くるみちゃん、ごめんね
Chère Kurumi
藍色のカバーに市立いずみがおか中学校と踊るように書かれた金色の文字。そのサイドには卒業記念の文字が書かれている。
わたしはこの中学の卒業アルバムを開いたことがない。これからもこのアルバムを開くことはないだろう。アルバムに詰まった思い出は、後悔の色に染まっている。まだ胸が痛む。きっとこの痛みは一生消えない。それはわたしが犯した罪だから。
中学三年の時、わたしはイジメを受けた。
クラスのカーストトップの女の子、徳川玲奈ちゃんのラインを無視したことが原因だった。
朝目覚めてスマホを見ると玲奈ちゃんからラインの着信メッセージがあった。そのラインは夜中の1時過ぎに届いたのだけれども、わたしはもう布団の中で眠っていて気付かなかった。
こんな遅い時間のラインだから、未読でも玲奈ちゃんも解ってくれると思ったの。わたしはこのラインを既読にして返信をした。
「これでよし」と自分自身に言い聞かせ、布団から這い出た。のろのろと洗面所に向かい、じゃばじゃばと顔を洗い、ゴシゴシと歯を磨く。まだ目がきちんと覚めない。キッチンにいくとママがもう朝食の準備を終えていた。朝が弱いわたしはダラダラと身支度を整えながら、食パンにピーナッツバターを塗りたくる。ママが、
「乃美! 着替えるか、食事にするか、どっちかになさい」
と怒ったが、わたしは聞こえない振りをしてやり過ごした。だって朝食と着替えを別々にすると、どう考えても時間が足りないもの。
食パンを口に頬張りながら、少し小さくなった制服の上着に袖を通す。喉が詰まりそうになるのを、ミルクで押し流す。そして口許を手の甲で拭う。
「いってきます」
「いってらっしゃい。明日はもっと早く起きなさい」
ママの小言を背中にドタドタと玄関へ向かい、スニーカに足を突っ込む。そして早足で通学路を急いだ。
大通りの赤信号を足踏みをしながら待ちながら青信号となると同時に飛び出した。通学路の標識がある十字路に差し掛かった時、
「おはよっ」
後ろから琴音ちゃんが声をかけてきた。この十字路で琴音ちゃんといつも朝会うの。
「おはよ、琴音ちゃん。急がないと遅刻よ」
わたしと琴音ちゃんは小走りに学校に向かった。走りながら琴音ちゃんとおしゃべりをする。昨日観たネットのドラマや推しのアイドルの事、メイクの事なんかも話した。それから10分程で学校に着いた。まだ朝のチャイムが鳴るには時間があるようだが、校門では足早になだれ込む生徒で溢れている。朝の光景は変わることはない。朝のHR1分くらい前に教室に入った。まだ担任は来ていなかった。わたしは大きく息を吐き呼吸を整え、席に着くと、すぐに玲奈ちゃんがわたしのところにやって来た。
玲奈ちゃんはわたしを見下ろしながら、
「乃美、昨日アタシのラインを無視したわね。ライン送るって言ったでしょ」
「でも、玲奈ちゃんのライン夜遅かったから……」
「もういいっ」
と玲奈ちゃんはぷいと顔をそむけた。
わたしは玲奈ちゃんが気まぐれだから、そのうち機嫌が直ると思ったの。玲奈ちゃんのグループに入っているわたしだけど、この日はグループの話の輪に入らず一歩身を引いて、息をひそめていた。常に琴音ちゃんの背中に隠れていたの。玲奈ちゃんはそれに気付いても何も言わなかった。だから、明日になれば、また元通り。わたしはそう信じて疑っていなかった。そう思うと、何だか気分が晴れやかになった。夕食のハンバーグも美味しく頂くことができた。お風呂に入りながら、いつもの変わり映えのない明日がくる安心感と少しの物足りなさをシャワーで洗い流した。
夜遅くまでスマホを眺めていたけれども、ラインの着信がないことを確認して布団にもぐりこんだ。
玲奈ちゃんのラインをすぐに返信できなかった翌日、わたしはいつものように寝坊して、慌てて朝食をとりながら着替えをしていた。
「いってきます」
「早く起きなさいって言ってるでしょう。はい、いってらっしゃい」
ママの小言を背にスニーカーを履くと勢い良く走り出した。
