他人のお金の味
ある日、友達の吝子に呼び出された私は、嫌な予感がした。なぜなら彼女は昔から、トラブルメーカーなのだから。
その日は猛暑日で、待ち合わせ場所の、ファミレスの駐車場に車を止めた私はしばらく、街灯の下でメビウスを吸いながら待つ事にした。立ち仕事の後の足がダルすぎて、サンダルを脱いだ。19時だというのにアスファルトはまだほんのり、暖かかった。
「ひさしぶりー」
吝子は、だらりとした洗いざらしの髪で現れた。私は三本目の煙草に火をつけ「ひさしぶりだね」と返事をした。吝子は私の隣で、アイコスのメンソールを吸い始めた。
「で、何があったのさ」
そう私が切り出すと
「もしかして忙しい?」
吝子は私の気持ちを察したのか、そんなことを言うのだった。私は心の中で「そう思うんなら呼び出すなや」と毒づいた。私にとっての吝子という友人は、そのていどの存在だった。それは悲しいことなのだろうけれど、仕方がないのだ。
「忙しいっちゃ忙しいけどさ。いいから話しなよ。男と別れた時か、とりあえず笑えない事があった時にしか、連絡よこさないのが吝子でしょ」
「あいかわらずキツいなあ、麻子は」
そして吝子は、語り始めた。彼女がハマってしまった、禁断の味について……
***
初めは、ほんの出来心だった。働いてた店で、お客さんがくれた一万円。それが、始めての「他人の金」だった。それまでは、他人の金なんか触ったこと無かったし。「ほら、タクシー代」って、社長がみんなに配ってた。私だけじゃないって、安心してた。でもそれが、他人の金の味にズックシ「ハマっちゃう」事になるとは、思ってもいなかった。
私、家に帰って、さっそく他人の金を炙ってね。嗅いだんだ、煙を。店のママに聞いて、見よう見まねでやってみたんだけどね。そしたらなんか、吐いちゃってさ。うちには合わなかったっていうか。それで残り半分を、すき焼きの中に入れて食べてみたらさ。案外イケて。ふつうのすき焼き、って感じ?
でもまあ、他人の金って、そんなにもらう事無いでしょ。だから、さ……バイト先の、ほかの子たちの財布から、借りたの。うん。みんなそうやって、貸し借りしてたんだし。そうしたらさ……何っていうんかな。物足りなくなってきて。やっぱり、一方的に借りて返さなかったお金の味の方が、酔えるっていうのかな。分かんないでしょ……麻子は、やったこと無いもんね。他人の金。
そんなこんなで、私ね。店、クビになっちゃって。親代わりになってくれてた、優しかったママが、鬼みたいな顔して私を皆の前でぶちのめしてさ、こう言ったんだ。「あんた、他人の金にハマりやがって! てめえみたいなのは、この店には置いとけないよ!」ってさ。
そもそも他人の金の味を、十八だった私に教えたのはママだよね、とは思った。まあ、自業自得だけどね。あの店で私、ずいぶんと他人の金で、いい思いしたし。
ねえ、麻子。私、ヤバいかな。他人の金食べ過ぎて私、人間じゃなくなったのかな。麻子はどう思うのか聞きたくて、それで呼び出したんだ……
***
吝子の話を聞きながら私は、半分は入っていたメビウスを、空けていた。
あまりにも、ばかげた話だった。そもそもお金は、すき焼きに入れない。紙幣は炙ったりしたら普通に、燃えるし。
いったいこの女は何を言っているんだろう、昔から頭が弱くて、男が変わるたびに宗派も変えるような、意志薄弱な女だった。クリスチャン、浄土真宗、手かざし、朝の早起き会、白装束、今は何だ、瞑想とヨガの会だったか……彼女の事は何でも知っていると思っていただけに、他人の金を食べているという突然の告白は、思ったよりも私の心にダメージを与えたようだった。私の煙草を持つ指は無意識に、震えていた。
「ふ――――――――――――――――――――――――っ」
長い溜息を、煙とともに天に向かって吐き出したら、吝子がシクシクと泣くのが聞こえた。私は吝子の方を見ないで、空になった水色の箱を、握りつぶした。
「ねえ吝子。今付き合ってる男、どんな奴」
私の問いに、吝子は下がり眉をさらに下げて
「今は誰とも付き合ってない」と答えた。
私は「そっか」と言ってから、何だか吝子に対して冷た過ぎたなと思い、彼女を家まで送った。
***
「あれ。おかしいな。どこだろ、昨日、カバンに入れたよね。それで……」
次の日の朝。財布を無くした私は、途方に暮れた。そして夕方仕事から帰り、認めたくはないが、ある事実を認めなくてはいけなくなった。
吝子。はっきり言って馬鹿だけど、悪い奴じゃ無かったと、思っていた。だけど、吝子は変わってしまったのだ。他人の金という、悪魔の食べ物によって。たぶん、そういう事なんだろう。
財布の中には、千円とちょっとしか入って無かったのが、せめてもの救いなのだ。いや、そうじゃない。私と吝子の、十年来の友情は、たった千円ちょっとの値段で、消え失せたのだ。
安い友情だったな。でも、楽しいこともあったよ。ありがとう。さよなら。
私は、オレンジと白とライトブルーの、夕方の空に向かって、胸いっぱいの煙を、細く、長く、ふき出した。