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コーヒーの染み

「あーーーーーっ!!! ドグラ・マグラの初版本に、コーヒーの染みがついとう!!!」


 梨子ちゃんの絶叫が部室に響き渡り、私と心美ちゃんはぎょっとして顔を上げた。文芸部の部室どころか、彼女の声はおそらくサークル棟全体に隅々まで轟いたことだろう。梨子ちゃんは非常に声がでかいのだ。


「えっ? コーヒーの染み?」

「うん。ほれほれ、見てこれ」


 梨子ちゃんはそう言って、私たちの前でドグラ・マグラの初版本を開いて見せた。ちょうど正木博士がチャカポコチャカポコ言ってるページ。その左隅に、小さいながらもくっきりと、コーヒーを一滴たらしたような薄茶色の染みがついている。


 『ドグラ・マグラ』――それは、数々の奇書を世に送り出した昭和の探偵小説作家・夢野久作が、構成と執筆に十年以上の歳月をかけた畢生の大作。読んだ者は必ず精神に異常を来すと言われ、日本三大奇書、あるいは四大奇書にも数えられる作品である。

 初版本の表紙には、女性の顔と共に横書きで『幻魔怪奇探偵小説 ドグラ・マグラ 夢野久作 著』と書いてあるのだが、左右が逆、つまり右から左に向かって読むようになっていて、少し薄れたインクと共に流れた歳月の重みを感じさせる。

 作品の主な舞台が北九州にある九州帝国大学、つまり梨子ちゃんの地元ということもあり、彼女にとってかなり思い入れのある作品らしい。


 何故貴重なドグラ・マグラの初版本がこの文芸部の書架に収まっているのか。それは私があの監獄島から持ち帰ったものをここに寄付したからなのだが、これも話せば長くなるので、今は省く。


「うちが一昨日の夕方見たときにはなんもなかったけ、この染みがついたのは、昨日から今日にかけて、ってことになるっちゃね」

「ノートは? 確認した?」

「ううん、まだ」


 文芸部の蔵書は基本的に誰でも自由に読むことができるのだが、持ち出しする際には、名前と書名を記しておく必要がある。ただし、稀覯本であるドグラ・マグラ初版本だけは持ち出し厳禁、書架から取り出すだけでも、事前にノートに名前と時刻を書いておかなければならないのだ。

 ドグラ・マグラ初版本の価値を考えれば、これでもかなり緩い管理体制であると言える。しかし、本は読まれてナンボ、という梨子ちゃんの理念に基づいて、文芸部の部室内であれば、誰でも手に取って読める環境になっているわけだ。


 私たち三人はすぐに、文芸部蔵書管理ノートに目を通した。上部に穴を空けて紐を通し、書架の脇のフックにぶら下げられているB5番のキャンパスノート。ドグラ・マグラの履歴が記されているのは、その最初のページである。今日の日付は六月十四日。梨子ちゃんが前に確認したのは一昨日の十二日だから、問題となるのは六月十三日から今日にかけての履歴だ。

 ちなみに、管理ノートの記録は全て黒いボールペンで記されており、修正液などで消された様子はない。ページごと破り取られたような痕跡もなかった。


「今日はまだ誰も読んどらんね。昨日は……と。あ、三人名前書いちょるね」

「どれどれ? 午前九時、小粟旬太郎(おあわしゅんたろう)……午前十時、中居英治(なかいえいじ)……午後二時、武元健(たけもとけん)。この三人か」


 いずれも男子。文芸部における男子部員の比率の高さが窺える面子である。


「あ~、はらかくわ。よし、早速この三人に話を聞かないけん。小雨ちゃんと心美ちゃんも一緒にいかんね?」


 梨子ちゃんに『いかんね?』 と言われて断わる権限は、私にはない。それに、このドグラ・マグラの初版本を監獄島から持ち帰り、寄付したのは他ならぬ私なのだ。故意ではないにせよ、誰がこれを汚したのか、そしてそれを黙っていたのかは、是非とも知りたかった。

 文芸部のグループラインで尋ねるという手もあるのだが、LINEのトーク画面では相手の表情を探ることができない。こういう場合は、直接会って話すのが一番手っ取り早いのである。


「私も行くよ。心美ちゃんは? どうする?」

「私も行きます。もしかしたら、何かお力になれることがあるかもしれないし」

「優しい部員に恵まれて、うちは幸せ者っちゃね~。じゃ、まずは小粟くんのとこ。小粟くんは、たしか法学部やね」

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