いつもの十字路で琴音ちゃんに会った。けれども、わたしのことが琴音ちゃんは気付かなかったらしく、そのまますっと通り抜けた。
「琴音ちゃん」
わたしが声を上げると、琴音ちゃんはちらっとわたしを一瞥しただけで、ものすごい勢いで走りだした。まるで、わたしが鬼ごっこの鬼であるかのように。
どうしたのだろう? と不思議に思っているうちに学校に着いて、教室に入るとわたしはその理由をいやでも理解することになった。
「おはよう」
と声を掛けても誰も言葉を返してくれない。下を向いて聞こえない振りをするばかり。その時、玲奈ちゃんがわたしを冷たい眼で見つめているのを認めた。そして目が合うと、口許に笑みを浮かべながらぷいと視線を外した。
この時、わたしは全てを悟った。
「ハブられている」と。
これからどうなるのだろう、と背筋が凍るような不安がわたしを覆い、自身の鼓動がそれを助長させる。授業は身が入ることもなく、時間が過ぎていった。時間が過ぎていく度、孤独に堕ちていくこと、居場所がなくなることへの恐怖がじわじわと足元から這い上がってきた。それだけでなく、一人ぼっちでいることをみんなに見られるのが恥ずかしいとの思いが込みあがった。
そうしているうちに、昼休みになった。
いつも一緒にお弁当を食べる友達は、まるでわたしがいないかのように振舞いながら机をくっつけていった。
その時、玲奈ちゃんが、
「これで、そろったね」
わたしに聞こえるように言った。
わたしは思わずお弁当を持って立ち上がり、下を向いたまま教室を出た。そのまま中庭のベンチに向かった。そこでひっそりとお弁当を食べようと思ったの。だけど、中庭のベンチには先客がいた。隣のクラスにいる有名なバカップルだった。そんな人と近くのベンチに座れるわけがない。
「どうしよう」とそう思った時に、袖を引っ張る感覚をおぼえた。振り返ると同じクラスの石田くるみちゃんが袖を引っ張っていた。
「なに?」
わたしは少しイラついたような言葉が出た。ひとりぼっちなったことへの恐怖がここにきて、わたしの心に染みてきたのだった。そんな撥ね付けるような言いように、くるみちゃんは気にすることもなく、
「お、お弁当、い、い、一緒に食べよ」
と寝ぐせで左右アンバラスになった髪を揺らしながら、わたしを誘うように何度もうなずいた。
その言葉はわたしのしぼんだ心に染みた。それだけなく世界をひとつこの手に掴んだような安心感を持った。
わたしは思わずくるみちゃんの低い頭に手を置いた。それから優しく寝ぐせを手櫛で整えながら、
「うん」
と何度も答えた。
嬉しかった。とっても嬉しかった。
ハブられて、自分に居場所がなくなった。だけどここに自分の居場所があることが。そして何よりひとりぼっちじゃないと実感できたことが……。鼻がつーんとして涙が溢れてきた。涙を流すのが恥ずかしくて顔を少し上げた。
くるみちゃんはちょっとと言うか、かなりトロイ。気の短いの人間ならキレルくらいトロイ。いつも寝ぐせの付いた頭で、三年生にもなるのに未だに胸元のリボンはいびつに歪んだ状態だった。そんな彼女だから、女子たちからは敬遠され、当然男子たちからは無視されて、いつもひとりぼっちだった。だけど自分の世界を持っているようで、彼女はそんなことは気にしていないようだった。
そしてくるみちゃんは何より優しい子だった。誰も見向きもしていない花壇に手を入れ、花を育てていた。ほとんどの生徒は気にも掛けていないのに、一生懸命世話をしていた。わたしは早くから彼女のその行動に気が付いていた。ただその手伝いをすることはなかった。女子同士はグループが違うと交流を持たないものだ。
くるみちゃんは昼休みになると、お弁当を持って花壇に行く。そこでお弁当を食べていた。時々、保健の先生と一緒に食べていたようだった。保健の先生は30過ぎの男性で、かなりの美形だからマセタ女子たちによくちょっかいをかけられていた。当然、そのマセタ女子たちからはくるみちゃんは毛嫌いされていた。
