51杯目 地下水路での最悪
新月の夜まで、あと二日。時間が刻々と迫る中、俺たちは屋敷の広間に集まっていた。窓の外は曇り空。重苦しい雲が空を覆い、まるで嵐の前触れのようだった。
広間には、アル、リヒト、マーカス、ゲルド、マリア、リーサ——そして、リリアの姿があった。
「まず、廃教会について整理しよう」
マーカスが地図を広げる。
「昨夜、俺とアルがあの場所でスーの手下と思われる声を聞いた。『新月の夜に、全てが完成する』『王都の者たち全員の記憶を奪う』という内容だった」
一同の表情が険しくなる。
「つまり、廃教会はスーの拠点の1つである可能性が高い」
ゲルドが分析する。
「ならば、正面から突入すべきでは?」
マリアが提案するが、リヒトが首を横に振った。
「いや、危険だ。あの場所は強力な結界で守られている。正面から入れば、確実に罠が待っている」
リヒトの長年の経験が、そう告げていた。
「では、どうやって侵入する?」
「地下水路を使う」
リヒトが地図の一点を指差した。
「王都の地下には、古い水路網が張り巡らされている。その一つが、廃教会の地下に繋がっているはずだ」
「地下水路……確かに、そこからなら気づかれずに侵入できるかもしれないな」
マーカスが頷く。
「だが、危険も伴う。地下は暗く、罠も仕掛けられている可能性がある」
ゲルドが警告する。
「それでも、正面突破よりは安全だ」
リヒトが断言した。
「では、地下水路から潜入する作戦で決定だな」
俺が結論を出す。
だが、その時——
「私も……行きます」
リリアが震える声で言った。
「リリア!?」
俺は驚いて彼女を見る。リリアの顔色はまだ良くない。昨夜の意識の混濁が、まだ尾を引いているようだった。
「このまま何もせずにいられません。私にも……戦う理由があります」
リリアの目には、強い決意が宿っていた。
「だめだ。お前の体調はまだ万全じゃない」
俺は強く反対した。
「でも……!」
「リリア」
リヒトが優しく声をかける。
「お前の気持ちは分かる。だが、今のお前には休息が必要だ。無理をすれば、かえって皆の足を引っ張ることになる」
リヒトの言葉は厳しくも、優しさに満ちていた。
「……わかりました」
リリアは渋々頷いた。だが、その表情には悔しさが滲んでいる。
「リリア、お前は屋敷で待っていてくれ。マリアとリーサと一緒に」
俺が彼女の肩に手を置く。
「必ず、戻ってくるから」
リリアは俺を見つめ、小さく頷いた。
* * *
会議が終わり、皆が準備に取り掛かる中、リヒトはリーサを呼び止めた。
「リーサ、少しいいか?」
「父さん……」
リーサが父親の元へ歩み寄る。二人は広間の隅で向き合った。
「今夜の作戦は……危険だ」
リヒトが静かに言う。
「わかってる。でも、父さんなら大丈夫だよ」
リーサは明るく笑おうとしたが、その目には不安が滲んでいた。
「リーサ……お前は本当に強い子に育った」
リヒトが娘の頭に手を置く。
「母さんが聞いたら喜ぶだろうな。『リーサは立派になったわね』って」
リヒトの声には、深い愛情が込められていた。
「父さん……」
リーサの目に涙が浮かぶ。
「もし……もしものことがあったら、母さんのことを頼む」
「父さん、そんなこと言わないで!」
リーサが父親に抱きつく。
「大丈夫だ。必ず帰ってくる」
リヒトがリーサの背中を優しく撫でる。
「お前を、母さんを、守るために戦う。それが俺の——父親としての使命だ」
リヒトの言葉に、リーサは泣きながら頷いた。
その光景を遠くから見ていた俺は、胸が熱くなった。親子の絆——それは、どんな力よりも強いものなのかもしれない。
* * *
夕方、俺は一人でリリアの部屋を訪れた。
ノックをすると、リリアの声が聞こえた。
「……どうぞ」
部屋に入ると、リリアはベッドに座っていた。窓の外を見つめる彼女の横顔には、不安と恐怖が滲んでいる。
「リリア……」
俺が声をかけると、リリアが振り返った。
「アル……」
「体調はどうだ?」
「大丈夫……です」
