男爵令嬢が婚約破棄されて幸せな王妃になる話
彼女は最後の約束を守り続けました。
「これでノーラ様とのお茶会も最後ですね」
いつもと変わらない調子で彼が切り出す。
言われたとおりこれが彼と二人きりになれる最後の機会だ、なのにちっとも違いのない彼に少しだけ寂しくなる。
彼、幼馴染のラモンと我が家の庭でこのひとときを共にするのが私にとって一番心安らぐ時だった。
「ラモン、お仕事は最近どうですか?」
「やはり忙しくなりましたよ、国を挙げての祭りですからね。こういった時こそ良からぬ考えを起こす者が現れるので」
カップを置いて少なくなった紅茶の水面をラモンは見つめている。彼の言葉に私は曖昧に微笑む。
いつもはいつもならどうやって笑っていたんだろう。普段と変わらないと思っていたが、今日の沈黙はいやに苦しい。
「祭りといえば……昔は両家揃って毎年楽しんでましたね」
「懐かしいなあ、でも今度の祭りは収穫祭など比べものになりませんよ」
殿下の結婚式ですから。彼から笑いながら告げられた現実に胸がずんと重くなる。この一年で慣れたはずの作り笑いが引きつった。
第一王子、この国の次期国王がもうすぐ結婚する、しがない男爵令嬢でしかない私と。おろかな娘の妄言であればと何度願った事だろう。
私の家は爵位こそ低いけれど資産には恵まれていた。だから両親は良縁を求め、金に物を言わせさまざまな社交パーティに私を出席させて。その中の一つにお忍びで訪れていた殿下が私を見初めたのだ。
殿下は素敵な方だ。見目は美しい王妃様に似て麗しく、少し視野が狭い所はあるが優しく、私の事を心から愛してくれている。
せいぜい妾に甘んじるべき私を正妃にしようと周囲の反対を押し切ってくれるほどに。
思いがけぬ良縁を両親はとても喜んでくれた。ふさわしくないと言い張る私を幾度と慰めた。
「……ラモンは、この結婚を祝ってくれますか?」
最初こそ多かった私への蔑みも今では随分減った、少なくとも私の周囲はこの結婚を祝福してくれている。
彼の家だって祝いの品をたくさん贈ってくれた。親友の娘である私の結婚をラモンのお父様はまるで我が子のように喜んで、家族同然の付き合いだったラモンのお母様もうれし涙を拭っていた。
ラモンだって幸せになってくださいと言ってくれたのに、どうして私はこんなことを聞いているのだろう。そうだ、不思議だったのだ。
「私、みんなから言われるんです。幸せですねって、誰よりも幸福な人だって、なのにラモン、どうして貴方は」
結婚を控えた娘が若い男と二人きりなんて許されるはずがない。でもどうしてもこれだけは明らかにしておきたかった。無理を言ってるつもりはあったけれど、彼は思っていたよりもあっさり私の願いを承諾して。
ラモンが顔を上げる。私をじっと見る、今の彼は笑みを浮かべてなかった。
「俺はノーラが幸せになる姿を見れないから」
彼は私がただの男爵令嬢だった時の口調に戻っていた。
私が王子と結婚する事が決まってからラモンはずっと敬語だった。ラモンの家は代々騎士の家系で、彼もまた王宮に仕える騎士である。だから彼は未来の王妃となる私にも今までのような無礼は働けないと。
それを聞いた時、私は心臓が締め付けられたかのよう苦しかった。
彼の家は正式な貴族では無いけれど騎士爵を持つ以上低級貴族を娶ることは可能だった。私の家は男爵ではあるけれど歴史は浅く殆ど貴族と呼べるものではなかった。私と彼は釣り合ってた。だから、だから、私はずっと。
「それはどういう意味ですか、ラモン」
「もうすぐ遠くに行くんだよ」
「どこへ」
「言えない、両親にも内緒にしてるんだ。この話はお前だけしか知らない、だから秘密にしてくれよ」
「……いいえ、そのような大事なことを黙ってるなんて」
「そんなこと言って、お前は俺との約束は絶対破らないだろ」
いつの間にか握りこんでいた手に彼の掌が重ねられた。私のそれを包む大きな手は昔よく無邪気に繋いでいた頃とは全く異なっていた。
「ノーラ、昔よくさ。街の外れの白詰草畑行ったの覚えてるか」
「……ええ」
「そこで約束したよな」
十年経った今もなお色あせることなく、あの記憶は私の中で咲き誇っている。忘れるわけがない、一日たりとも忘れたことはなかった。だって私、あの約束を頼りにずっと、貴方を。
赤い顔の貴方の言葉も、貴方から指に巻き付けられた白詰草も、すごく嬉しかった。嬉しくて嬉しくて泣いてしまった私に慌てる貴方の顔だって全部全部覚えてる。
「大きくなったら俺と結婚してくださいって、そしたらお前泣き出してさ。でも頷いてくれて俺嬉しかった」
「だからさ、俺、王宮騎士になろうって頑張ったんだ」
「貴族の令嬢を妻に貰っても文句が出ないくらい、お前の両親に認めてもらえるように、お前にふさわしい男になろうって」
ぽた、ぽた、とテーブルクロスが水滴に濡れる。でもそれは私からこぼれたものじゃなかった。
彼の泣き顔を見るのは初めてだった。ラモンは私をいつも守ってくれていた。いつも私の手を引いてくれていた。いつだって彼は強くて優しいナイトだったから。
「ノーラ、ノーラ、お前が好きだった。違う、好きなんだ、今だってどうしようもないのに、お前が好きで、諦めきれなくて」
「……ごめんなさい」
「ッ悪い、変な事言い出して」
「違います!違うんです、ラモン。私も貴方が好きなんです、もう意味が無いのにあの約束を忘れたくない。私も貴方のお嫁さんになりたかった、でも、でも」
父は私が大きくなるにつれラモンの存在を嫌がるようになった。貴族じゃないから、私達だって所詮はお金で爵位を買っただけのなり損ないでしかないのに。だから人目を盗んで会うことしかできなくなった。
「わかってる、どうしようもなかったんだよな……ごめんな、ノーラ」
王子に求愛された時、両親は飛び上がって喜んだけれど、私は身分を理由に何度も退こうとしたのに。
貴族である以上、望まぬ結婚こそが当たり前だとわかっていた。でも私はラモンと結婚できるのだと信じていた。だって私とラモンは決して許されない身分差じゃなかったから。
「……お前は俺との約束は絶対破れないから、俺から言うよ」
重ねられていた手が離れる。泣きそうな顔でラモンが笑う。
「俺との婚約は破棄してください、ノーラ様」
もうとっくに壊れていたはずのそれが大きな音を立てて崩れ去ったのを私はただ泣きじゃくり聞いてることしかできなかった。
男爵令嬢の身でありながらエルド王子の妃となったノーラ。
彼女は後に王となったエルドの寵愛を一身に受け、二人の王子を産んだ。
どんな歴史書にも彼女についてはこう記載されている、幸せな王妃だったと。
ただ彼女の結婚式の日、赤く染まった白詰草の中で騎士が奈落へ向かったことはどこにも。