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婚約破棄されましたが、浮気王子を置き去りにして助手と帝国一の魔導研究所を作ります

作者: 百鬼清風

 婚約者に浮気された。というか、してた。現場を押さえたわけじゃないけど、あれだけ「違うんだ!」って言い張られたら逆に確信する。違わないのね? ありがとう、了解です。


「泣いたって仕方ないじゃない。涙腺は感情の排水溝ってばっちゃが言ってたし」


 わたしはしばらく、羽根毛の詰まった特注クッションに顔を突っ込んで盛大に泣いた。泣きすぎて顔がパンパンに腫れたし、鼻は象の赤ちゃんくらい赤くなった。でもね、すっきりしたの。びっくりするほど。


 彼——セリオス殿下とは政略婚約だった。でも、いつしかわたしは本気で彼を好きになってしまったのよね。あの涼しげな金の髪と澄んだ瞳と、完璧すぎる横顔。自分でもチョロいなあと思っていたけど、本当にかっこよかったんだもん。


 でも、その完璧男は、完璧に浮気した。


「で、そのお相手がまた……よりによって聖女様ですって? マジか」


 わたし、アイリス・クローネ。帝国三大公爵家のひとつ、クローネ家の令嬢にして、魔導学院の主席。あっちの聖女様はというと、異世界から召喚された「正義と純潔の象徴」らしい。そんな彼女が、よりによって婚約者に色目使って何度も擦り寄っていたのを、わたしはこの目で見た。


「ふふふ……やっぱり、あれね。ぶん殴るより、笑って呪う方が性に合ってるかも」


 とにかく泣いて怒って呆れて、もう怒りも通り越してテンションが上がってしまった。


 そんなわたしの元にやってきたのは、旧知の親友たちだった。レティシア、ミラ、そしてあの無愛想で甘やかし上手な護衛騎士ノア。


「アイリス様、やっぱり婚約破棄しましょう。あんな腐れ浮気王子なんて、こっちから捨ててやればいいのよ」


「ええ。あと、あの聖女もひっぱたいてやりたいわね。『あたし、異世界から来たから文化が違って~』とか言って股を開くなと。帝国の礼儀、教えてやるわ」


「レティ、ミラ、落ち着いて……うん、でもありがとう。ちょっとだけ、気が楽になったわ」


「婚約破棄の席は設けました。セリオス殿下が陛下と一緒にお待ちです。ご命令通り、魔導記録はすべて準備しております」


「やだノア、それ言っちゃう? 楽しみに取っておきたかったのに」


 わたし、なにせ魔導学院主席。魔導端末での隠し撮りや解析はお手の物である。浮気の決定的瞬間から耳を疑うような言い訳、聖女のウィンクに鼻の下を伸ばしていた瞬間まで、記録はバッチリ。


「よし、やってやろうじゃないの。人生にはもっと楽しいことがあるって、証明してみせるわ!」


 浮気された? だから何? わたしには友がいる、力がある、才能がある。そして、今さら気づいたけど、まだ本当の恋をしていなかったのかもしれない。


「ノア? あなたも、わたしの味方でいてくれる?」


「当然です。命に代えても、あなたの幸せを守ります」


 その言葉を聞いたとき、不覚にもわたしの心が跳ねた気がした。


 ああ、やっぱり世界はまだまだ捨てたもんじゃない。



 婚約破棄の場ってもっと血で血を洗う修羅場になるかと思ってたけど、意外と拍子抜けだった。いや、こっちは魔導映像の十連コンボと共に臨戦態勢だったんだけど。


「……こちらが、その記録ですわ」


 わたしは淡々と提出した。魔導学院の演習室、セリオス殿下と聖女エミリアが楽しげに密会している映像の数々。これを再生した瞬間、会場は凍りついた。


 あ、ちなみに観客は国王陛下、王妃陛下、数人の重臣、そしてなぜか親友たち。うちの父までスタンバってる。全員正装でギッスギス。よくもまあこの面子の前でラブい会話できたもんだと、逆に感心するレベル。


