第15話
ジリジリと時間が流れる。桧山とアメの視線の衝突は終わることのない対立に見えた。先にしびれを切らしたのは、桧山でもなければ、アメでもなく、俺でもなかった。
「そこの一般人、どけ! どかなければ撃つぞ!」
兵士たちの一人が俺にそう脅しかけたのだ。しかし、
「だ、だ、か」
俺は反論しようとしたが言葉が出ない。それだけ恐怖していたのだ。大体、俺ほどこの場からすぐにでも立ち去りたいと思っている人間が他にいるだろうか? いーや、いない。俺はこの場から今すぐに立ち去りたかったし、生きておうちに帰りたかった、ここ、おうちだけど。しかし、それをよしとしてくれない人が俺の後ろで俺の首筋に短刀をつきつけているのであるから、そんな俺のささやかな願望が叶うはずもない。
「やめろ」
その兵士をなだめたのは桧山であった。彼は手でその兵士の銃を降ろす。そうしつつも、自らの構える拳銃を降ろす気配はなかった。俺は思う、なんでもいいからこの場からさっさと立ち去らせてくれ、と。訳の分からないことに巻き込まないでくれ、訳の分からない非日常に巻き込まないでくれ、心の底からそう願った。生きている心地がしなかった。極度のストレス状態だ。もうなるがままに身を任せる他なかったのである。この場から連れ出してくれるならそれだが誰でもいい。とにかく早く、それだけを願う。
アメが俺の腕を引っ張り上げる。どうやら、立ち上がれと言っているらしい。アメが立ち上がるのに少しだけ遅れて、俺はされるがままに立ち上がる。相変わらず俺の首元には短刀が突き付けられている。アメは、いざとなったら俺の首を切り落とすのだろうか。そんなことして、本当に、何になるっていうんだよ。
しかし、桧山は思いもよらないことを口にする。
「……行け」
俺は驚いた。何を言っているんだ、と思わずいいそうになった。恐らく……恐らくではあるが、きっと、桧山は俺が死ぬことを恐れているのだ。それ以外に、桧山の発言には説明がつかない。
「い、いいんですか!?」
「こいつを逃がすわけには!」
兵士たちが口々に桧山に抗議の声を上げる。どうやら一枚岩ではないらしい。それはそうかもしれない、だって、桧山はスーツを着ているのに、兵士たちはまるで戦争をおっぱじめるような服装、装備をしているのだから。
「逃がす訳には行きませんよ!」
アメが俺を連れて道を開けさせ、動きだそうとするのを、兵士の一人が銃を構えて撃とうとしてくる。俺は思わず身構えたが、その兵士の銃を叩き落としたのは他ならぬ桧山だった。さらに、別の兵士がこぞって抗議の声を上げようとするのに対して、誰よりも早く桧山が声を上げた。
「馬鹿野郎が! お前らは、だから、ダメなんだ、血の好きなやつらは! いいか、俺は別にこの女を助けたくて、この小僧を助けたくて道を開けるっていうんじゃねぇんだ、分からねぇか。ここは皇国の領土で、この男は皇国民だ。それを俺たちが原因で殺すっていうことがどれだけ問題になるのかわからねぇのか、って言ってるんだよ!」
「は、は!」
「はい! 失礼いたしました!」
階級は恐らく桧山の方が上なのだろう。彼が何故ここにいるのかということを考えるのは後にするが、とにもかくにも俺は死ななくて済む、らしい。嫌々のように、兵士たちが道を開ける。アメは慎重に慎重に、俺を人質に取りながらじりじりと移動する。
「裏口から出る」
「あ、ああ、あっちだよ」
表からではなく、裏から出ようと考えたアメに、強い力で取り押さえられながら俺は正面の店の入り口と反対、カウンター奥からしばらく歩いたところにある裏口へ向けて歩みを進めていく。
「あ、ま、待って!」
こんなことをこの状況で思いつくのもいかがなものだろうかと思ったが、俺はこの事件が起きるほんの少し前の時間まで用意していた非常食などの存在を思い出す。カウンターのすぐそばに置いてあったそれを手に取る。
「よ、余計なものを!」
アメの強い視線が目に入った。こんなタイミングで冷静に何をやっているんだ、と俺も思ったが、ないよりは合った方がいいに決まってる。おろおろとする兵士たちを前に、俺はそれを手に取り、相変わらずアメに強い力で引っ張られながら移動していく。
