紅差し指に止まれ
それは白くて小さな一粒。薄暗い部屋に差し込む光は力無い。冷たい膝に伸びる光の筋は、別に何を照らすでもなく私に当たっていた。みんな自分勝手なのだ。
好意と意識と視線はどうにも紙一重で、飛んでくると動きづらくなることが大半だ。それに加えて無意識で無責任だからたちが悪い。残り数センチのオレンジジュースを飲み干してから、空いたペットボトルに水道水を勢いよく注ぐ。飲み口が弾いた水が白い手に返って滴っていく。それを見つめていたら水が溢れていた。
伸びた爪でシートから押し出して、奥歯で薬を噛んだ。周りの全てが狡くて好き勝手で、とても動けやしないのだ。けれど動けなかったら叱られる。目の奥がきゅっとなる。4錠までね、医者が言っていた声を思い出す。もう一粒放ってから、オレンジの味がする水で流し込んだ。
苦しい。苦しいのに実態がない。実態がないと大人は納得してくれない。スカートの裾はプリーツがとれてシワが目立ってきていた。私の制服のスカートは短い。と言っても、女子高生の平均からいえば大したことはない。ギャルでもなんでもなく、顔立ちも普通。ただ胸が少し人より大きかった。それだけだ。それだけで、人の見る目は変わるのだ。その事実に17の時には気づいていた。生徒である前に、娘である前に、私は女なのである。この制服は脱いでも着ても、人の好奇を引く。
「コンタクト、外さなきゃな」
小さく呟いて、泣いて寝た。
学校帰りの薄暗い新宿の凛とした寒さが好きだった。
ローファーが小気味よくアスファルトを鳴らす。薄い藍色の空は街のネオンをよく映えさせている。新宿は煩いけれど、私に対しては確かに静かだ。誰も私に関心は無いし、私も誰にも関心がない。雑多で括られた一人になることができるこの街は、人混みすらただの動的な景色になる。
向かってくる雑踏に自分の通り道を探りながら、私は自我を求めていた。自分には生きられない世界があるから、この街で生きる必要があったのだ。漠然とした不安は人波で掻き消すものだ。それがたとえ自傷的であっても。
よく一緒にいた男は彼氏ではなかった。隣のクラスの図体のしっかりした男のことを私はイッシーと呼んでいた。彼と手を繋ぐときはいつも指二本分だけ握っていた。心の奥底までは許したくなかったのだ。冬物の黒いコートを、大きいねと驚けば、茜は小さいからね、と笑ってくれるのが好きだった。カラオケ屋の前の交差点は、思い出せないほどの男と渡ったような気がする。その近くの安いファミレスも。
イッシーとは一番長く続いたお友達だった。私は彼と2人でよくカラオケに行くことが多かった。受付を済ませて部屋に入ったら、私は照明のダイヤルを半分だけ上げる。彼の歌声が好きだった。歌っている首元を眺めては当てもなく重たい選曲パッドをソファに置いて、寝そべりながら歌えそうな曲を探していた。
程なくして彼が次の曲を入れなくなる。それがいつもの合図だった。私たちはよくカラオケでキスをする。彼の首もとは眠くなるけどいつもいい匂いがする。彼にそれを伝えると堪らなく愛おしそうな顔をするのだ。それが私にとってじわりと広がる快感だった。
一度目のキスが終わると私たちはカラオケのミュージック音量をゼロにする。イッシーの隣に戻るとぐい、と身体を引き寄せられる。本当は続きのキスなんかどうだっていいのだ。胸に延ばされる手が大きいことも何も問題ではなくて、性を通してでも「生きてていいよ」と言われたかったのだ。カラオケのモニターには口パクでアーティストの宣伝が流れ続けている。私たちの時間は壊れやすくて無駄で、どうしようもなく本能だった。
カラオケボックスの小さな窓から見える空は大抵暗い。何度ここから飛び降りてしまえば、と思ったことだろうか。いつも帰りたくなかった。学校にも家にも居場所なんてなかった。壁に掛かった電話機が鳴る。
「5分前だって。延長するね」
イッシーにそう言われたとき、私はとても幸福になる。セックスよりカラオケを延長されるほうが嬉しいのが、私の心臓を物語っているように思う。どうにもならない気持ちを、肌に触れることで弄ぶことができたのだ。それ以上に展開しないから、カラオケは好きだった。
ときどき最後まですることもあった。男の人のことはよくわからないが、彼は何度も好きだよとか言いながら私を抱いた。するときは大体私がぼろぼろになっているときだったから、回数はイッシーしか覚えていない。そんなことがどうでもよくなるほど、私のどこに触れてもいいから離れないでいて欲しかった。そんな関係がかれこれ1年近く続くことになる。
イッシーとは高校のクラスが違ったけど、よく教室に遊びに行ったし、理由はわからなかったけど、帰りに迎えに来てくれていた。どれだけキスをしても私たちは側から見たら、ただの仲の良い男女に他ならない。
「今日はなんか呼ばれてるから、また後でね」
帰る準備をしながら声をかけると、イッシーはちょっと驚いてから眉毛を下げて自分の教室に戻っていった。