花壇のブロックにくるみちゃんは腰を下ろした。そしてわたしに手招きした。彼女の横に座れということだろう。わたしはくるみちゃんの隣に腰を下ろし、お弁当の蓋を開けた。一番最初に目に入ったのは、わたしの大好きなだし巻き卵だった。それを掴もうと箸を伸ばした時、突然ぽろぽろと涙が出てきた。
「あれ?」
わたしはくるみちゃんの方に顔を向けた。くるみちゃんはわたしと眼が合うと立ち上がり、ゆっくりわたしの前に来た。わたしの頭に手を置きを優しく髪を撫でた後、わたしの頭をぎゅっと抱きしめた。それを機にわたしの涙は堰を切ったように止まらなくなった。
ひとしきり泣いた後、わたしの心はさっぱりとしていた。くるみちゃんとお弁当を食べ、花壇の手入れを――わたしは見ていただけ――して昼休みを過ごした。
昼休みが終わるチャイムが鳴る前にわたし達は教室に入った。一瞬、時間が止まったような視線を感じたが、わたしは無視することにした。少し前のわたしなら耐えられなかったけれど、今は平気だ。こんな優しい友達がいるのだから。
わたしはくるみちゃんを見た。するとわたしの視線を感じたくるみちゃんはにっこりと微笑んでくれた。
翌日からわたしとくるみちゃんの蜜月がはじまった。だけど、そこには女の子特有のベタベタした距離感はなかった。くるみちゃんは独立独歩で我が道を行く性格だった為、何をするのも一緒とはならなかったからだ。わたしは今までの友達と違う距離感に戸惑った。
例えば、トイレに誘っても、くるみちゃんは必要がなければ「わ、わたし、い、い、行かないよ」と返す。わたしの感覚ではこの手を誘いは断らないものだけど、くるみちゃんは行きたくなければあっさり断るのだ。それも、2、3日もすれば、慣れるもので、くるみちゃんとの居心地の良い距離を掴めるようになった。すると、今までの友達との距離に違和感を持つようになった。近過ぎると思うようになったのだ。わたしの空間に無作法に入り込んで、わたしを鷲掴みにしていると、そう思わずにはいられなくなった。
昼休みは、くるみちゃんと花壇でお弁当を食べ、その後、くるみちゃんは花の手入れをする。わたしはその様子を見る。それが日課となっていき、やがて、当たり前の日常へと昇華していく。わたしはその過程を実感として心に刻んでいくことで、くるみちゃんへの友情を育んでいった。
その日は水曜日だった。朝から冷たい雨が激しい雨音をたてて降っていた。4時間目の授業はわたしが大嫌いな数学だった。授業内容などは上の空で、ぼんやりと雨の降る窓の外を眺めていた。気が付けば、もう授業が終わりの時間になっていた。肩の力を抜くように息を吐くと同時に終業のチャイムが鳴った。それから少し経ってから、くるみちゃんがお弁当を持って、わたしの処に来た。さすがに雨に濡れてまで外でお弁当を食べるわけにはいかない。
「い、行こう」
とひと呼吸置いて、私を誘った。すぐに踵を返すとゆっくり歩き始めた。その足取りはわたしが付いてこないことなど1ミリも疑っていない。わたしはお弁当を持って、安心してくるみちゃんの背中を追った。最上階の人気のない廊下の突き当り、今は使用されていない教室にみくるちゃんは何の迷いもなく入っていった。綺麗に整頓、掃除された教室だった。くるみちゃんは振り返り、人好きのする笑顔を見せた後、窓際にある机を二つくっつけようとした。だけどバランスを崩しかけてこけかける。わたしが慌ててくるみちゃんを支えなければ、くるみちゃんは机とともにひっくり返っていたかもしれない。
何が起こったか、理解できなかったくるみちゃんは、きょとんしながらわたしを見た。
「大丈夫?」
わたしがそう声を掛ける。くるみちゃんは二呼吸ほどして状況を理解したようだ。
「あ、あ、ありがと」
わたし達は笑いあった。
お弁当を広げると、
「い、いただきます」
くるみちゃんは手を合わせる。わたしも手を合わせるけどこんなに長く祈るようには手を合わせない。「感謝」そういう言葉が似合うような手の合わせ方だ。形だけのわたしとは違い、少し恥ずかしくなった。
