53杯目 君が忘れようとも
扉を開けると、屋敷の中は静まり返っていた。
廊下を進み、居間へと向かう。
一歩ごとに、心臓の鼓動が早くなる。
リリアは——俺のことを、覚えているのか?
俺の手が震える。
居間の扉の前で、俺は立ち止まった。
深呼吸をして、ノックする。
「……どうぞ」
リリアの声が聞こえた。
俺は扉を開けた。
* * *
居間には、リリアがソファに座っていた。
その隣には、マリアとリーサが付き添っている。
リリアが俺を見た。
その瞳——
「リリア……」
俺は彼女の名を呼んだ。
リリアは俺を見つめる。
一瞬、その目に何かが宿ったように見えた。
だが——
「あの……」
リリアが困惑した表情で言う。
「すみません……あなたは……」
その言葉に、俺の心臓が凍りついた。
「俺だ。アルだ」
俺は必死に言葉を紡ぐ。
「お前を助けに来た。覚えてないか? 俺たちは——」
「アル……さん?」
リリアが首を傾げる。
「その名前……どこかで……」
リリアは額を押さえた。
「頭が……痛い。思い出そうとすると……」
「リリア!」
俺は彼女に駆け寄ろうとした。
だが、マリアが俺を制した。
「アルさん……落ち着いてください」
マリアの目には、悲しみが滲んでいた。
「リリアさんは……記憶が混乱しているんです。急に話しかけると、余計に混乱してしまう」
リーサも涙を浮かべながら頷く。
「リリアさん……アルさんのことを、思い出そうとしてるんです。でも……」
俺は立ち尽くした。
リリアが——俺のことを忘れている。
完全ではない。名前は、どこかで聞いた覚えがあるようだ。
だが——俺たちの関係、共に過ごした時間、全て——霞んでいる。
* * *
「リリア……」
俺は震える声で言った。
「俺だよ。アルだ。お前と一緒に——戦い、呑んで、笑いあった仲間だ」
リリアは俺を見つめる。
その瞳には、困惑と不安が入り混じっている。
「アル……さん……」
リリアがゆっくりと口を開く。
「ごめんなさい……あなたのこと、覚えていないんです」
その言葉が——俺の心を完全に打ち砕いた。
「何も……思い出せなくて……」
リリアの目に涙が浮かぶ。
「私、何かとても大切なものを忘れている気がして……でも、それが何なのか……」
リリアが自分の胸を押さえる。
「ここが……苦しいんです。何か、大事なことを忘れている気がして……」
俺は膝をついた。
守ると約束した。
絶対に失わないと誓った。
だが——
間に合わなかった。
俺たちの出会い、共に過ごした時間、交わした約束——
全て、彼女の記憶から消えている。
「くそ……!」
俺の拳が、床を叩いた。
スーの言葉が、頭の中で響く。
「お前が大切な者から忘れられる瞬間——その時のお前の表情こそが、最高の混沌だ」
これが——スーの狙いだったのか。
俺を絶望させるために、リリアの記憶を奪った。
そして、俺に直接対面させて——絶望を味わわせる。
「さすがにこれはこたえるに決まってんだろ……!」
俺は歯を食いしばった。
* * *
「アルさん……」
マリアが俺に声をかける。
「リリアさんは……完全に記憶を失ったわけではありません。断片的に、何かを覚えているようです」
マリアの言葉に、俺は顔を上げた。
「本当か?」
「ええ。さっきも、『アル』という名前を聞いて、どこかで聞いた覚えがあると言っていました」
リーサも頷く。
「まだ……希望はあります」
俺はリリアを見た。
リリアは困惑した表情で俺を見つめている。
「あの……本当にごめんなさい」
リリアが申し訳なさそうに言う。
「私、あなたのことを……思い出せなくて……」
その言葉に、俺の胸が締め付けられる。
だが——
マリアの言う通り、まだ希望はある。
リリアは完全に記憶を失ったわけではない。
ならば——
「リリア」
俺は立ち上がって、彼女の前に座った。
「大丈夫だ。焦らなくていい」
俺はリリアの手を取った。
「俺が——お前の記憶を取り戻す。必ず」
リリアが俺を見つめる。
その瞳には、まだ困惑があるが——どこか、安心したような光も宿っている。
「ありがとう……ございます」
リリアが小さく微笑んだ。
その笑顔を見て、俺は決意を新たにした。
絶対に——リリアの記憶を取り戻す。
スーの呪いなんかに、負けてたまるか。
* * *
その時——
屋敷の外から、爆発音が響いた。
「!?」
全員が窓の方を見る。
王都の空が——赤く染まっていた。
「何だ……?」
俺は窓に駆け寄る。
王都のあちこちで、炎が上がっている。
そして——空に、巨大な魔法陣が浮かび上がっていた。
「まさか……スーの儀式が!」
俺は叫んだ。
マリアも顔色を変える。
「王都全体の記憶を奪う儀式……始まってしまったんですか!?」
その瞬間——
魔法陣から、強烈な光が放たれた。
光が王都全体を包み込む。
「くそ……!」
俺は拳を握りしめた。
リヒト、マーカス、ゲルド——仲間たちはどこにいる?
そして——この儀式を止めなければ、王都の人々全員が記憶を失ってしまう。
俺は振り返って、リリアを見た。
リリアは不安そうに俺を見つめている。
「リリア……必ず、お前の記憶を取り戻す。そして——スーを止める」
俺は決意を込めて言った。
「待っていてくれ」
リリアが小さく頷く。
俺は屋敷を飛び出した。
* * *
王都の街は、混乱に包まれていた。
人々が逃げ惑い、叫び声が響く。
空の魔法陣は、さらに強い光を放ち始めている。
「リヒト! マーカス! ゲルド!」
俺は仲間たちの名を叫びながら、街を駆け抜ける。
スーの転移魔法で、それぞれが別の場所に飛ばされた。
皆、無事だろうか。
そして——どこにいる?
その時——
遠くから、剣戟の音が聞こえた。
俺はその方向へ走った。




