“not-yet-love”な彼女
多重人格のユミとの会話を、
恐怖で強制終了させた後、オレの
胸の奥に残ったのは安堵でも怒りでもなく、
ただの空虚だった。
大きく息を吐く。
画面の光が、部屋の片隅でやけにまぶしい。
自分からブロックしたはずなのに、
オレの中にはまだ“もうひとりのオレ”――
ユミが言っていた「乙女なオレ」が、
確かに息づいていた。
少しセンチメンタルな気分のまま、
冷蔵庫からビールを取り出して戻ると、
チャット欄にひとつのハンドルネームが目に入った。
not-yet-love(まだ恋を知らない)。
現在、乙女モード継続中のオレは、
また――誰かの心に触れてしまう。
次に会話した相手は女子高生。
ハンドルネームは
not-yet-love。
――まだ恋を知らない。
アイコンは白いマフラーを巻いた後ろ姿。
プロフィールには「高2/恋ってなんですか」とだけ。
あまりに素直すぎて、逆に警戒してしまう。
『こんばんは。えーっと。おじさんと付き合い
たいとかじゃないんだけど…』
『でも、おじさんの投稿、なんかすごくわかる気がして。』
おじさん? まだ三十路にもなってないのに。
まあ、高校生から見ればそうか。
けれど世の中のネット民に叩かれている中で、
“わかる”と言ってくれる誰かがいる――
それだけで、妙に救われた気がした。
⸻
話してみると、彼女は恋をしたことがないらしい。
『おじさん、すぐいろんな人を好きになれるんでしょ?』
『どれくらい好きなの? 息が苦しくなるくらい?』
『それとも、世界がモノクロになって、
好きな人だけカラーに見えるとか?』
『それ、本当に“好き”って気持ちだったの?』
思わず笑ってしまった。
ドラマや小説のセリフみたいだ。
「おじさんの“好き”を疑ってるのか?」
「共感してくれたんじゃないの?」
そう返してみる。
うん、じじいっぽい。
『共感したいのはね、
一人の人だけを好きになりたいってとこ。』
『でもできない、ってとこ。』
――おじさんだって、
一人の人だけを好きでいたいんでしょ?
画面越しの文字が、まっすぐ胸に刺さる。
彼女は真剣で、そして驚くほど純粋だった。
⸻
徐々に彼女は自分の話しをする。
『すごく仲のいい幼なじみに告白されたんだ。』
『優しくていい人。でも、付き合うなんて考えたことなかった。』
『冗談っぽく断ったら……その子、泣いちゃって。』
『その涙を見て、“好きになってあげたい”って思ったの。』
『でも、どんなに頑張っても心が動かなかった。』
オレは小さく息をついた。
オレも“心が動かないように”努力したことがある。
息を止めて、情熱が冷めないように祈った夜もあった。
でも――心は、言うことを聞かない。
⸻
「なるほどな……」
しばらく間を置いて、オレはキーボードを打った。
「少し乙女なことを言ってしまうけど」
「おじさんが初めて人を好きになったとき、
この世の秘密が解けた気がしたんだ」
「その人のことしか考えられなくて、
胸が苦しくて、バカみたいなこともした」
『そう!それそれ!!!』
『いやだー!!本当にそんな気持ちになるんだ〜』
スクリーンの向こうで、
彼女が跳ねているのが見えるようだった。
乙女チックなスタンプが、画面を埋め尽くす。
恋を“体験してみたい”という憧れが、
そこに透けていた。
⸻
少しして、女子高生から予想外の
メッセージが届いた。
『ねえ、今度会おうよ。』
……嫌な予感がした。
一応相手の設定は高校生だ。
会うのは危ない。
けれど、彼女のまっすぐさは、
オレの中の“乙女な部分”をくすぐる。
ユミの言葉を借りれば、
オレの中の“乙女”が、この子と話しているのかもしれない。
「ごめん、オレはおじさんだから。会うのはやめとこう」
「今の世の中、慎重に動かないとね」
少し間をおいて、返ってきたのは短いメッセージだった。
『えー残念っ。』
スタンプアゲイン。
今度は涙の絵文字が満載だ。
その画面を見て、オレは思わず笑った。
「飽きないでしょ?」
――ユミの口癖が、ふと頭をよぎる。
会えなくても、文字の海を渡るように、
オレと彼女は感情の世界を旅していた。
実際に会うことはないという
しょぼんとした気持ちと、わかってくれた少しの嬉しさ。
それが、すべてだった。