「セリオス……これは、どういうことだ」


 重たい声が玉座から響く。陛下の額には深い皺が刻まれていて、これはもしかして怒ってる、というより失望してるパターン。


「い、いや父上! これは、そう……その、アイリスが冷たかったから……」


「冷たかった? アイリスは四六時中、お前のスケジュールに合わせて動いていただろう。会食、狩猟祭、舞踏会、すべて彼女の準備だったと記録にある。あまつさえ聖女に着せるドレスまでアイリスが用意していたのだと?」


「う、うぅ……でもエミリアは! 異世界で苦労して来たんだ! 守ってあげたくなるのが男の本能というか!」


「……いっそ素直で笑うわね、ほんと。守りたい? じゃあそのまま一生、守ってやってちょうだい。わたしは婚約を破棄するわ。二度とあなたを“殿下”と呼ばない」


 わたしがにっこり微笑むと、陛下の後ろでこっそり拍手する王妃様と目が合った。え、なに? 王妃様も味方だったの? 後でお茶会に呼びたいわ。


「アイリス、これは正式に受理された婚約破棄である。文書は明日中に準備する。……セリオス、お前は少し頭を冷やせ。城の東棟、書庫の整理でもしていろ」


「そんな! 父上、俺は……!」


「異世界の聖女と恋に落ちたのだろう? ではせいぜい、聖書でも読んで心を磨くがいい」


 見事な一刀両断だった。さすが陛下。これが百戦錬磨の言葉の剣というものかしら。


「アイリス嬢、これよりあなたは自由の身です。どうか、己の人生をあなた自身のために」


 国王が静かに告げたその言葉が、妙に胸に染みた。


 ああ、終わったんだな。


 浮気だの裏切りだの、全部全部、もうわたしの問題じゃない。


 わたしはその場をあとにして、ノアと並んで王城の廊下を歩く。


「……ふふ、ねえノア。わたし、けっこう格好良くなかった?」


「はい。とても、聡明で……美しくて、誰よりも誇らしい主でした」


「うわ、褒めすぎじゃない? 惚れるわよ?」


「惚れていただいても構いません」


「は? なにそれ、今のなに?」


「冗談です」


「ウソつけ、今ちょっと本気だったでしょう!?」


 わたしの顔が熱くなったのは、たぶん走ったから。いや、王城を出たとき、ちょっとダッシュしたから。


 でも。


 こうして笑えるなら、わたしはまだ、恋ができる。


 この物語は、まだまだこれからなのだ。




 婚約破棄から一週間。

 わたしは今、とある小さなカフェのテラス席で、バターたっぷりのふわふわパンケーキと格闘している。美味しい。泣けるほど美味しい。

 失恋の癒しはやっぱり糖分よね。恋愛ホルモンが減ったぶん、血糖値で埋めるってばっちゃも言ってた。


「……アイリス様、クリームが鼻に」


「えっ、うそ、また!? ああもう、なんでこんなとろけるの……! ノア、拭いて!」


「失礼します」

 彼は慣れた手つきでハンカチを差し出してくれる。わたしの頬を軽く指で押さえて拭いてくれたその一瞬、目が合った。優しくて、真っ直ぐな、ノアの目。


 ……あれ? なんか最近、ドキドキする頻度が増えてない?


「えっと……その、ありがとう。助かったわ」


「どういたしまして。アイリス様が美味しそうに食べていると、こちらも幸せな気持ちになります」


「……そ、それってつまり、太っても許すってこと?」


「……まったく、そんなふうに解釈するとは思いませんでした」


 ふふ。ノアの不器用な笑いが、わたしの頬にじんわりと温もりをくれる。


 でもね、この一週間、ただの食べ歩きじゃなかったの。

 わたし、決めたのよ。セリオス殿下を“踏み台”にして、もっと高く飛ぶって。


 だってね、あの浮気王子、今さら「エミリアはやっぱり合わない」とか言い出して、実家にしょんぼり帰ったらしい。どうやら“聖女の天然”に耐えきれなかったそうで。


 ……だから言ったのよ、ノアに。


「ねえ。彼女、召喚されてすぐわたしに『キノコって毒しかないよねー』って言ったのよ。違うわよ? キノコには栄養があって、鍋にも合うし、ソテーもできて、あとダイエットにもいいのよ。つまり聖女は野菜を侮辱したの。そこに帝国の未来を預ける? バカなの?」


