第9話
俺の店「何でも買います。」の照明は別に暗い訳じゃない。人一人が十二分に見渡せるくらいの広さのスペースをカバーするほどの光量を持った蛍光灯を使用している。けれども、それにもかかわらず、店の奥の方、端の方が暗くなってしまうのは、店内に所狭しと置かれている商品達が蛍光灯からの光を遮ってしまうからである。
幸いにも、俺が座するレジ奥の席については、頭上に照明が配置されているため、ここでなら細かい作業に困らない。のだが、残念なことに、店での雑務を行う上ではどうしても薄暗い場所に行かなくてはいけないことがある。
別に一人なら問題はない。さほど細かい作業を店の端で行うことなんてないし、その必要性もないからだ。けれども、今はちょっと様子が異なる。
「えーっと、な、だから、この商品は──」
俺は店の奥にあるプラモデルの在庫整理をしていた。正しくは、在庫整理というより、ネットにて注文が入ったプラモデルを商品棚からピックして持ってくるという作業なのだが──
「うん」
店の商品と商品の間にある通路は基本的に狭い。人一人しか通ることを想定していないためだ。故に、俺の隣に立っているアメと俺との距離は異様に近い。よく、女の人の匂いがする、なんてことを世間では言うものだが、んなもんシャンプーの匂いだろうと何も知らない人は言うかもしれないし、事実俺も今日までそう思っていたが、それは違う。違うのである。この機会によく覚えておいて頂きたい。そして、俺は、この機会によく心に刻み込んでおかなければなるまい。
アメは俺の家のシャンプー等を使用している。故に、俺と同じ匂いがする、といったらそうではない。例えるなら、ほわほわ、だろうか。アメに色気があるかと言われたら、ほとんどないと評してもよかろう。どちらかというと可愛い系だ。しかし、ここまで距離が近づき、さらにそこに薄暗いというエッセンスが加わるとそうはいかないというのがこの世の中の不思議なところである。なんだか淡く切なくきゅんきゅんとする、そんな恋心に包まれてしまいつつあるのだ、俺の心は。
しかし、大丈夫、安心して欲しい。
俺はこれでも商売人。雇われの労働者ではなく、自分一人で商売をして生計を立てている。よって、商売のことに関してはより熱心といえる、多分。であるから、今、この場でそんな桃色脳みそなことを考えている訳にはいかず、アメがこの家で飯を食っていく以上、多少の仕事をやれるようにしなければならないのだ。その使命をしっかりと頭に入れて、俺は煩悩さんに負けることなく商品についての説明を進める。
「えっとな、だから、確かに同じ名前のプラモデルかもしれないけれど、再版版と初回版、それに、ネット限定発売の限定版があるんだ」
「うん、うん」
こんな時に限って、アメの好奇心には何故か火が付いており、熱心にプラモデルの絵柄を見ているが、それ故に、俺に必要以上に接近し、それどころか、体と体がごっつんこしてしまっているという事実に気づいていないらしい。接近し過ぎる、まだ成長しきっていないと思われる肉体が俺の肩や二の腕にぶつかることを堪えながら、どうしたものか、と説明を続けようとしていると、何やら、不穏な空気を感じ取る。
何だ? 何だろう? いやいや、何かある。そうだ、この感覚、それは視線だ。
ぶん、と俺は自分の視線をプラモデルから真横、店の中央へと移す。勢いよく見たそちらには、俺とアメを真顔で腕を組んでじっと見つめている背の高い軍帽軍服女がいた。
「……おっと、これは失礼」
そのガタイの良いボディ、整った顔のこれまた整った口からにやにやしながら言葉を吐きだした女は雫石。
「な、なんだ。これはな──」
とっさに説明しようとする俺の発言に封をするように、右手の平を俺に向け発言を制止。
「皆まで言うな。分かっている。北日本共和国には馴染みの薄い、自由恋愛、という文化だろ?」
「いやいや、違う、違うから。北日本共和国にもとても馴染みのある、仕事を教えるという文化だ」
「なるほど。店の奥で仕事を任されるのか、その子は」
「違う、待て、そうじゃない」
「はっはっは、何、別にこの店で何かやましい事態が起きようと、私には大体何も関係がないからな、問題ない!」
俺は、雫石の誤解に対して問題意識をとても持っているのである。このマイペース加減、ついていけない。
