#5:微笑
「そういえば天狗は人をさらって食すのだと聞いたことがあるわ」
青ざめた表情でゆっくりと透子が口を動かした。たしか小さいころテレビでそんなことをやっていたようなもしくは絵本で天狗が人間を誘拐する場面を見たような曖昧だが覚えがあった。
そんな怖々とした面立ちの透子を見て呂久は透子のお小遣いから出して買ったポテチを口の前に持ってきた状態でとめた。いつのまに探しだしたんだコイツは。だいたいなんでこんなにこの空間になじんでいるのだろうか。
認めたくはないが契約してしまったものの、この家に住みつく必要もないはずだった。
そして透子が発した言葉からしばらく二人の間に沈黙が訪れる。やがて数秒後に呂久はハッ!とまるで見下しているように(いや実際見下されているのだろう)鼻で笑った。本当に性悪な天狗である。
「何よ」
「馬鹿だなほんとお前。馬鹿だ」
「二回も言わんでいい。腹立つわねまったく!」
「天狗が人を食うなんざその天狗が相当餓えている時だろうよ。そうでもなきゃ人間だなんて不味いもの食べるわけがない」
「それはつまり、食べようと思えば食べれるということなの?」
「食べれないこともない。が、食べる必要もない。むしろ食べたくはないだろ、天狗からしてみれば」
呂久の言っている意味がさっぱりわからない。人間は食べれる対象なのだろう。けれど天狗からしてみれば人間は食べようとは思えないものなのだろうか。
食べられるけれど食べたくはない。呂久が先ほど言った「不味い」を思い出して人間はまずい生き物なのかと疑問に思った。
「人間は不味いの?」
「あぁ不味いね。特に脳の腐りきった人間は不味いなんてもんじゃない。俺らからしてみれば毒…かな」
毒!毒とな!というよりも脳の腐りきった人間とはどのようなものなんだろう。透子はその意味がよく掴めず首をかしげた。
それってつまりその人が死んじゃって日にちが過ぎ、腐食した人間のこと…?想像しただけで気持ち悪くなって透子は思わず片手で口元を押さえた。どんだけリアルに想像しているんだあたしは。
腐食した人間だなんて天狗から見なくてもあまりおいしそうには見えないだろう。肉食獣だって食べやしない。
「つまり食べた天狗がいるのね。天狗は腐食したものも食べれることは食べれるんだ。」
想像したくはないが。
「は?お前何言ってんの?腐ったものなんか誰が食うかよ。とんだ狂人だぞそいつ。俺が言ってるのは思考が腐りきってる人間のことだ」
「ああ、テレビでやってる殺人犯とか?」
「まぁそれもそうだろけど…たとえば金儲けのことばかり考えてる奴とか、自分だけを目立たせようとする奴とか、とにかく醜い思考の人間のこと」
「なるほど」
まぁたしかに腐ってるっていえば腐ってる人間だよね。それは。妙に納得。
「そもそもお前の言ってる人を食う天狗ってのは烏天狗ぐらいだろ」
「からすてんぐ?」
「あいつらならどうこう言わず食べかねないかもな」
「あんたとどう違うの、その天狗は」
呂久は顎に手を当ててしばらく考えたあとに眉を寄せた。
「どう違うって言われると、なんて説明すればいいのか……とりあえず俺たちとは考えが違う。あいつらは交戦を好むんだ」
「交戦って……(そんな怖い…!)」
「まぁ俺の方が強いけどな」
どこからその自信は湧いて出てくるのだろうかそれともたんにこいつの頭がオメデタイだけなのだろうか。透子は目の前の人物によってもしかしたらこれから自分が乱戦の中に巻き込まれてしまうんじゃないかと身震いした。案外遠くもない未来だったりして。
いやぁ怖いそれだけは勘弁してほしい!!祈るような思いで透子は両手を握り締めた。本当、なんでこんなやつに関わってしまったんだろう。それに全く信用してない。信用してしまったら終わりな気がする。
「天狗に種類があるとは思わなかった…。呂久は何の天狗なの?」
「俺は大天狗だ」
「は?」
「だから、大天狗だって」
もう一度は?と聞き返したら呂久があからさまに不機嫌になった。信じてもらってないと思っているらしい。いや実際信じてないんだけど、だって大天狗って、ねぇ…?
