クライアウト
1.
――見上げるたびこの新町の空はいつまで闇く痩せ細ったにびいろに包まれたままでいるのだろう? 上から見ても、下から見ても、哀しみばかりが今にも溢れそうだ。
突然の交通事故で両親を亡くしはや半年。本当に早いな、と感じる。
ひとりになった家には散らかったままのものと、あの日からまるで触れられないままでいるものがあって。いずれにせよ、何も手に付かないまま今日まで過ごしている。
学校から帰りカバンを放り投げ日差しひとつ通さないような黒いパーカーと色褪せたジーンズに着がえる。
スニーカーを履きこれからまずは新聞配達へ出てそれからゲーセンでバイト、深夜にコンビニでバイト、家に帰って少し横になって朝の3時に起きて朝刊を配達し飯食って登校するルーティン。
こんなこと、学校にはもちろん内緒。バレたら退学だ。
両親の事故で遺してくれたものはあるけれど、先のことを考えたら全然足りない。お金はいくらでもあるに越したことはない。
一寸先は闇だっていうことを、僕は亡くなった両親の事故で知った。にびいろの空からやがて降り出した雨が止まない日の出来事だった。
2.
夕刊配達で新町通りをぐるりと回っていると、ショーパブ『マグノリア』で働いているロシアの女の子が磨りガラスの窓からそっと顔を覗かせ僕に声をかけてくる。
彼女たちはお店の向かいにある、テナントビルの二階の部屋を下宿先にしている。そこからいつも冷やかしの声かけをしてくるのだけど、ロシア語の軽やかな声かけで声に嫌みがない。
彼女たち、この町に来てからずっとこのどんよりした空を眺めて何を思うのだろうな。かわいいあの子、祖国の空も同じようにどんよりとしてるのだろうか?
この国の湿った空がもたらす鬱屈した思いは、君の国の空とはきっと違うと思う。ゴミ袋にたむろするくちばしにチェリーをくわえたカラスを眺め、自由さえずるのをあの子は待っている。
世界はひとつに繋がっているなんて言うけどさ、雲がちぎれていくだけで覆う思いも流す涙も、涙の後に浮かぶ虹の色にしたって随分と違うだろうと思うんだ。
いつも僕が君のことをもう一度振り返る、そんなタイミングでひとり雨に包まれているように、静か頬を濡らしていて。
十字路のちょうど真ん中にあるマンホールに立つとアスファルトで幾層に重ねて塗りたくられて、山んなってるそこで軽く見下ろして何か見晴らし暮れゆく空見届け、明けない夜を出迎えるんだ。
今日も何も変わらない。彩られて華やかなのは外面だけ。傷んだものは置きざらしなままだ。わけ隔てられたやりとりが通りにどこまでもどこまでも打ち棄てられている気がした。
日が暮れて後光さえ届かぬ様になったところを見限り、チェリー咥えたカラスがどこか遠くへ飛び立っていくんだ。僕らの知らない華胥の国へ。
そしてダンサーの君は窓を閉じ僕の知らない別の顔へと変貌していく。帳閉じた夜闇の町に屯する酔っぱらいたちへサイコアナルシスを施すんだ。あいつらいつも嘯くんだ。
「酔っているのはお前らで俺は至ってシラフだ」と。ああ、いつまで妄想を見ているんだ、なあ追憶のロマンスよ。今日も君は涙で酒を割って暗い夜を明かしていく。
――ああ。僕は雨を眺めて君の事を助けたいと願うんだ。
道路端のプランターに植えられたサルビアの花びらが降り積もって散るみたいにつらい事はいつも押し並べて出てくる気がするんだ。
あぶり出されるようにときめきと知らない感情を綯い交ぜにして、お互いに分からない言葉でやりとりを交わそうとして。
君と僕は違う宇宙にいるみたいに何も通じないまま、何も分からないままに互い違いなコミュニケーションを交わすんだ。僕も君もこの町の優しい顔なんて分からない。
幸せなんてこの町にはもうなくて、どこかに探しにいかなきゃ、ということ。
何か理解しようと、憶えたいことを何か探すんだ。
3.