「……その通りです。すべてにおいて」


「でしょ?」


 わたしは笑いながらも、内心じゃちょっとスッキリしていた。

 浮気男が自滅して、聖女が化けの皮を剥がしたっていうだけなのに、こんなに清々しいとはね。


 ただ問題は、わたしの人生の次のステップだ。

 もう誰かの“妻になるための努力”なんてしたくない。

 自分のために、何かをしたいの。


「ノア。あたし、独立しようと思うの」


「独立?」


「うん。学院を出たら、魔導士として、ちゃんと働いて、自分で自分の人生を切り開いて……それで、好きになった人を、自分の意思で選びたいの」


「それは……素晴らしい志です。賛成です」


 彼の声が少し震えていたのは気のせい?


「でも、アイリス様。どこにいても、わたしはあなたの傍にいます」


 ああ。

 まただ。

 また胸が、ふわっと熱くなる。


「……ほんと、ノアってずるい」


「え?」


「なんでもない。さて、パンケーキ食べ終わったし、次はクロワッサンね。ここのは層が美しいのよ」


「……それ以上は太るのでは」


「太っても許すって言ったでしょ?」


「言ってませんが、許します」


 ああもう! だからずるいって言ってるのよ、ノア!




 魔導学院の卒業が近づくにつれ、わたしは忙しくなっていった。帝国各地の研究所から推薦とスカウトが山ほど届き、父は「これがクローネ家の誇りか」とか言いながら鼻の下を伸ばしていた。いや、それあなたの実績じゃないから。


「どうするの? 帝都の中央魔導研究局なんて破格の待遇だし、名誉もあるわよ」


「うん、でも……」


 選択肢が多すぎると逆に動けなくなるって、誰かが言ってた気がする。まさに今のわたしがそれ。どの職場も魅力的で、やりがいもありそうで、でも……決め手がなかった。


 そんなとき、ノアがさりげなく言ったの。


「アイリス様、ご自身で研究所を立ち上げるという選択肢は?」


「……へ?」


「学院での研究成果も評価されていますし、資金面ならクローネ家が、運営面ならわたしが支えます」


 あまりにも自然に言われて、びっくりした。ていうか待って、それって――


「ちょっと待って、それってほぼプロポーズでは?」


「……違います。契約の話です」


「……あ、そう。そうなのね」


 でも顔が赤くなるのはなぜだろう。ねぇ、誰か答えて? どうして契約の話をされて、キュンとするの?


 それでも、わたしはちゃんと考えた。このままどこかの組織に所属すれば、しばらくは安泰。でも、自分の色を出すには時間がかかる。対して、自分の研究所を作ればすぐに好きな研究ができる。責任もあるけど、自由もある。


「……やる。自分の研究所を立ち上げる」


 そう決めたときの爽快感は、魔導試験で満点取ったとき以上だった。


 その日からわたしは準備に追われた。拠点となる場所を選び、魔導具や設備を調達し、必要な許可証類を申請して、スタッフも集めて……寝る間もないほど多忙。でも、心は踊っていた。


 もちろん、その間もノアはずっと隣にいてくれた。


「この設計図、ここが甘い。急加熱に耐えきれない」


「ん~、ほんとだ。さすがノア、もうちょっとで大爆発するところだったわ」


「それはそれで、アイリス様らしいとは思います」


「失礼な!」


 研究所がようやく形になりはじめたある夜。わたしはふと聞いてみた。


「ねえノア。……わたし、あのときの婚約破棄、正解だったと思う?」


「……もちろんです」


「でもさ、もしあのまま聖女に彼を取られずに、わたしが皇妃になってたら……今より幸せだったのかなって、たまに思うの」


「……それでも、あなたは後悔しなかったと思います」


 ノアの声が少し震えていた。わたしの心のどこかが、じわっと熱くなる。


「……アイリス様」


「ん?」


「いつか、あなたがすべてをやり終えたとき……もし、あなたが一人だったら。わたしを、選んでください」


 胸が跳ねた。わたしの中のすべての魔力が、今この瞬間、弾けるように湧いた気がした。


「……ずるい」


「また、言われました」


「でも……わたしが選ぶ前に、誰かに取られたら?」


「そのときは、戦います。あなたのために」


 ……ああもう、やっぱりこの男、ずるいわ。




 研究所の開所式は、思っていたよりずっと華やかだった。


 父が帝国上層部に根回ししてくれたおかげで、帝国中の名士が招待状を手にして集まった。おかげで、わたしの研究所は初日からニュースになるほど話題に。まあ、目立つのは嫌いじゃないけど、脚光を浴びるとそれはそれで胃にくる。