リリアは弱々しく微笑む。だが、その笑顔は明らかに無理をしている。
俺はリリアの隣に座った。
「怖いか?」
俺の問いに、リリアは小さく頷いた。
「……怖いです。何が起こるのか、わからなくて……」
リリアの声が震える。
「私、最近……時々、記憶が曖昧になるんです。自分がどこにいるのか、何をしていたのか……わからなくなる瞬間があって」
リリアは自分の手を見つめた。
「このまま……私は、すべてを忘れてしまうんでしょうか」
その言葉に、俺の胸が締め付けられた。
リヒトから聞いた情報——スーの呪いで記憶を奪われている可能性。だが、俺はそれをリリアに伝えることができなかった。不安を煽るだけだ。
「大丈夫だ」
俺はリリアの手を握った。
「必ず、お前を守る。何があっても——」
リリアが俺を見つめる。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「アル……」
「俺は、お前を失いたくない」
俺の言葉に、リリアの頬が赤く染まる。
「私も……アルを失いたくないです」
リリアが俺の手を握り返した。
二人の間に、温かな沈黙が流れる。窓の外では、夕焼けが空を染めていた。オレンジ色の光が、二人を優しく包み込む。
「必ず、戻ってきてください」
「ああ。約束する」
俺はリリアの手を強く握った。
* * *
深夜、俺たちは出発の準備を整えた。
アル、リヒト、マーカス、ゲルドの四人。軽装備で、武器は最小限。地下水路は狭く、大きな荷物は邪魔になるからだ。
「では、行こう」
リヒトが先頭に立つ。
屋敷の玄関には、リリア、マリア、リーサが見送りに立っていた。
「気をつけて」
リリアが祈るように言う。
「必ず帰ってきますから」
俺は彼女に微笑みかけた。
リーサはリヒトの手を握り、涙を堪えている。
「父さん……必ず、帰ってきてね」
「ああ。約束だ」
リヒトが娘の頭を撫でる。
「では、出発する」
リヒトの声を合図に、俺たちは夜の王都へと踏み出した。
* * *
王都北側、地下水路の入り口。
鉄格子で閉ざされた入口を、ゲルドが魔法で開く。軋んだ音を立てて、格子が開いた。
「ここからは慎重に行くぞ」
リヒトが警告する。
俺たちは松明を手に、暗い地下水路へと降りていった。
冷たく湿った空気が肌を刺す。足元には水が流れており、一歩ごとに水音が響く。
「廃教会の地下までは、約三十分だ」
リヒトが地図を確認しながら言う。
地下水路は迷路のように入り組んでいた。何度も曲がり角があり、方向感覚を失いそうになる。
「止まれ」
突然、リヒトが手を上げた。
「何か……いる」
リヒトの勘が、危険を察知していた。
松明の光が届かない暗闇の奥から、微かに何かが動く気配がする。
「罠か……?」
マーカスが剣を抜く。
だが、その気配は徐々に遠ざかっていった。
「……行ったようだ」
ゲルドが安堵の息をつく。
「油断するな。ここからが本番だ」
リヒトが前に進む。
俺たちは緊張を保ちながら、廃教会の地下へと向かった。
* * *
約三十分後、俺たちは廃教会の地下に到達した。
石造りの地下室。天井は高く、古い柱が立ち並んでいる。だが、空気は異様に冷たく、どこか邪悪な雰囲気が漂っていた。
「ここが……廃教会の地下か」
マーカスが周囲を見回す。
「上への階段があるはずだ」
リヒトが奥を指差す。
その時——
パチン。
松明の火が突然消えた。
「!?」
全員が警戒する。
そして、闇の中から——
笑い声が聞こえた。
「よく来たな、アル」
その声は、冷たく、邪悪で——
スーの声だった。
「スー……!」
俺は闇の中で叫んだ。
「待っていたよ。君たちが来ることを」
スーの声が、地下室に響き渡る。
「そして——君の大切な者が、今、記憶を失おうとしている」
「リリアが……」
「そう。ちょうど今、屋敷で——彼女の記憶が、消えていく」
スーの言葉に、俺の心臓が激しく鼓動した。頭が揺れる。
「急げ! 屋敷に戻るんだ!」
俺は叫び、来た道を引き返そうとした。
だが——
「遅い」
スーの声が、俺を嘲笑った。