「しかし、だ!」
いきなり雫石は笑いを止めて俺を睨みつける。こわっ。威圧感がすごいぞ。一瞬死を覚悟してしまった。すぐに表情を緩め、雫石は続ける。
「私の依頼した商品の受け渡しが遮られるのはとっても問題があるぅ~。届いたのだろ? 隠さなくてもいい。だってラブメール貰ったもんなっ! 早く見せてくれ、その女とちちくりあうのはその後にするんだぁ~このこのぉ」
いきなり表情と口調が一変したのは勿論、ロボット・ジークのプラモデルを手に入れられるからに他ならない。そういうところがオタク気質であるのだが、俺はそれに対しては別に引くなんてことはしない。喜んでいるのが分かりやすいのは良いことだ。
「だーから、そんなことしてないって……悪い、アメ。作業については後で教えるよ。ちょっと待っててくれな」
俺は小さくため息をつきつつ、アメを、ほら、ほら、と狭い通路から押し出し、その後に続いて通路から出る。
うずうずしっぱなしの雫石を横目に、俺はレジの下のスペースから、昨日買い取ってきたばかりのロボット・ジークのプラモデルを取り出す。
「ほら、見ろ! ちゃんと手に入れてやったぞ~」
自慢気に見せる。今日ばかりは俺が雫石よりも圧倒的優位に立てる日なのである。
「ふーっ! ふーっ! よぉし、いいぞ、そのまま持っていろ……いいか、渡すんだ、それを、私に、分かるな……はぁ、はぁ」
まるで、エモノを狙う肉食獣のように息荒く今にも俺に飛び掛かってきそうなその猛獣を、どうどうと宥めながら、俺はプラモデルを手渡す。勢いよく飛びつくかと思われたが、流石にそこは冷静に、プラモデルの箱を一切傷つけないような慎重な手さばきでひょいと俺の手からそれを取り上げる。そのままレジ前のカウンターに置き、中身を恐る恐る確かめる。
その間、雫石はひたすら無言であった。目つきは真剣そのもので、顔からは時々笑みが零れる。それだけ楽しみであったのだろうということがあまりにも伝わりすぎる絵面に俺は思わず笑いをこぼす。
「何がおかしい!」
「い、いや、なんでも、なんでもないです」
「いやね、君、それにしても、よくこんなに状態の良いものを見つけてくれた! 最初、家になかったという連絡を受けた時は、一度期待させた私を谷の底に突き落すような真似をしてくれて、よし、明日この店に戦車の一両でも引き連れて来よう! と何度思ったことか」
「や、や」
おいおい、そんなことを思っていたのか。恐ろしい女だ。まぁ、そんなことをしようものなら国際問題に発展しかねないので現実的には無理だが。いや、分からん、こいつならやりかねん……。
「しかし、そんなことをしても見つからないものは見つからない。そう思って気長に待つつもりでいたが、それにしても、こんなにも早く手に入るだなんてなぁ!」
「上機嫌だなぁ」
そして、戦車で突撃してこなかったのは、そんなことをしても見つからないから、なんだな、理由。
「当たり前だろ? いやぁ、すごい、すごいぞぉ。このフォルム。だけじゃないな、この外箱だって年代を感じる。懐かしいという感覚ではない。日本列島の復興の象徴じゃあないか、これは。語り尽くせぬな」
「まぁ、喜んでもらえて良かったよ」
俺はにこにこ笑顔で雫石の方へ手の平を差し出す。雫石は、パチーン、と手の平を手の平で叩いてくるが、俺の要求は雫石の手の平ではない。
「いや、金だよ、金!」
「あー、そうか、そうだったな、そういう国だったな、ここは」
「まるでそれは俺ががめついみたいな言い方じゃないか」
「そう怒るな。あっちとは文化が違うんだ。えっと、ちょっと待ってくれ。今出すからな」
北日本にも一応通貨はあると思うのだが……という疑問はさておいておく。雫石は、プラモデルを一旦カウンターの上へ置き、ズボンの後ろ、ケツ付近のポケットをまさぐる。はー、にしても身体つきいいよな、なんて下世話な意見は絶対に投げない。今なら上機嫌だから多分笑って受け止められるだろうが。
「……あれ?」
しかし、雫石の上機嫌も、また、それ以上に俺の上機嫌をも止めるような声が雫石の口から発せられる。
「……ない」
「ないぃ?」
ない、というのは、まぁ、これは、どう見ても、現金がない、ということだろう。慌てる雫石は、さらに服中のポケットというポケットを探り、徐々にその挙動は早すぎるものから、ゆっくり、ゆっくり遅くなっていく。そして、ついに、その動きは止まり、