くるみちゃんは手を合わせた後、一心不乱にお弁当を食べ始めた。だけど不器用なのか、お箸を上手に使えないようで、ぽろぽろとおかずやご飯をこぼす。わたしは一人っ子だから兄弟姉妹はいないけれど、くるみちゃんを見ていると、妹ってこんな感じなのかと思ってしまう。くるみちゃんに悪いけどね。
平穏な日々が続いた。穏やかな春の日のようだった。
相変わらず、玲奈ちゃんのグループから無視されているけれども気にならなかった。くるみちゃんが傍にいてくれる。玲奈ちゃんのグループの人たちのように、くるみちゃんはおしゃべりでもないし、おしゃれにも興味がないけれども、人の顔を伺って、空気を読んで、言葉を選んで、自分の立ち位置を常に確認する為に神経を擦り減らす必要はない。
如雨露で花に水をあげているくるみちゃんを見ていると、優しい気持ちになれる。こうした交流を持って2週間しか経っていないけれども、何だか小さい頃から友達だったような気がする。
この花壇の花がきれいに咲くといいな。
くるみちゃんとの関係はこの先もずっと続くのだと思っていた……
くるみちゃんのことを日記に書くと、その内容は毎日変わり映えのないものだ。違うとしたらお弁当の内容くらい。わたしにはくるみちゃんのように植物の小さな変化を喜ぶという気質がおそらくないのだろう、淡々と過ぎていく日々を疎ましく感じ始めていた。それは波打ち際に造った砂の城が打ち寄せる波にあっけなく崩れていくようだった。
わたしは言葉でなくただ相手に寄り添う友情にも少しずつ不満を持つようになった。それだけでなく、くるみちゃんとの日々を、わたしは段々と嫌悪の感情すら持ち始めていた。
くるみちゃんは基本的に必要以上にしゃべることはなく、わたしが話すことは嬉しそうに聞いてくれるのだが、それだけでしかない。会話が弾まないことこの上ない。ここにいることが自分自身、不自然だと思うことが増えてきた。
くるみちゃんは手が汚れることなど気にすることもなく、土いじりをする。わたしには手が汚れる土いじりは無理だ。それだけなく、くるみちゃんは虫を平気で触るし、つまんでぽいっと花壇の外に投げる。虫を触るなんて、わたしには生理的に絶対無理。
花壇は綺麗だけど、それは表面的なことで、生き物を育てることは綺麗事だけですまない事を知っていたはずなのに、現実を見せられて嫌悪感を抱いたのも否めない。わたしは虫でなく花だけを見ていたい、そう思うのは悪いことなどだろうか?
くるみちゃんがわたしと眼が合って、嬉しそうに笑う。
わたしは思わず顔を少し背け、視線を外した。外した視線の先に黄色の小さなつぼみがあった。何の花なのか、くるみちゃんに教えてもらったけれど、覚えてもいなかった。
この時、唐突に「つまはじきにされたグループに帰りたい」と黄色の小さなつぼみを見ながら、それが自分の本心だと気づいたのだった。
わたしは下唇を噛んだ。思い切り噛んだ。今さら何を、と思いがよぎる。あのグループにはわたしの席はない。誰もわたしには声を掛けてくれない。それどころか視線さえわたしに向けない。
それが現実だ。
失って初めて解る、その存在の大切さ。くさい小説に良く書かれている、ありきたりの言葉がわたしの心に響いた。
昼休み。
お弁当を食べ終え、くるみちゃんが花壇の手入れをしているのを、ぼんやりと眺めていた。花に水をあげるくるみちゃんは本当に楽しそうだ。以前ならこの笑顔を見ているだけで幸せな気分になれたのに、今はどこか白けた気分になる。
その時、
「小早川」
後ろから声を掛けられた。振り返ると、保健の先生が立っていた。いつ見ても格好いい先生だ。
「毛利先生」
先生はわたしの隣に来て、
「これからもくるみと仲良くしてやってくれ。口下手だが心の優しい子だからな」
それだけ言うと、あっさり踵を返した。
くるみちゃんは先生の存在に気づいて手を振っていたが、先生は全く気付かずスタスタと行ってしまった。
一方、わたしは毛利先生がくるみちゃんを特別視していることに、いらっときたのだ。
「くるみ」と「小早川」。
くるみちゃんは名前呼び、わたしは苗字呼び、その差が大きいことに。
