僕のために犠牲になってください
封蝋を破る音が書斎に響く。
中から羊皮紙の手紙を取り出し、ゆっくりと目を通す。
手紙を読み終えた僕は、思わず口元に笑みが浮かんだ。
……最悪だな。
「旦那様?」
紅茶を運んできた使用人が、僕の表情を見て首をかしげる。
「ああ、すまない。少し出かけることになった」
「お仕事ですか?」
仕事。そう言えるのかもしれない。
「王都に行く。留守番、頼んだぞ」
「はい。お待ちしております」
近くに掛けてあったコートを手に取り、羽織る。
そのまま深く、息を吐いた。
──また、戦争か。
ーー
「アルヴィン! 本当にお前が来るとはな!」
王都の酒場。
声をかけてきたのは、かつての戦友、ガレスだった。
彼は笑いながら、僕の肩を豪快に叩く。
「グラムール大戦の英雄様が、また剣を取ってくれるとはなぁ!」
「英雄なんかじゃない」
僕はエールを一気に飲み干した。
「ただの人殺しだ」
ガレスは肩をすくめ、「やれやれ」とでも言いたげな表情を浮かべた。
「そんなふうに言うなよ。お前のおかげで、俺たちは生きて帰れたんだ」
生きて帰れた。
そうだ。僕たちは帰れた。
だが、敵の兵士たちは……
小さく首を振った。
「今度の戦争、どう思う?」
僕が尋ねると、ガレスの表情が曇る。
「東方連合の魔導師軍団が厄介らしい。前回みたいにはいかないだろうな」
魔導師軍団。
グラムール大戦では魔法なんて脅威ではなかった。時代は変わっているのか。
「怖いか?」
僕は聞いた。
「当たり前だ。家族もいるしな」
ガレスは苦笑いを浮かべる。
「お前は? アルヴィン」
「僕は……」
ほんの少し、考えた後、答えた。
「僕も、怖いさ」
僕は嘘をついた。
ーー
国境最前線、湿った土と血の匂いが入り混じる、灰色の平原。
空は重く垂れこめ、雲の向こうで雷がくぐもった笑い声を上げている。
荒れた丘の上に、僕らは身を潜めていた。
前夜に張った木柵が、風で軋んでいる。
「ここが今から戦場になるなんてなぁ……本当に敵なんてくんのか?」
隣に座っているガレスが話しかけてきた。
「くるさ」
僕がそう答えると、ガレスは黙った。
緊張なのか、恐怖なのか。
どちらにせよ、この戦争においては関係のないことだった。
そのとき、角笛が鳴る。
遠く、東の樹海から黒い旗が見えた。三日月と星の紋章──東方連合軍だ。
「来たな」
ガレスが斧を構えた。
僕も近くの剣を手に取った。
そして、戦いが始まった。
丘を駆け下りる音が連なる。弓兵が矢を放ち、剣と剣がぶつかり合う音が響いた。
剣を握る手に力が入る。
敵兵が一人、目の前に現れた。
それを見た途端、僕は目を見開いた。
──少年だ。15歳くらいの。
盾を構えて突っ込んできた。勢いはあるが、動きに迷いがある。
殺したくない。
そんな僕の考えに反して、少年は僕に向けて剣を振り下ろした。
それを受け止める。重い。
斬らなければ、斬られる。
「……クソ!」
気づけば、刃先が少年の懐に滑り込んでいた。
ご ぎゃり。
肉を裂く手応え。
低く生々しい音があたりに響いた。
血が噴き出し、頬を濡らす。少年は呻き声すら出さず膝から崩れた。
殺した。
僕が、殺した。
なんで、なんでだ……
どうして……どうして僕は……
「人を殺しておいて、こんなにも心地がいいんだ……?」
胸の内側が、妙に静かだった。
心臓の鼓動は規則的で、手の震えもない。
むしろ──全身に力が漲っていた。
この感覚。戦場でしか得られない、生きているという実感。
……本当に気持ちが悪い。
ーー
戦いがひとまずの終息を迎えたのは、日が沈む頃だった。
平原に立ちこめていた煙が風に流され、赤く染まった空の下に、無数の屍が横たわっていた。
剣を地面に突き刺したまま、僕は膝をついていた。
僕は何人殺したのだろう……いや、考えたくもないな。
「……終わったのか?」
横から、くぐもった声がした。ガレスだった。
彼の鎧には複数の傷があり、血で濡れた頬が引きつっていた。が、それでも彼は、しっかりと立っていた。
「ああ、どうやらな」
僕は短く返す。
「参ったな……今夜は酒でも飲まなきゃやってられんぞ」
ガレスはそう言って、笑った。
僕も笑い返した。
その日の夜は宴をした。
血と泥にまみれた兵たちが、焚き火を囲んでエールを飲み、声を張り上げていた。
皆、笑い、叫び、時折泣いた。
今の自分が生きていることを確かめるように。
……自分たちが、今地獄にいるということを思い出さないように。
そして、疲れ切った兵たちは次々と眠りについた。
だが当然、眠りにつかないものもいた。
恐怖、緊張、心配、その理由は様々だった。
