武元健の供述
さて、残るは武元くんだけである。
武元くんは私と同じ教育学部の三年。サークル活動以外にも顔を合わせる機会はあるのだが、いかんせん、お互いに人見知りなせいで、彼とはまともに話したことがない。
我らが教育学部の施設は文科系総合研究棟に収められており、武元くんは研究棟の中にある休憩スペースで待っているらしい。
研究棟に入ると、帰り際の瞬とばったり遭遇した。なんだか今日はこのパターンが多いなあ。
瀬名瞬。彼は真紀の彼氏であり、私の幼馴染……である。この三点リーダーの意味を知りたければ、以下略。
「おう、小雨……と、梨子ちゃんと心美ちゃんもか」
「やっほー。瞬くん、なんしよん?」
「こんにちは、瞬さん」
二人はそれぞれの挨拶を返したが、私は
「うっす」
だけで済ませた。私と瞬の間にこれ以上の言葉は必要ないのだ。
「三人でここに来るなんて珍しいな。部員の勧誘?」
「ちゃうちゃう、かくかくしかじかで……」
梨子ちゃんが事情を説明すると、瞬はああ、と小さく頷いた。
「監獄島から持ってきたやつか。なんか、懐かしいなあ」
瞬と真紀は、私と一緒に監獄島に行ったメンバーだ。というか、正確に言えば、私と真紀は瞬に連れられて監獄島の事件に巻き込まれたのである。もしもあの時瞬に誘われていなかったらドグラ・マグラの初版本が我が文芸部の書架に並ぶことはなかったし、今回のコーヒーの染み事件も起こらなかった。そう考えると、何だかちょっぴり感慨深い。
いや、監獄島で起こった事件の内容を思えば、感慨深いとか言ったら不謹慎か……。
瞬と別れた私たちは、そのまま研究棟の休憩スペースへ向かった。
休憩スペースで、武元くんはソファに腰掛け、スマートフォンから伸びるイヤホンを耳に嵌めて、足でリズムを踏んでいた。音楽でも聴いているのだろうか、ノリノリの姿って傍から見るとなかなか滑稽である。
今時珍しいというか時代錯誤とすら思えるガチガチのリーゼントに、タモリも顔負けの真っ黒いサングラスを常にかけ(サングラスの下の素顔を私はまだ一度も見たことがない)、革のジャケットにダメージジーンズといういつものファッションの武元くん。こんな格好をしているから外見的にはかなり目立つキャラクターではあるのだが、無口で近寄りがたい雰囲気を放っているため、あまり交友関係の広いタイプではない。趣味でバンドをやっていて、その方面には何人か親しい友人もいるらしいが、いずれにしても本来文芸部とは縁の遠いクラスタである。
まあそんな感じなので、武元くんに声をかけるのは少々勇気が要るはずなのだが、我が文芸部の部長の辞書に『怖気づく』という言葉は載っていない。
「待たせてすまんね武元くん、何聴いちょったん?」
武元くんが文芸部に入ったのは、梨子ちゃんがこうして物怖じすることなく彼を勧誘したからではないかと思っている。武元くんはおもむろにイヤホンを外し、響きのある低音ボイスでボソッと答えた。
「尾崎豊」
お、尾崎豊……。
いや、尾崎豊の音楽及びそのファンに含むところがあるわけでは決してない。ただ、教育学部の学生である武元くんは将来どこかで教鞭をとる可能性が微レ存どころか少なからず存在する。夜の校舎窓ガラス壊してまわったり……はしないよね、さすがに。
「尾崎かぁ~。渋いっちゃね。じゃ、早速本題に入ってもよか?」
「ああ」
「うちの文芸部にあるドグラ・マグラの初版本なんやけど、今日見たら、こん中にコーヒーの染みがついてるページがあったっちゃね。一昨日うちが見たときにはそんなんなかったけ、昨日読んだ人たちから話聞いて回っちょるんやけど、武元くんはなんか心当たりないと?」
「ない」
「武元くんは昨日どこら辺まで読んだん?」
「狂人の解放治療」
「おお~。そーとー進んだっちゃね」
「前にも少し読んだ」
「なるほど、その続きから読んだってことね。昨日はどこから読み始めたん?」
「キチガイ外道祭文」
「わお。コーヒーの染みがついてたっちうのは、まさにそのチャカポコのところなんやけど、汚れてたの気付かんかった?」
「知らない」
ここで梨子ちゃんは懐からドグラ・マグラを取り出し、武元くんの目の前で、汚れたページを開いて見せた。
「ここなんやけど、昨日読んだ?」
「……読んだが、コーヒーの染みは見えなかった」
「う~ん、そっかあ。念のため聞くけど、コーヒーこぼしたの武元くんじゃないっちゃね?」
「俺ではない」
無口な武元くんの返答は一貫してこの調子で、自分から何か情報を提供しようという姿勢が見られない。だから事情聴取もかなり難航するだろうと予想していたのだが、梨子ちゃんの要領のいい質問のおかげで、なんとか必要最低限の情報は聞きだせたという感じだ。
武元くんに礼を述べて研究棟を後にした私たち三人は、一旦サークル棟の部室まで戻り、情報を整理することにした。