浅虫温泉、その名も宿つばき 続き
駅から直ぐ近くに市の物産館、そこにねぶたが有るというので、見に行く。いやはや凄い、大太鼓、5メートルはあるのではないか、また同様の太鼓が重なり、その上に立ちねぶたが。その迫力に圧倒されながら、次なる見物の斜陽館に。知らぬ人はいない太宰治の生家だ。五所川原から車で北へ30分、金木町に到着。専用駐車場に停め、早速斜陽館に。
“走れメロス”と玉川浄水で自殺したことしか知らないが、ここまできたぜ、はるばると。玉川上水は会津藩初代藩主にして三代家光公の異母弟である保科正之公が開いた川。だから、もし正之公が用水を作っていなければ太宰も自殺することはなかっただろうに。
いやはや驚いた、凄い建物。入って直ぐ土間があるが、何十人も入れる、この地方を束ねる津島家の権勢が良く分かる。今も、金持ちと貧乏人の差は歴然としているが、その当時は明日食べる米にも困る農民がいる反面、このような豪奢な建物にいる人は、もう人ではないでしょう。
案内コースに従い館内を見て廻るが、併設の太宰の母が住む洋館に入った時、その驚きは増した。犬山市の明治村では外人が建てた洋館を見たが、津軽の片田舎である金木町に、それと競うかのような洋館は他を圧倒しただろう。大勢の兄弟に囲まれながら、可愛がられて文才もあり何一つ不足が無いと思われるのに、自殺してしまう太宰を傍目でみて見ると、何て自分勝手で苦労知らずと思うが、それ故に悩んだのか。
川端康成に送った書簡は、昔ながらの巻紙で大きな字が自在に書面を踊っている、芥川賞を請い願う心情を、哀れ、と見るかは人それぞれだろうと感じた。
赤は前田加賀百万石が許された色だが、太宰の生家もその赤瓦。
二日目の宿は、その名も宿つばき、浅虫温泉。青森の奥座敷、源泉掛け流しの湯宿。6時半到着、歳を召された受付の男性から、今日は函館から小学生が修学旅行に来ており、少し騒がしいかもしれないことと、8時半から9時半までは貸し切りとなるので、ご入浴はその前後となります、と丁寧に。
2階に案内され、部屋は15畳程の縦長の部屋。夕食は7時20分からで、1階の個室があてがわれているので、家族だけで楽しめる。早速一風呂浴びる。泉質は透明でさらさら。時間通り部屋に向かうと、2階の大広間の入り口には小さなスリッパが26対、大人用が2対、食事中か襖越しに賑やかな声が聞こえる。そう云えば、昨年の夏佐渡に渡る時、汽船の待合室で長野の小学生の修学旅行生に会ったことを思い出した。
部屋はカラオケも出来る作りとなっているので広い。長台が2個並べられ、その間1メートル弱、宏と哲也、響子ちゃんと私。目の前には60センチ四方の箱。給仕をして呉れる20代半ばの女性がその蓋を開けると、12に仕切られた区画のそれぞれに、綺麗な皿や小鉢に盛られた、目にも鮮やかな料理が。驚いたことに太い竹竿の中は、4合の酒が。
え、一人2合。ごゆっくり、と、仲居さんが出ていったので、ビール(生はありませんでした)で乾杯し食事を始める。青森の地酒、冷えている、料理と共に飲むとこれが結構美味い。
食事を終え、部屋でまた飲む。この宿に到着する前に温泉の物産館で今夜の酒を求めたが、ぴんと来る酒がなかった。宿の目の前に酒屋があることを見つけ、哲也と響子ちゃんは、宏と私が風呂に入っている内に買っておきました。今日の1日の出来事を思い出しながら、酒を飲むのも旅ならではの味わい。
朝は7時半から部屋で食事、その前に湯にも入ったので美味い。朝から雨が降り出し、今日は雨の中を出発。取り立てて計画はなかったので、弘前に行きリンゴパイを食べようと。弘前に向かい、買い物をし、パイを食べ、降りやまぬ雨の中、高速に乗り無事2泊3日の旅も終了。一泊余分に泊まったことで、ゆったりとした旅となり、また家族の思い出が一つ増えた。