僕はその日、久しぶりにぐっすり眠れた。
ぐっすり眠ることができるのは、戦場だけだった。
……あの平穏な日々では、ぐっすり眠ることができなかった。
ーー
あれから、僕は殺し続けた。
殺すたびに罪悪感と快楽が渦を巻き、何度も吐いた。感情に身を委ねられたらどれだけ楽だろう。そう思った日も少なくはない。
だが、僕は人間でありたかった。人殺しを楽しむ化け物になんかなりたくなかった。
そんな葛藤を続けて、約一年が経ったころ。
ある日の夕方のことだ。
「おい! 聞いたか!? 和平交渉が進んでるらしいぞ!」
ガレスが息を切らして駆け込んできた。
「本当か?」
「ああ、王都から使者が来てる。もうすぐ停戦になるかもしれん!」
あたりの雰囲気が一気に明るくなった。
「やったぁ!家に帰れる!」
「嫁さんに会える!」
「子供の顔、見たいなぁ」
「もう戦わなくていいんだ!」
みんな喜んでいる。
当然だ。戦争なんて終わったほうがいい。人が死ななくて済む。
だが、僕だけが違った。
胸の奥に、暗い穴が開いたような感覚。
『この戦が終わったら、僕は何になる?』
また、あの虚無感に包まれた日々が始まる。朝起きて、仕事に行って、働いて、友と話して、帰って、酒を飲んで寝る。
それでいいじゃないか。
何がいけないんだ。何も悪いことはないだろう。
そう自分に言い聞かせようとしたが──ダメだった。
本当の僕はここにいる。血と汗と恐怖の中に居場所を感じる。僕はもうここでしか──
「おい! どうしたんだよ! 嬉しくねぇのか?」
ガレスが肩を掴んで引き寄せた。
僕は答えた。
「……嬉しいさ」
その夜、僕は一人で戦場跡を歩いた。月明かりに照らされた戦場は、静寂に包まれている。
ここで僕は何人の命を奪ったのだろう。数えることさえできない。
でも、ここで僕は生きていた。確かに、間違いなく。
平和な村での日々とは違う。
……ああ、今やっと気づいた。
僕は……僕は……
「僕は……本当に化け物なんだな」
風が僕の頬を撫でていく。まるで答えを運んでくるように。
翌日、正式に停戦協定の調印が発表された。
ーー
停戦協定が結ばれてから一週間後、帰郷の準備が始まった。
兵士たちは皆、故郷への思いを語り合っている。家族への土産話、戦争でのこと、これからの生活──
そんななが、僕だけが黙っていた。
「アルヴィン、お前も故郷が恋しいだろう?」
ガレスが声をかけてくる。
「……ああ」
帰郷の日、王都の門前で僕は荷馬車から降りた。
「アルヴィン、どうした?」
ガレスが振り返る。
「お前は、幸せになれるな」
僕は言った。
「当たり前だ。家族がいるからな」
ガレスは笑った。
「お前もだろ?村の人たちが待ってる」
僕は首を振った。
「僕には、戦場しかないんだ」
「何を言ってるんだ。やっと平和になったんだから、村でゆっくり——」
「平和なんて来ないさ」
僕は彼の言葉を遮った。
「僕は化け物だ」
ガレス驚いたのか、黙ってしまった。
僕は踵を返した。
「おい、どこ行くんだよ」
「南の国境で小競り合いが続いてるらしい」
僕は振り返らずに答えた。
「アルヴィン! おい! アルヴィン!」
ガレスの声が遠ざかる。
僕は歩き続けた。また戦場へ向かって。
歩いている途中、いろんなものを見た。
畑で働く農民、笑い声を上げて遊ぶ子供たち、洗濯物を干す女性たち。平和そのものだった。
みんな、僕が守った平和を生きている。
でも、僕はその平和に居場所を見つけられない。
──雨の夜だった。僕がまだ十歳のとき、辺境の砦が敵に襲われた。
雷鳴、怒号、木の扉が割れる音。母と妹と一緒に倉庫に隠れていたはずが、すぐに敵兵がなだれ込んできた。
──血が飛んだ。
母が倒れた。妹が泣いていた。僕は動けず、その場にへたりこんだ。
剣も握れない。叫びすら出なかった。砦が軋み、雨が血の匂いを洗い流していく。
そのとき、僕は奇妙な安堵を覚えた。
──死ぬかもしれない。だけど、もう何も考えなくていい。
恐怖と一緒に、なぜか安心があった。
音が澄んで、景色が明るく見えた。
僕は近くにあった剣を取って、強く握りしめた。
一人の兵に見つかった。
襲われたけど、油断している隙をついて、殺した。
心臓の鼓動が一定になり、僕は、そこで初めて自分が生きていると実感した。
あの瞬間を、今でも忘れられない。
殺したのに、安らいだ。
多分、あの瞬間が始まりだったんだ。
人間皆、自分らしく生きるには、何かを犠牲にしなきゃいけない。
僕は大きく息を吸って、吐いた。
これから、僕が殺す人たちへ──
「僕のために犠牲になってください」