ある日、君は窓辺から一冊の本を投げ込んできた。Chekhovって綴りだからきっと『チェーコフ』って読むのだろうか。
(タイトルは何だろうな? ロシア語なんて読めなくて、全然よくわかんない。)
ボサっと僕が突っ立っている横で猫が流し目したのを見逃さなかった。
なあお前らは自由にやってるか?
僕は何で慌ただしく生きてんだろうな。
自由が欲しくて足掻いているけど、いったい何のための自由なんだい?
嘶く猫に嗤われた気がした。
あの子が僕に何か話しかける。だけど相変わらずよく分かんないことばで早口でまくしたてるように話しかけてきて。
そのたび僕は影を踏まれたように、まるで因果に囚われたような顔して、オレンジ色したランプシェードに照らされた君を見る。
僕は君の虜になっていて、そっちの方へ行きたいと願っている。君の言葉はまるで魔法だ。
「……ねえ。何言ってんの?」
僕は彼女に向かって問いかける。
さながら迷宮に迷い込み妖精に話しかけるようなものだ。彼女の顔はどことなく僕の好きなイラストレーター・弘司が描く妖精のような儚さと麗しさを讃えていて、少し離れた距離からでも輝いてみえた。
叶うものなら、君を連れ去ってこの町から出て行きたい。君が空を見つめ涙に暮れるたび、僕はあの曇天模様を突き破りたいと思うんだ。
「あの店に入るダンサーは大体売られて来た子」町のみんなが口々に言っている。わざわざあんな店に遊びに行くなんてどうかしてる、と。
ショーパブなんて聞こえのいい、場末のこんな見世物小屋で働いている。まるでスリラーのようなもので誰かが「さっさとこんな店潰れろ」と願えば消えてしまうような場所だ。
でも僕はあの子が遠く離れた国で暮らす家族のためにダンサーをやりこんな街まで来ている事を知っている。
この店がなくなったとして、僕も君もにびいろの空から逃れられないままだ。
君は違う籠に捕らえられ使い物にならなくなるまで踊り続けるんだろう。僕は追憶に捕らえられ明けない夜に流浪を画くんだ。
何とか会話をしようとあの子からもらった本の単語を頼りに少しずつ、少しずつやり取りをした。
たどたどしいやり取りで君の事を少しずつ知る。
名前はナターシャ。店にいる大体のダンサーと同じく、お金のためにダンサーになった。
年は言わなかった。ただすごく幼く見えた。
ナターシャのことをこの世界から連れ出せるものなら、君の手を引き次の世界へ旅立ちたいと考えてしまう。
暗く狭い籠にお互い囚われたままじゃ嫌だろう。
(群がる雲に覆われた空を突き抜けて叶うものなら、一緒に楽園へいきませんか? それが叶わないとしても、隣に寄り添いながら願うことぐらいできませんか?)
こんなにびいろの空じゃいつ夜になったのかもわからない。星ひとつ瞬かないものでさ。君と僕を隔てたこの距離は何万光年と離れた距離じゃないだろう?
なあ、ナターシャ。今君を思うこの気持ちが何光年先の光になって残る、何てことは望まない。次に雨が降れば君と一緒に町を出ようと決めた。
4.
