ。
リヒトが——死んだ。
200年前の勇者、俺たちの仲間、リーサの父親が——もうこの世にいない。
屋敷の扉が見えてきた。
重い足取りで、俺たちは歩き続ける。
* * *
扉が開くと、マリアが駆け寄ってきた。
その後ろには、ゲルドとリリアの姿もある。
「皆さん! 無事で——」
マリアの言葉が、途中で止まった。
俺たちが運んでいるリヒトの姿を見て、彼女の顔が青ざめる。
「まさか……リヒトさんが……」
「死んだ」
マーカスが重い口調で言った。
「スーの手下と戦って……リーサを庇って……」
マリアの目に涙が浮かぶ。
ゲルドも言葉を失い、ただ立ち尽くしている。
そして——リリアが、困惑した表情で俺たちを見ていた。
「あの……その方は……」
リリアの言葉に、俺の心が沈む。
彼女は——リヒトのことを覚えていない。
「仲間だった人だ」
俺は短く答えた。
それ以上は——説明できなかった。
俺たちはリヒトを居間に運び、そっとソファに横たえた。
リーサはまだ父親の手を握り、泣き続けている。
「マリアさん……何か……治癒魔法で……」
リーサが必死に訴える。
マリアは悲しそうに首を振った。
「リーサちゃん……もう……」
「嫌よ! 父さんが死ぬなんて……そんなの絶対に嫌!」
リーサの叫び声が、屋敷に響く。
俺は——何も言えなかった。
リヒトは死んだ。
俺がもっと早く駆けつけていれば——
もしかしたら、助けることができたかもしれない。
だが、もう遅い。
全てが——手遅れだった。
* * *
深夜、リーサは父親の傍らで眠りついた。
泣き疲れて、力尽きたのだろう。
マリアが毛布をかけてくれた。
俺は窓の外を見つめていた。
空には、巨大な魔法陣が浮かんでいる。
それは明日の夜——新月に完全発動する。
王都全体を覆う巨大な円。
それが——明日の夜に完全発動する。
「新月……」
俺は呟いた。
王都の全ての人々が記憶を失う。
家族の顔も、自分の名前も、大切な思い出も——全て消え去る。
そして俺には——それを止める術がない。
リヒトを失い、仲間たちは疲弊している。
リリアの記憶も戻らず——
俺は、何一つ守ることができなかった。
「アルさん……」
リリアが俺に声をかけてきた。
振り返ると、彼女は不安そうな表情で立っている。
「あの……私、あなたのことが思い出せなくて……本当にすみません……」
リリアの言葉が、俺の心に刺さる。
最近は——俺の名前すら、曖昧になってきている。
「アルさん」と呼ぶが、それも他人に聞いた名前のような感覚で、実感がない様子だった。
「気にするな……」
俺はそう言ったが、心の中では激しい痛みが走っていた。
リリアは俺を心配そうに見つめている。
「でも……あなた、とても辛そうに見えます……」
彼女の優しさが、逆に俺を苦しめる。
記憶を失っても——リリアは変わらず、他人を思いやることができる。
だが、俺は——
「ごめん。一人にさせてくれ」
俺はリリアから視線を逸らした。
「アル……」
マーカスが声をかけてくるが、俺は首を振った。
「頼む……今は……」
俺は自分の部屋へ向かった。
* * *
部屋に入ると、俺は扉に鍵をかけた。
そして——机の上にあった酒瓶を手に取る。
蒸留酒。
俺は瓶の栓を抜き、口を付けた。
喉を焼く強い酒が、体の中に流れ込む。
だが——全く楽しくない。
美味しくもない。
ただ——現実を忘れたいだけだった。
「リヒト……」
俺は呟きながら、また酒を飲んだ。
「俺は……お前を救えなかった……」
部屋の中に、俺の声だけが響く。
誰も答えてくれない。
リヒトはもういない。
リリアは俺のことを覚えていない。
王都は明日、全ての記憶を失う。
「何のために……戦ってきたんだ……」
俺は床に座り込み、酒瓶を抱えた。
「誰も……守れなかった……」
酒が回り始める。
だが、心の痛みは消えない。
むしろ——より鮮明になる。
「俺は……無力だ……」
涙が頬を伝って落ちる。
いつも「なんとかなる」と思っていた。
どんな困難でも、仲間と一緒なら乗り越えられると信じていた。
だが——現実は違った。
俺には何もできない。
ただの——無力な男だ。
* * *
時間が経つのもわからず、俺は酒を飲み続けていた。
何本目かもわからない。
頭がぼんやりとして、体に力が入らない。
だが——心の痛みだけは、決して消えなかった。
窓の外が明るくなり始めている。
夜明けが近い。
そして——今夜が新月。
スーの最終計画が発動する。
「俺は……もう……」
声にならない呟きが、部屋に消えていく。
これまでの俺らしさってなんだっけ?
全て——失われていた。
俺は——完全に諦めていた。