 ……でも、ノアがいてくれたから、大丈夫だった。


「緊張してますか?」


「してないって言ったら嘘になるけど……でも、楽しみでもあるの」


「あなたなら、きっと大丈夫です」


 ノアがそう言ってくれると、不思議と心が落ち着く。


 今日、この場に立つまでいろんなことがあった。失恋も裏切りも、しんどい夜もあった。でも全部、わたしをここに連れてきてくれた。過去が今のわたしを作ってる。だから、セリオスのことも、エミリアのことも、もう恨んではいない。


 いや、少しは恨んでるけど! それはもうどうしようもない本音ってやつよ。


「アイリス様」


「ん?」


「お祝いの花が、もうひとつ届きました」


「ん? 誰から?」


「――“女神エミリア”より、と」


「……」

 目が点になるとはこのことだった。


 まさか、あの聖女から祝花が来るとはね。いや、どの口が。いっそスライムの口でも借りたのかしら。


「読み上げます。“過ちは誰にでもあります。あなたの寛容さに感謝を込めて、これからの研究に神の加護がありますように”……とのことです」


「…………ノア、あの花、焼いて」


「すでに消毒済みです」


「さすがね」


 でも、少しだけ、少しだけだけど。

 彼女なりに罪悪感があったのかもしれない。そう思えるようになった自分に、わたしは少し驚いた。きっと、前より大人になれたんだと思う。


 開所式のスピーチでは、自然と笑えた。


「――わたしは、ただの失恋から、ここまで来ました」


 会場が少しざわついたけど、構わず続けた。


「だけど、それで終わりにしなかった。泣いたし、怒ったし、いっぱい後悔もしました。でも、一歩踏み出したから、今日、ここに立てています」


 誰かの声に縋るだけの人生じゃ、もう満足できない。


 だから、わたしは宣言した。


「わたしは、世界を変えます。魔導の力で、人の未来をもっと自由にします。女でも、失恋しても、ひとりでも、好きな人生を選べる世界を作りたい!」


 会場が拍手に包まれた瞬間、わたしの目にまず飛び込んできたのは、ノアの穏やかな笑顔だった。

 その横顔を見て、わたしは確信したの。


 この人は、きっと何があってもわたしの味方だって。


 女神の祝福も悪くないけど――


 わたしには、あなたのエールの方が、ずっと尊い。




 研究所は順調だった。設立から二ヶ月で二件の共同研究契約、五件の論文掲載依頼、ついでに帝国技術庁からは「うちに来ませんか」って熱烈なスカウト状まで届いた。


 でも、わたしはどこにも行かない。


 ここが、わたしの居場所だから。


「アイリス様、今夜はもうお休みに」


「ん~、もう少しだけ。あと一節だけ式典用の報告書を……」


「お身体を壊しては意味がありません。ほら、目が真っ赤です」


 ノアが無言でカップを差し出してくる。香ばしいハーブの香りと一緒に、彼の気遣いが沁みる。ほんと、どこで習ったのその完璧お世話スキル。


「ありがとう。ノアって、時々お母さんみたいよね」


「……それは、嬉しいのでしょうか?」


「んー……七割方、褒めてる」


「三割は?」


「まあ、それはそれ」


 わたしたちは、そんなふうにくだらない会話を交わしながら夜を越えた。


 そう、わたしとノアは……恋人じゃない。


 助手と主――立場としてはそれだけ。でも、きっと誰より深く繋がっている。


 だけど、どこかでずっとわたしは考えていた。


 これ以上、この人に甘えていていいのだろうかって。


「ねえ、ノア」


「はい」


「あなたって、いつからわたしに仕えてたの?」


「八年前です。アイリス様がまだ十三歳のとき、最初に剣を教えてくれたのがわたしでした」


「あー……あの時ね、背丈が同じくらいで対等に勝負できると思って本気で殴ったら、全然歯が立たなくて泣いたっけ」