名前からして位の高そうな名前じゃないか。まさか呂久が高位の者だとは思えない。
「おえらい天狗なの?」
「違う、そうゆう種族に生まれただけだ」
吐き捨てるように言う呂久に何か嫌な思い出でもあるのだろうか、聞いてはいけないことを聞いてしまったと透子は身を縮めた。呂久が住みついてここ数日たつが彼のことを全く知らない。自分から知ろうとしないせいでもあるが本当に何も知らない。
知ってることは高飛車で俺様野郎ってことだけだ。無償に虚しくなって呂久の食べていたポテチに自分も手を伸ばした。
契約解除の仕方の方法だってまだ見つけだしていない。そんな情報掠りもしていない。呂久は非協力的で役に立ちもしない。全く後先が見える様子もなく透子は頭を抱えるしかなかった。
「どうでもいいけどお前今日、出かけるんじゃなかったのかよ」
「え……?あ………あぁぁ!!!」
呂久がふと思い出したように壁に掛けられた時計を見た。
それにつられて透子も時計に目をやる。そしてしばらくたって呂久の言った言葉を理解し、勢いよくその場から立ち上がった。
―――そういえば今日は茜と出かける約束をしてたんだった!
よく見てみれば約束の時間まであと五分もない。待ち合わせの場所まで軽く十分はかかるのに!!話しこんでいるうちに時間が刻々とすぎていってしまったようだ。透子は踵を翻して慌ただしくバタバタと荒い音をたて階段を駆け下りていった。
「…馬鹿だ」
慌てて部屋を出て行った透子の後ろ姿を見ながら呂久はその整った顔でふと笑った。
※
「あぁぁやばいやばいやばい!!!」
ぎゅんぎゅん、時折ガシャンバキという変な音をたてながら透子は全速力で自転車を漕いでいた。時間にはルーズだと友達からもよく指摘されていたのでこの頃は特に気をつけるようにしていたというのに。
一体どこで気が抜けているのだろうか、肝心なところで忘れてしまう。呂久に言われなかったら今頃もまだ部屋でごろごろしていたかもしれない。残念ながらすでに約束の時間は二、三分すぎていた。ふ、やはり遅れたか。諦めもしたがだからといってさらに友達を待たせるというのも失礼極まりないのでまだ自転車を飛ばす。
小石に躓きそうになったりもしたが持ち前のバランス力で何とか転倒は免れた。何かもう今のあたし、競輪選手より速いんじゃないのとも思えてしまうほどのスピードだった。競輪選手になりたいとは思えないけれど。
(予測しても待ち合わせ場所まで五分弱はかかるな…)
とりあえずこのまま進んでも茜からすれば約束をすっぽかされたと思い帰ってしまうかもしれない。メールでもして謝っておこうとキキィと耳をつんざくようなブレーキ音とともに透子は自転車を道端に止めた。周りはまだ田畑が見えるし周りに人の姿はあまり見られない。もうすこし走ったところで住宅街に入るはずだ。
手早く携帯電話のボタンを押して『ごめん、ちょっと遅れる』ディスプレイに現れる文字をたどりながら確認したのち送信ボタンを押した。メールを送ったところで茜はきっと怒っているだろう。あの子も時間には厳しかったはずだから。
安易に茜の怒った顔が想像できてしまって苦笑した。今日は何か奢って許してもらうことにしよう。そういえば最近できた可愛い喫茶店に行きたいと言っていたなぁ。
そんなことを思いながらポケットに携帯電話をしまって自転車のハンドルを握りなおす。またぶっ飛ばそうとペダルを踏む足に力を入れた時だった。
「お前、それ」
「うぎゃぁ!」
何が何だか。