わたしはくるみちゃんを見た。彼女はもう毛利先生の事は心の外になったようで、花の世話に集中していた。優しい眼で見下ろしながら、その先にある花たちを慈しんでいた。
わたしはくるみちゃんから視線を再び外した。
月曜日と火曜日は霧のような弱い雨が降り続いた。そんな中でもくるみちゃんは傘をさして花の世話をしていた。わたしは雨の中でくるみちゃんと付き合う気にもなれず、図書館に逃込んでいた。本など読む気にもなれず、適当に選んだ本を目の前に置いて、ただぼうっと時間が過ぎるままにしていた。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るとほっとして本を元の棚に片づけたのだった。
翌水曜日はからっと青い空が広がった。透明感のある青空だ。空を見上げると、何だか気分が沈んだ。
わたしが学校に行くと、ちょっとした騒ぎになっていた。
花壇が無残なくらい荒らされていたのだ。せっかくつけたつぼみや花は何一つ残っておらず、幹も完全におられていた。
わたしはその光景を見て言葉を失った。
ふと人の気配に気づき振り返れば、くるみちゃんが荒らされた花壇を見ながら、口を真一文字に結んで涙をこらえていた。
両手で握りこぶしをつくると、突然、小さな子供のように大きな声を上げて泣き始めた。
わたしはただ立ち尽くす以外何もできなかった。くるみちゃんが楽しそうに、愛おしいそうに花を世話をしている姿が脳裏をよぎり、同時に少しばかりの嫌悪感も沸き上がった。
くるみちゃんの大きな泣き声に人が何事だと好奇心を隠すことなく集まってきた。誰も、荒らされた花壇には注意がいかないようだ。そして集まった人たちは、くるみちゃんが泣いていると分かるとあからさまに嘲笑を口許に浮かべ、指をさして笑う者までいた。
わたしはそんな連中に何か言う勇気などない。
そうしていると、この事を聞きつけた保健の毛利先生がやってきた。毛利先生は荒らされた花壇を認めると、泣いているくるみちゃんの頭を優しく抱き、赤ん坊を髪を撫でるようにくるみちゃんの髪を撫でた。まるで、一対の男女のような雰囲気があった。
わたしはその雰囲気に女子特有の危険さを感じ取った。女の嫉妬ほどやっかいなものはない。その陰湿さは女子のグループに入っていれば良く解る。だけど、わたしはくるみちゃんと毛利先生に何も伝えなかった。いや、伝えたくなかった。
一日嫌な気分で過ごした。そのまとわりつくような嫌な気分をシャワーで洗い流した。ベッドに入り、何気なくスマホを立ち上げた。くるみちゃんと出会う前は毎日のように、それこそ時間が空けば親の仇のようにスマホを使っていたのに、ずいぶん長く使っていない気がした。ラインを上げてみても話をする相手もいない。わたしは唇を噛みながら苛立ちまぎれにスマホを閉じた。
鬱々とした日々が続いた。くるみちゃんを疎ましく感じ始めていても、わたしは一人になるのが嫌で、くるみちゃんと一緒にいた。わたしはみるくちゃんと話すことをしなかった。くるみちゃんは特に気にすることもなく淡々とお弁当を食べ、荒らされた花壇を整理していた。小さなスコップで土を掘り返している。もっと大きなスコップを使えばもっと効率良く土を掘り返せるのにとわたしは思うけれど、くるみちゃんはそうは考えないようだ。何だか馬鹿っぽく見えて、距離を取りたくなった。わたしは数歩後ずさりをした。
わたしの様子が変わったのに気付いたくるみちゃんはわたしに手招きをしていた、だけど、わたしは気付かない振りをしてくるみちゃんのことを無視をした。そして考えることは、玲奈ちゃんたちのグループのこと。
「帰りたい」その言葉が、わたしの心に大きく占めるのだった。
朝はいつものように、慌ただしく身支度を整え、飲み込むように朝食を取り家を出た。通学路の標識がある十字路に差し掛かった時、琴音ちゃんの後ろ姿が見えた。わたしは歩く速さを緩めた。琴音ちゃんとおしゃべりしたいという気持ちが膨らんだが、彼女の背中を見ていると、それ以上に自分が琴音ちゃんの隣に立つことが出来ない立場であることを思い知らされた。校門では毎朝変わることなく生徒を飲み込んでいる。わたしはその流れに乗った。それから、とぼとぼと教室に向かった。教室に入ったところで、玲奈ちゃんが立っていた。玲奈ちゃんは口許に笑みを浮かべながら突然わたしの両手を持って、