「ええ、懐かしいですね。わたしの脛を蹴って『子ども扱いするな!』と」


「やだやだ、黒歴史! 埋めて! 今すぐ!」


 ノアは、くすっと微笑んでから、真面目な顔に戻った。


「でも、あの時からです。ずっと、あなたを見てきた。誰より努力して、誰より苦しんで、誰より輝いているあなたを」


「……ノア」


「アイリス様」


「うん?」


「キスをしてもいいですか?」


 時間が、止まったみたいだった。


 火照った空気の中、鼓動だけがやけにうるさい。

 わたしの頬が熱くなるのが自分でもわかった。口の中が乾く。手が汗ばむ。わたしは――


「……ダメ」


 そう言ってしまったのは、きっと、怖かったから。


「今のわたしは、あなたに甘えてるだけかもしれない。だから、その気持ちを誤魔化す形で触れてしまうのは……ずるいと思う」


 ノアは、しばらく何も言わなかった。でも、わたしの手をそっと取って、指先にキスを落とした。


「では、これは誓いです。今のあなたを守る誓い。愛ではなく、忠誠でもなく――あなたという存在への敬意の印です」


「……ずるい、ほんとに。なんでそういうこと言えるのよ」


「ずるいのは、あなたです」


「……!」


「あなたは、努力で手に入れたものを、誰にも見せびらかさず、誇らず、それでも高みを目指す。そんなあなたに、惚れるなという方が無理です」


 わたしは、何も言えなかった。


 キスは交わさなかった。けれど、指先に残るぬくもりが、心の奥深くに染みていった。


 キスの代わりに、誓いを交わした夜。


 それはわたしにとって、生涯忘れられない夜になった。




 ある日の午後、研究所のサロンで紅茶を入れていたわたしは、ふと気づいてしまった。


 ――最近、ノアの顔をじっと見すぎてる気がする。


 ノアが椅子に座って書類を読んでいるとき。ノアが実験装置を整備してるとき。ノアがふとしたときにわたしの名前を呼ぶ、その一言。どれもこれも、妙に意識してしまうのだ。


 なんなの、これ。思春期なの? 遅れてきた?


「……はぁーっ」


 思わず溜息をついたら、ノアがこちらを振り向いた。


「何かお悩みですか?」


「い、いやっ、なんでもないの! ただの糖分不足的なアレよ。ほら、わたしってスイーツで動く女じゃない?」


「それなら、先ほど街で新しくできたお店のマカロンを買ってきました。アイリス様がお好きなピスタチオです」


「……マカロンまで用意済みって、もう恋人超えて妻じゃないの?」


「それは……光栄ですが」


 あああ、まただ。また心臓が跳ねた。なんなの? 心臓に小さな羽でも生えてるの? あなたの声だけで飛び跳ねるんだけど!


 しばらくして、わたしはひとり、屋上のテラスに出た。

 夕暮れの光が街を黄金色に染めて、遠くに見える帝都の尖塔が薄く霞んでいる。綺麗だった。……だけど。


「……綺麗って、思うたびに浮かぶ顔があるって、ずるいよね」


 たぶん、わたしはもう――


「ノアのこと、好きなんだと思う」


 ぽつりと、空に呟いた。


 気づいてしまった。いや、もっと前から気づいてたけど、ようやく認めた。


 そりゃ、ずっと隣にいたもの。わたしの努力も、弱さも、全部見てきた人。

 甘やかしてくれるだけじゃない。時には叱ってくれて、わたしをまっすぐ見てくれる人。そんな人を、好きにならないわけがなかった。


 でも、これが恋だって認めた瞬間――胸が苦しかった。


 だって、ノアの気持ちはわからないから。


「……告白、しようかな」


 いやいや、待って。告白って、あの? 『好きです、付き合ってください』ってやつ? 魔導論文を書くより難しくない? 魔導具の調整より心臓がぶっ壊れそうなんだけど?