学校の理科実験室は私がよく告白をされる場所だった。どんなに眠くても、そこに呼び出されたらなんとなく察するものがある。気がつけばお断りをする口上が上手くなっていた。そのうちに握手をしてお別れするほどに。
今日告白してきた人は同じクラスの人だった。一通りのやりとりを済ませてから彼は言った。
「君だったら告白した後もいつも通りでいられるかなって思って」
それが良いことなのか悪いことなのかわからないが、実際そうだった。私は苦笑して、たぶんそうだよと彼の目を見た。彼は困ったように笑って、これからもよろしく、とだけ言って階段を降りていった。
ひとり残されて教室を見渡す。薄暗い教室では夕日が適当な感じに木の机を照らしている。ここで私は今日を含めて何度か男の人の全力を否定している。彼氏がいるのだ。
あんたの付き合いは惰性だよ、と中学生の頃大人びた同級生に言われたことがある。とんでもないことがないと、いやむしろあっても終われないのだ。振らないから振られないし、都合のいい女になっていたとしてもよかった。誰かの絶対でありたかった。その絶対は多い方がもっと安心できる。
大体会えない彼氏、唯は年上で、とても忙しい人だった。それでも私は好きだとか、愛してるだとか言ったし実際本当に好きだった。イッシーも私に同じようなことを言う。時々、唯について「本当に付き合ってるって言えるのそれ?」と言ったりしていたが、彼氏を揶揄されるのは好きじゃなかった。勝手な話だ。
「茜、イッシーが探してたよ」
ポニーテールの女子が駆けてくる。皐月だ。彼女はこんな状態の私でも許してくれる、本当に数少ない女友達だ。部活も同じでしっかりしてるようで抜けていたりするから、つい一緒になって笑ってしまう。
「みんなで帰ろうか」
私たちは3人で山手線に乗り込んだ。そこでする他愛もない話が私はとても好きだった。
3年生の夏のある日、通学電車でイッシーはちょっと浮かれたテンションで言った。
「俺、好きな人ができた」
「ふぅん」
どうせ私のことだろう。向かい合わせになったまま、イッシーの指に手を絡ませた。
「皐月」
「……まじ」
脳裏に浮かんだのは直近の3人で出かける約束だった。
「京都行く約束はどうするの……私はどんな立場でいれば……?」
「何も気にしなくていいよ」
でも2日おきにしかラインの返事が来ないんだよね、とぼやく彼の手から私は指を解いた。
この手は一体どこに匿って貰えばいいのだろう。
次に会った時から、イッシーはまず私と手を繋がなくなった。久しぶりに2人で会っても改札前でハグをしなくなった。カラオケはただの歌披露の場になった。ずっと一定の距離感があったし、近寄ったらその分だけ離れられた。
「ねぇ、教えてあげようか」
私はニヤリと口角を上げる。
「皐月って胸大きいんだよ」
「そ、そういうことは言わないで!」
普通に赤面するイッシーに私はひどく腹が立った。それはまるで……皐月のことが本当に好きみたいで。
「……皐月のことばっか」
「やっと言ったな」
イッシーは笑う。私はここでやっと彼のグロテスクさに気づくことになる。
その後何度問い詰めても皐月のことを「好きかわからない」「迷っている」でごまかされた。そんな曖昧でいいの、と問い詰めて「君だってそうだろ?」と言われればぐぅの音もない。つまりイッシーは私と皐月をちょうど天秤にかけてる真っ最中だったのだ。
私に皐月のことで揺れていると思わせれば、気を引くために私が何かするかもしれないし、皐月の恋愛事情はまだわからないから調査がしたいし、という次第である。
実際の旅行中は私のことを全く名前で呼ばなくなった。ねぇ、とか、あのさ、とか。茜なんて絶対呼ばないし、苗字ですらも呼ばない。だから呼ばれなかった話は皐月としているのだろう、ということにして返事をしなかったら茜はいま病気で調子が悪い、ということになっていた。2人が楽しそうに話すのを京都の街並みごと眺めてみる。……あんまり綺麗な景色じゃないな、と思った。
イッシーは4月生まれだからもう免許を持っていた。そしてやたら皐月を助手席に乗せたがった。皐月が駐車の手助けをするために車から降りて、笑顔で案内している時だけ、車の中は知っている空気だった。それもそれで腹立たしく、私は上手に喋れないままだった。
イッシーは電車に乗る時、降りる時私に触れられないよう距離を取る。さも昔からそれが当たり前だったかのように。何故か私と皐月の間に立つイッシーと会話をする気にもならず私は広告を眺めていた。いつもと違う広告は「本当に恋をしたことがありますか」なんて癪なことを言う。教会の絵が書かれたその一枚の紙きれは真理を言っているような、嘘をついているような不思議さがあった。世の中の真理というものはそれらしく聞こえないことが多いのかもしれない。でもやっぱり嘘だな、と私は1人で頷いた。