「なあ琉介。お前学校やめるって」
「ああ」
「……馬鹿だなあ。今やめてどうすんだよ? 今日進路相談だぞ?」
「ああ。今日進路を決めた。それがこれ」
「ああ? マジで言ってんの?」
僕の言うことに黒田も呆れて開いた口が塞がらなかった。
そうだろうな、と心の中で納得する。黒田、これが最後のわがままだから黙って聞いて欲しいんだ、と僕は中学以来の親友に願いながら話を続けた。
「何だかさ。ここにいてもやりたい事が違ったんだ。この町の中で抜け出せないまま過ごすより、今すぐ抜け出してもっと先の事見たいんだよ」
「今すぐじゃなくったっていいだろ? 卒業して、それからでも。先のこととか、ちゃんと考えてんのかよ?」
「それだよ。卒業して、結局何になるんだって話」
「え?」
黒田はぎょっとして僕を見つめた。
僕は黒田に「このまま卒業しても仕方がない理由」をきちんと話す。
「なあ黒田。別に勉強なんてしたいときに出来るし、やりたいことに沿えば仕事なんて色々なことが出来るはずだ。どうして今就職だの、進路だので縛られるんだ? 僕は今そういうことで時間を使いたくはない。もっと見なきゃいけない物があるんだ」
告げ終えてから黒田は呆れて、
「それは、学校やめてまでしなきゃいけないのかよ?」
なんてぼやいた。僕は、
「ああ」
と、そう返した。
「朝から夜から自分で学費とか工面したり何でもやっていたら、親が居なくなった現実にようやく向き合えてさ。ふたりだってやりたいようにやれ、と空から願うと思う」
「旅をさせろ、とは言うけどよ。時と場合によるだろ?」
「義務教育はもう終わったよ」
「それもそうだけどよ」
――誰だっていつかひとりになるから傘を持たず雨に打たれて進むのも当たり前に思わないと、しんどいもんさ。
こうして僕は学校を辞めた。
退学におけるすべての手続きを終えて、しばらくざわつきは収まらなかったけれど早いうちに決めて良かった。
自分で納得した答えを自分で出せたのだから。
僕はようやくこの町を後にする。
綿々とした雨催いの空を抜け出し、新しい希望を探しに行こうと決めた。
もしも叶うものなら「あの子を連れていこう」と。そう決めた。
無理だ、なんて決めたらダメだ。ひとつひとつ辿り着いてきた。
だから、この先だって何とかなる。突き抜けていく先のことをひたすらあるがままに追いかけていけば……。
雨が降りだした中、僕は思い返すナターシャの瞳に、浮かべてくれるだろう笑顔に虹を見ていた。
ようやく新町通りに着いた頃には、スマホの時計は6時を回ろうとしていた。
見えてきたショーパブ『マグノリア』の前へ、僕はようやくたどり着く。
しかし――
「これは……」
『マグノリア』の扉は暗く堅く閉ざされていて、店の向かい側にあるテナントビルの二階、見上げれば窓は閉ざされ人気はなくそこにナターシャの姿はもうなかった。
二、三日はここに通った。ここにいない彼女が窓辺にふっと現れることを願いずっとずっと眺めた。
『マグノリア』はそれから一度たりとも開くことはなかったし、ナターシャと会うことは二度となかった。
突然の終わりが来る前、店の前には人だかりが出来、サイレンが鳴り響いたそうだ。
口々に誰かが「いつかそういう日が来る」なんて言っていた。
僕は彼女からもらった本を手にしたままこの町を後にする。
きっといつか僕たちには素敵な解決法が見つかる。その時再び会えるんだろう、と信じている。
この物語の最後をたどたどしく訳してようやく分かったよ。
手にした本のタイトルが『犬を連れた奥さん』だっていうことを。
ありふれた平凡な話で、でもそれを夢見たあの子は狭くて窮屈な籠の中から抜け出せたのだろうか?
また違う籠に囚われたのだろうか?
どうかどうか自由に羽を伸ばし羽ばたいていると信じたいんだ。
――ねえナターシャ。
誰だって自由に羽ばたけると信じたいんだ。
僕だって自由に羽ばたける、とそう信じたいから。
まともにロシア語なんて読めなかったからチェーホフのことをずっと『チェーコフ』と思っていた。
自嘲しながら雨に濡れ、君の事由に明るい虹が架かる事を願った。(了)