兵士たちは覗き込むようにしてカウンターの奥を見ていたが、彼らの姿も、俺とアメが裏口から出て、しばらく歩いたことによって見えなくなる。
「まだ動くなァ!」
アメはそう叫び、桧山らを威嚇すると、今度は俺に、
「トラックを動かせ。それで逃げる」
と指示してくる。刃物を突きつけてくる彼女に反論することは許されず、俺は軍服もどき少女を助手席に、運転することを強いられる。
桧山らがごそごそとこちらへ移動してくるが、アメは、助手席から桧山に見えるように相変わらず俺に刃物を突き付けており、桧山らはどうすることもできないでいるようだった。軽トラのエンジンがかかり、アメに問う。
「どこ、どこに行けばいいんだよ」
「いいから! 走らせて! 出発して! 早く!」
これほど叫ぶアメを見たのは初めてのことである。さっきの場面といい、アメの様子はまるで別人にでもなったかのように活発で、激しく、強い。心なしか鋭くなった目つきは、前にいる桧山たちを鋭くとらえ、その動きに少しでも不審な点があれば決して許さない、そんな目つきであった。
俺はその様子に圧倒され、アクセルを踏み、クラッチを操作する。いつものように動きだした軽トラック。その軽トラックを見送るように見ている桧山達。軽トラックの横にはアメが乗っているし、運転席には俺がいる。けれど、そこに日常の二文字がある訳もなく、俺はほとんど車通りがない道を走らせて、大きな通りへと出る。それにしても、何か、騒がしい気がする。警察車両が何台か見える。どこかへ向かっていっているようだ。なんなんだ?
そのままどちらでもなく、適当に、走りやすい方向へと車を進める。街の中の騒がしさに比例するように、車通りはいつにも増して少ない。何かあったのだろうか、と不安にならざるを得ない。
もうバックミラーにも、どこにも、桧山たちの姿は見えない。追ってくる様子もないようだ。俺は、けれども、そのまま車を走らせながら、はぁ、と大きくため息をつき、アメに言う。
「なぁ、それ……もういいだろ、どけてくれよ」
未だに俺の体の近くにあるアメの短刀に向けて言う。何かの拍子にぶさっといったでは洒落にならない。早く引っ込めて欲しい。
「…………」
アメは何も言うことなく、無言で、その短刀を引っ込め、服の中にしまっていたらしい鞘へと収める。とりあえず、俺の生命の危機は一旦去ったようだった。いや、ほんとに、物騒極まりない……。ここにきて、ようやく、俺はその危機を認識してきたらしく、体がぷるぷると震え始めていた。事故なんてしないように、少ない車通りではあるが細心の注意を払いつつ、俺は俺の店「何でも買います。」から離れるようにして車を走らせていく。
沈黙が車内を包み、車内に響き渡るのはただただ走行音のみであったが、俺はいよいよ堪らず、口を開いた。
「アメ、どういうことなんだよ、説明してくれるよな」
けれども、アメの返事は相変わらずの無言。横目でチラリとアメを見てみると、そこには、怖い目で前だけを見つめている軍服もどきの女の子がいた。まるで何も聞くなと言わんがばかりの顔だ。しかし、それで俺が納得する訳がないし、納得する訳にもいかない。何せ、何も分かっていないのだもの。
「なぁ、おいって。俺はもうお前を降ろしてこのまま家に帰っていいのか?」
すると、アメはギラリと俺を見て、
「ダメ」
とだけ言い放つ。こわっ。手の刃物がその怖さを二倍、三倍に引き立てている。
「いや、そうは言われてもな……だって、そもそも、どこ行けばいいんだよ。なぁ」
「いいから、走らせて。……そうね、一旦、山の方へ」
山。漠然とした話だ。福見市の外れは山のふもとであるから、そこを指しているのだろう。俺は言われた通りに車を走らせることにした。このアメは、どうやら、きっと、俺が知っているアメとは何か違うのだという恐れと確信が、アメの言葉に従うための動機となった。
「なぁ、何があったっていうんだ、そろそろ教えてくれても──」
「ラジオ」
「え?」
「ラジオ、つけられる?」
アメの要求に従い、俺はダッシュボードのラジオを入れる。ザザ、という雑音がして、聞こえてくる女性アナウンサーの声。