宿についてご飯を食べて私たちはジュースで乾杯した。その後に繋いだテレビゲームでもイッシーは相変わらずで皐月のことを褒め、注意は私にする。皐月が私の話をしても、イッシーが皐月の話に戻す。ふと思い立ってゲームを止めて宿の手続きから出費の割り勘までをする私を横目に、彼ら2人しかわからないゲームが始まる。
いつもだったら微笑ましい風景なのだけど、その時は脳裏がピカピカしていた。とんでもない状況に出会ってしまったと。好きだった女と現在進行形で好きな女と過ごす時間はいかがですか。幸せですか。妬かれても美味しいでしょうね。私は小さく息を吐いた。人のグロさとはとんでもないものなのだと。私の指は薬を出すために金属っぽい音をたてた。
旅が終わって家に着いてから、私は3人のライングループをそっと抜けた。
京都旅行からしばらく経ってから、半年振りに彼氏に会った。2日だけのささいなデートである。彼は宮城の小さな5階建てのアパートに住んでいて、世の中ではだいぶ優秀とされる大学に通っていた。
行く機会も少ないから合鍵は持っていなかった。チャイムを押すと、キュイ、とボタンが擦れる小さな音がする。
茶色いドアが開いておかえり、と唯は言った。付き合った頃と変わらない笑顔だ。それが不思議で、素敵で悲しくて、私の目から涙が溢れる。
「なんで泣くの」
笑った顔のまま唯は私の頭をしばらく撫でていた。
小さな玄関を抜けるとワンルームの中に唯の生活があった。
「一人暮らしって感じだね」
私が呟くと、唯は笑う。
「大変だけどね、楽しいよ」
ふいに唯が私の身体を引き寄せる。唯の匂いがわきたって、着古されたトレーナーから温度が伝わる。あぁ、これはキスの流れだと身体が察知する。私は身体を強張らせて、唯の唇を止めた。
「唯、あのね」
「どうした?」
「私、唯に言わなきゃいけないことがあるの」
唯の表情が変わるのがわかった。私は東京での今の状況をぽつりぽつりと話し出した。イッシーのこと、イッシーとのこと。彼をグロテスクだと感じてしまったこと。そして唯への謝罪。
「そうか、よく話してくれたね」
「……怒らないの?」
「僕はね、茜。茜がどこへ寄り道しようとも、帰ってくる場所が僕の隣だって、僕はずっと前から知っているし確信しているんだよ」
私が弱気なことを言うと唯は決まってこう言うのだ。その後全てを知った上で、承知した上で絶対の抱擁をくれた。
私はまだ唯の隣でも眠れない日がある。震えて怖くてどうしようもない夜がある。抱きしめられても身体が拒否をする。1人で耐えなくてはならない、と声がする。結局唯の寝顔を横目に薬で眠ることになるのだが、それでも彼は、
「そうなった茜のこと面倒だなーとは思うけど、嫌いじゃないよ」
と笑う。そういうとき私はなんて言ったらいいのかわからなくて、つぶれそうな声でありがとう、と呟いている。
帰りのバスは人が少なくて、手は唯の感触を忘れないように必死だった。唯と久しぶりに会ったからと言って、1人に戻った時の日常が突然きらめく訳ではないことを私は知っている。短いデートの後でも死にたくはなるし、世の中への嫌悪も、道行く大声も消えてなくなるわけじゃない。ただ何処かに行きたくても行かないのは、死ぬなという、唯からの思いとそれに少なからず呼応する私がいるからなのである。
無音に近い恋なのだ。
どうしようもなく広くて凪いでいる。
それに気づいているような気づけないような顔をして、私はまだ高校生をしている。手癖が悪いのだと笑っていられるのは幼いからなのだと思う。いつかこの風が吹かない恋の意味がわかったとき、私はまたどうしようもなくなって泣くのだろう。
それからイッシーとはあまり連絡を取らなくなった。たまに話したときに、皐月と出かける約束をしただとか、そんな話を聞くくらいだ。もう彼に私を測らせたりしない。私の心臓はイッシーに対して揺らがなくなっていた。
一緒にいた頃にイッシーが教えてくれた曲はイッシーが離れた後に本領を発揮している。私が愛してやまない音楽はイッシーが昔私に贈ったものだ。だからそれを唯に歌い贈るには罪悪感が強すぎた。別れる男に花を一輪教えておけば、その花を見るたびに別れた女のことを思い出す。という話がある。
もしこの時代に別れる男女があれば、男は女に命を拾うような曲を何曲かカラオケで歌えばいい。動画サイトのリンクを教えればいい。そうすれば彼女は命救われたい時にその曲を聞き、図らずも君のことを思い出すだろう。それはとてもグロテスクな幸福であるに違いない。
イッシーが今後いくら綺麗な歌を見つけようとも、一番最初にそれを伝えたいのが私でなくなった途端、それはもう意味を成さない。皐月に対してなら尚更。それはとても無意味で、イッシーをつまらない男に成り下げるだけなのだ。
私は今でも薬は飲むし手癖が何か言うこともあるけれど、面倒なことはごめんだし他人を傷つける術も散々知ってしまった。紅差し指は薬指の別名だ。昔の人が紅を引く指だったといわれている。
次に紅差し指を使うのは、凪いだ恋に口づけするときだけだ。