「忘れた!」
と言い放つ。
「はー? 何やってんだよー!」
これには俺も思わずため息。ほんの少し考えたが、
「うーん、それじゃ、これはまだ渡せないな」
そう言って、カウンターの上のロボット・ジークのプラモデルを取り上げようとする。けれども、俺の手がプラモデルに届くよりも遥か早く、雫石はプラモデルを俺の目の前から奪い取って言った。
「ツ、ツケだ! ツケというやつを使わせてもらう!」
「うち、そういうのやってないから」
ぐぐぐ、とみるみる険しい表情になっていく雫石。
「別に、もう確保したんだからいいだろう? また明日にでも取りに来ればいい話じゃないか」
「分からないのか!? この気持ちが! 目の前にこれほどまでに欲しい物があってそれを置いてほいほい帰れというのか!? もし明日、皇国と共和国が戦争をおっぱじめたらどうする!?」
その時は、大人しく店をたたんで俺は遠くの地に引っ越す。
「いや、そうはいったってな……」
雫石は常連だ。彼女が嘘をついてこのプラモデルを騙し取ろうとしているとは思えない。うーむ、けれど……。俺は悩んだ。悩む俺を前に、雫石は思いもよらぬ行動に出る。
「頼むっ! この通り、この通りだ!」
何と、その場に膝をつき始めたのだ。これはまずいぞ、これは、どう見てもこのままいけば土下座だ。土下座をするつもりだ、この女! 目的のためならば手段を選ばないとはこのことか。俺との穏便な関係を保ちつつプラモデルをこの場で手に入れるにはこれしかないとそう結論付けたのだろう。ううむ……。
「分かった! 分かったよ! そんなことしないでくれ。ほら、アメだって見てるし」
まじまじとその様子を観察するアメにこれ以上俺が金のためなら血も涙もない男であるなんていう印象を与える訳にはいかない。いや、というか、そこまでするなら、という気持ちが俺に強くあった。アメがいなかったとしても、流石にここまでされて、それでもダメだなんて言うことはないだろう。彼女は生粋のマニアなのだ。目の前に欲しいものがあったらそこまでしてでもすぐに手に入れたいのだ。俺だって、その気持ちがわからないでもない。共感は出来ないが。
「……! 本当か!?」
雫石は感激したとばかりに物凄い勢いで立ち上がると俺の両手を掴み、うるうるした目で迫ってくる。
「近い、顔近いから」
美人な顔をこれ以上近くに置く訳にもいかず、俺は手を控えめに払い、プラモデルを差し出す。
「おぉ~、おぉぉおお~!!」
まるで子供のようにはしゃぐ雫石からは北日本軍人としての威厳はまるで感じ取れず、そこにあるのはただ一人、大いに喜ぶ、人間が満たされた姿そのものであった。こんな無邪気な女性のどこに、戦車で店をぶっ潰すなんていう破壊的な衝動があるのかと疑いたくなるほどの微笑ましい光景である。
「いいか? 貸しだからな? ちゃんと返せよ。今度持って来いよ?」
という俺の言葉は今の雫石の耳には入っているのか入っていないのかも定かでなく、俺とアメはしばらくそんな雫石の姿を見ながら興奮が収まるのを待つことしかできなかった。
「ふぅ、取り乱して済まない。やはりこの物的欲求を満たされた感覚というのは文化を感じるな」
雫石は軍帽の位置を整え、俺に向き直る。
「古川、君には感謝する」
「いやいや、とんでもない」
「では、私はそろそろ失礼するとしようかな」
俺は、この時、少しだけ雫石に聞きたいことがあった。何か。アメのことだ。とはいえ、アメのいる目の前でその話を出す訳にもいかない。
「見送るよ」
さりげなくアメから距離を置くには、アメを置いて店の外に出る必要がある。本当に僅かな時間しか確保できないだろうが、俺は雫石と共に店の外へと出た。扉を閉めたと同時に、俺はその少なすぎる時間を少しでも無駄にしないようにと心がけた。
「雫石、一つ聞きたいことがあるんだ」
雫石は怪訝な顔をしながらも俺の言葉を待つ。そんな雫石に、俺はたった一言だけ問うた。
「北日本の人間ってのは、俺たちのことをどう思ってるんだ」
そんなことを聞いても何にもならないというのに。けれど、雫石はその質問に、何でもない一言を言うように答えた。
「人によるんじゃないか?」
と。
店の奥から、アメの視線が刺さってきているような気がした。