 わたしがひとりで顔を赤くして地団駄を踏んでいると、ドアがそっと開いた。


「アイリス様。こんなところに……お探ししました」


「の、ノア!? な、なんで……いや、ちょっと外の空気を吸いたくて!」


「泣いていませんか?」


「は!? 泣いてないわよ!? どこ見て言ってんのよ!」


「……そうですか。では、泣く前に、言いたいことがあります」


「えっ」


 ノアが一歩、近づいてきた。夕日が彼の輪郭を淡く縁取って、まるで夢みたいだった。


「アイリス様。あなたを、ひとりの女性として見ています」


「……へ?」


「恋人として、お慕いしています」


 頭が、真っ白になった。


 言葉が、出なかった。いや、思考がフリーズしてた。


「――え?」


「何度も言います。あなたが、好きです。尊敬も、忠誠も、全部ひっくるめて、好きです」


「……ノア、ほんとに? 夢じゃない?」


「夢なら、何度でも見せます。何度でも言います。好きです、アイリス様」


 その瞬間。


 胸の奥で、恋に落ちる音がした。


 ドサン、と。鼓膜の内側で跳ねたような、重くて熱い音。


「……ふふ、ちょっと遅いのよ、ノア」


「申し訳ありません」


「でも……嬉しい。わたしも、あなたが好き」


 やっと、言えた。


 やっと、心が追いついた。


 そのまま、わたしは彼に抱きしめられた。ふわりと優しくて、でも力強くて、泣きそうになるほど安心した。


 夕暮れの風が、ふたりの髪をそっと撫でていた。




 恋人になっても、世界は特別変わったりしない――と思っていた。


 実際、研究所のスケジュールは相変わらずパンパンだし、帝国の会議には呼ばれるし、魔導装置はよく壊れるし、なぜか新聞記者には追い回されるし。


 でも、それでも。


 ノアが隣にいるだけで、ぜんぶが前より少しだけ愛おしく思えるから不思議だった。


「アイリス様、昼食を。……三度目の呼びかけです」


「あっ、ごめん! 今いいところなの、脳がフル回転してるのよ!」


「お腹が空いているのに脳が回るとは思えません。強制連行します」


「むー、独裁政権!」


「お好きでしょう? わたしの政権」


「ちょっとそれ、言い方が卑怯すぎる!」


 ……こんな感じで、毎日が続いている。


 相変わらずの関係。でも、そこには確かに“恋”があった。


 そう、これが恋だ。


 ぶつかり合って、拗ねて、笑って、素直になって、時には黙って寄り添う。

 わたしたちは、そうやって恋を育てている。


 そして、ある日。ノアが、少し改まった顔で言った。


「アイリス様。……正式に、クローネ公爵にご挨拶に行きたいのですが」


「……っ!」


 分かってはいた。


 付き合っているなら、いずれ通る道。


 でも、まさかこんな早くそんなことを言われるとは思ってなかったから、ちょっと心臓がビックリして転げ落ちるかと思った。


「そ、そうね。父に話しておくわ」


「ありがとうございます。……少し、緊張しますね」


「ふふ。ノアにもそんな感情あるんだ」


「あなたの父となれば、当然です」


 父は……まぁ、うん、鉄仮面みたいな男だしな。


 けれど。

 いざ話してみると、父はただ静かに頷いて、それからわたしの頭をぽんと撫でて言ったの。


「幸せになれ」


 その一言に、涙がこぼれそうになった。


 ああ、これは――ちゃんと祝福されてるんだって思えたから。


 そして迎えた、春の終わりの一日。


 帝都の古い教会。

 庭園に満ちる花の香りと、青空の下。

 わたしは、白いドレスに身を包んで――


「アイリス様。綺麗です」


「知ってる。でも、あなたの方がかっこいいわよ」


「……嬉しいです」


 ノアが笑った。


 誰よりも大切な笑顔だった。


 ふたりで一緒に歩くバージンロードは、たぶんこの人生で一番眩しかった。


 この先もきっと困難はある。喧嘩も、涙も、後悔する日も。


 それでも、隣にこの人がいるなら。

 わたしは、何度だって立ち上がれる。


 花の香りに包まれて、誓いのキスを交わす。


 今、心から思う。


 ――この恋に、どうか、祝福を。

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