『──ました。──市、──市、福見市を始めとする国境沿いの──』
電波の入りを調整すると、音声は次第にクリアになっていく。ラジオではなくテレビでニュースを見たいところだが、残念なことに、軽トラックは年代物でディスプレイはついていない。
『──市内では、複数の施設が武装勢力によって占拠されています。福見市内においても、事態の深刻さは増しており、政府は事態の把握に……えぇ、たった今、政府からの発表がありました。政府の発表によりますと、武装勢力の正体は北日本軍の軍人であると声明を出している模様です。この事態について、政府は早急に北日本共和国政府に連絡を取り、事態の解決を図るとしています。住民の皆さんは家から外へ出ないようにしてください』
あ、あぁ、そういう訳で、いやに車が少ないのか……。なんてことだ、そんなことになっていただなんて。この辺りには占拠された施設はないように見えるが……。
しかし、そこで、おかしなことに気がつく。北日本の軍人? どういうことだ。すぐに思いつくのは、北日本共和国が、日本皇国に戦争をしかけたということだが、
「……あり得ない」
思わず口に出す。そんなことはあり得ない。日本と北日本は、歴史上やむなく分け隔たれた二国であり、確かに、その後ろにいる大国の仲は悪いにせよ、二国で戦争をする気配なんて、今日の今日までほとんどなかったと言っても過言ではない。互いに難しい立場にありながら、そこだけは一線を越えないようにしていたのだ。
それに、である。仮に、もし、宣戦布告、戦争の開始だとしても、そうであるならば、今朝会った北日本軍人たちは何故俺の身をアメを逃がしてまで守ろうとしたというのか。桧山が叫んでいた言葉から考えても、やはり、あり得ない話。ラジオの続報を待つしかなかろう。
そうしているうちに、俺の走らせる車は山道へと入り、家々はほとんどなくなり、たまにある畑と家、そして荒地と林だけが見えるような景色へと移る。道は舗装されているが、徐々に狭くなり、対向車とすれ違うには脇に停めなければならないほどの細さになる。福見市はそんな立地に位置している訳だ。
「止めて」
アメの声に反応して、俺は言われるがままに、待避所へと車を止める。さっきの街の騒音は嘘のように静まり返った山の中、車内では、事の重大さ、何が起きているかを伝えるラジオだけが流れる。
曰く、複数の公共施設や、銀行といった市内の施設で占拠が発生。数は五以上だという。大事件ではないか……。嘘だろ。衝撃が俺の心を支配し、何をどうしたらいいのか、頭が混乱していく。その事件に巻き込まれなかっただけでもよしとするべきなのだろうか……。
警察はすでに動いており、武装勢力はさほど大きな規模ではないという情報も入るが、同時に、重度に組織的に行われている犯行であり、テロ行為であると考える必要性もあるとされている。犯行グループからの要求は未だになく、施設内にいた人たちを人質にとって動いていないのだということだ。女性アナウンサーの声は極めて冷静であり、また、それと同じように、女性アナウンサーは市民に対して、冷静に行動し、対応は警察に一任すればよいということを伝えてくる。
訳の分からない事態だ。でも、こんな戦争じみた無茶苦茶な事件というのは、普通に生活している誰もが起こらないだろうと思っていても、起きるものなんだろう。だって、日常っていうのはたった一人の人間によっても簡単に非日常になってしまうのだから。
「さぁ、いいだろ、アメ。もう、俺を帰してくれよ」
もうなんだか、俺は疲れていた。車を止めてしばらくの間ラジオを聞いて、ぼんやりしていたことで、それまでの精神的な疲れがどっと湧いて出てきた。訳は分からない。訳は分からないが、もう、アメと一緒にいることは出来ないんだろう。そういう嫌な確信が俺の心を支配していたのである。
ガタガタとなる軽トラックのエンジン音、ラジオの声。それら二つを背景音楽に、アメは俺がアメの方を見ていないのにも関わらず、じっと俺を見てただ一言ポツリといった。
「いいよ。今までありがとう」