バサリと大きな羽音をたてて黒い何かが目の前に降り立った。透子は急な登場人物に驚きの悲鳴に継ぎその人物と自転車と接触しそうになって悲鳴をあげた。それと同時にぎりぎりブレーキをかけた自分の反射神経を褒めたたえた。
前につんのめった状態で透子は顔をあげてばかやろう轢いちゃうところだったじゃないの!叫ぼうとしたが驚きすぎて声も出ず心臓がばっくばっくと鳴って片手で胸を押さえる。いやでももし轢いたとしても今のは不可抗力だ。
「契約者か…?いや違うな、仮契約か」
「え、と、どなた?」
目の前に立つ人物は透子より五歳ほど年上に見えて、先ほど別れたばかりの呂久と同じような―――いや、同じ漆黒の、濡れ羽色の羽を持った青年だった。羽がある。何が起こったのかわからない透子は目をパチクリさせながら間抜けな顔を戻すこともせず呆然と目前の人物を見た。
「て、天狗?」
「さよう。私は土師お前、天狗と契約している者か?」
はぁ、と頷きそうになるのを透子は寸でで止めた。呂久に「俺と契約していることはむやみやたらに喋るな」と釘をさされていたのを思い出したからだ。口にしたところで何になるというのだろう、と疑問に思うものだが呂久がすぐに「物の怪に喰われてもいいならいいけど」と付け足したから何となくことの重大さがわかってしまった。それと同時に安易に未来が見えてしまった自分が怖い。
それにしてもなぜ契約していることがわかるのだろうか。もしかしてこのまま食べられちゃうんだろうか。不安になった透子は自転車が来た道をUターンできるようにハンドルを動かした。いつでも逃げられるようにしなければ。
じっと見つめてくる目の前の土師とか言う天狗にしどろもどろになりながら透子は首を横に振る。
「契約?何の話かわからないんだけど…。人違いじゃありませんか?」
人違いじゃありませんか?ってこれちょっと使う言葉が違うなと返事をした後に気づいたが言ってしまったものはしょうがない。ここずっといるのは危険だ。そのままこれいじょう関わることのないよう来た道を引き返そうとしたら今度はがしりと着ていた上着のフードを掴まれた。これほどフード付きの服を恨んだ日はなかろう。こんな日にかぎってフード付きの上着を着た自分にも。
先に進もうとした透子はもちろん後ろから引っ張られる力により「ぐぇ」と蛙が潰れたような音を咽から発した。ものすごいスピードでその場を去ろうとしていたのだから実際咽が潰れたかもしれない。締まる襟元を解放するために透子は片手を首に持って行った。が、その手は首に届くことはなかった。
すごい力で後に引き寄せられ、ふと、うなじに何か気配を感じた。確認する間もない。背後から、というよりもすぐ傍、つまりうなじ辺りから声が聞こえたからだ。
「嗅いだことのある匂いだ。これは天狗だな?」
そんなことより何故首筋に顔を近づける必要がある?!
透子は近くに仮に天狗だとしても男の顔があることに真っ青になったり真っ赤になったり何がもう何だかわからなくなっていた。自慢じゃないが産まれてこのかた男の免疫は全くない。
「これは……呂久、そうか。呂久の匂いだ。」
何かを思い出すように土師は顔をあげた。
呂久、この男は今呂久と言った。喋らなくてもばれてるじゃない!呂久を訴えたくもなるが当の本人は今ここにいない。あぁあたしもうこれ食べられるんだわきっと。お鍋でぐつぐつ煮込まれて味噌と一緒にズズズッと飲まれるかそれとも火で焼かれてブタの丸焼みたいにきっともりもり食べられるんだ。
「お前、呂久に会ったな?」
土師の瞳はギラギラと光っていた