「乃美。わたし、くるみが嫌いなの。わかるわね。そうしたら、また遊ぼようよ」
わたしは何の躊躇もなくうなずいた。それがどういう行為でどんな意味を持つか、わたし自身理解をしていた。だけど、自分自身を止めることが出来なかった。その誘惑はわたしには代えがたい蜜の味だったのだ。わたしの心は決まった。
昼休みまでわたしとくるみちゃんの間には会話がなかった。珍しいことでもなく、よくある日常だった。
昼休みいつものように、くるみちゃんがわたしのところにやってきた。すこしもじもじするように、
「な、乃美ちゃん」
くるみちゃんはわたしの袖口を掴んだ。その瞬間、わたしはその手を力一杯振り払った。
「あ、あの……」
わたしはくるみちゃんが驚いて何か言葉にする前に、
「もうわたしに関わらないで」
と冷たい口調で言い放った。
くるみちゃんはなにかを言おうとするが、それをも遮るような、わたしの拒絶の態度を見て、
「ご、ご、ごめんなさい」
くるみちゃんはわたしの前から走り出した。次の授業、くるみちゃんは出席しなかった。だけど、クラスメイトや先生さえもくるみちゃんがいない事を気にすることなく授業をはじめた。結局、くるみちゃんは放課後になっても姿を見せなかった。
次の日、くるみちゃんの姿は教室になかった。担任はくるみちゃんが休みだと簡単に告げただけで、それ以上は何も言わなかった。くるみちゃんが休んでいても、誰も興味を示していなかった。
その次の日も、その次の日も、くるみちゃんは学校に来なかった。やがて担任もくるみちゃんが休んでいても何も言わなくなった。
わたしは玲奈ちゃんのグループに入ることとなった。特に何かあるわけでもなかった。以前からそこに居たように扱われたからだ。さすがに最初の一週間はグループのみんなとは違和感があったけれども、今では、以前のようにグループの輪に溶け込んでいる。自分の立ち位置に細心の注意を払い、場の空気を読み、人の顔を伺いながら、冗談を言っては笑い、誰かの陰口に声をひそめ、だけど、それがどこか居心地の良い世界だった。
卒業までの数か月の間、わたしはハブられることのなく穏便に過ごすことができた。それから高校進学も決まり、卒業式ではみんなで涙を流して別れを惜しんだ。その日はパパとママに中学卒業を祝ってもらった。中学の現実はここから先、現実から切り離して思い出になり、心の隅へと流れていく。そして尖った思い出もやがて角が取れ丸くなって優しい思い出となるだろう。そう思いながら、わたしはくるみちゃんの事を蓋をしたのだった。
次の日。
ママが手紙を持ってきた。飾り気のない白い封筒だった。達筆な文字で書かれた送り主の名前を見た時、思わず呼吸が止まり、手が震えた。くるみちゃんからの手紙だった。その手紙が怖かった。そこに書かれている言葉が、わたしは怖かった。彼女はきっとわたしを恨んでいる。わたしは彼女を見捨てたのだから。
このまま何も見ずにこの手紙を捨てようかと思った。だけど出来なかった。震える手で封筒を開けた。便箋から最初に目に入った文字は「ごめんなさい」だった。
わたしはまた息が詰まり、慌てて便箋を閉じた。ゆっくり呼吸をして息を整える。それからしばらくの間、わたしは体と心が固まった状態だった。何も考えない、何も見ない、何も聞かない、そんな状態だった。
気が付くと、視界がぼやけていた。涙が流れていたのだ。止めようと思っても、その意思に反して涙が溢れ出てきた。とっさに手の甲で涙をぬぐう。わたしは涙で何も見えなくなりながら、便箋を掴み握り潰した。
それから虫を振り払うように便箋をゴミ箱に投げ捨てた。
そうすれば、自分の行動が赦されると思った。自分の罪が赦されると思った。そして、
「わたしは悪くない」
と自分に言い聞かせるように何度もつぶやいた。その時、ラインの陽気な着信音がなった。
了