Alley Cat
「で、あんたの名前は?」
高木楓は俺に名前を聞き返してきた。
俺は驚いてしりもちをついた時から体勢が変わってないことに気づき、いい加減体を起こした。
「俺は雨波風真だよ。」
正直に名前を答えた。
彼女に名前を隠すメリットはない。
「ふーん雨波っていうのあんた。……ねえ雨波君……」
楓はさっきに増して深刻な表情で俺に懇願してきた。
「私に飲み物を恵んでくれませんか……?」
確かに俺と話し始めた時から、だんだんと声に覇気が無くなっていってる気がする。
よく見ると彼女は飲み物どころか、制かばんも持っていないようだった。
知らない学校のものだが制服を着ているので、彼女も今日は普通に登校する予定だったのだろう。
「お前、かばん持ってないけど逃げてくる途中にどっかに忘れてきたのか?」
「いや、制かばんは荷物にならないように家に置いてきたのよ」
「じゃあ家で指名手配されたのを知ったってことか……、親に止められたりしなかったのか?」
これはあまり聞かないほうがよかったのかもしれない。
彼女は少し儚げな表情でしんみりと答えた。
「親には見つからないように家を出たわ……、本当は最後に別れの挨拶をしたかったんだけど、スマホを見たら早く家を出ろって書いてたから……」
あぁ……
さようならを言うこともできなかったということか。
そう言われると俺も親に最後に言った言葉は、いつもどおりの行ってきますだけだったな。
親は今頃どうしてるんだろうか。
「まあでも絶対にまた家へ帰るわよ。だからあんたも……ケホッ……ごめん、飲み物ちょうだい。」
彼女は言いかけたところで乾いた咳を出した。
「あぁ……ごめん。ちょっと待ってくれ」
水筒を取り出そうと制かばんのファスナーを開けようとした。
しかし、俺はここで重大なことに気がついた。
やべぇ……、ブラジャー入ってるの忘れてた……
そう、俺のかばんの中にはブラジャーが詰まっているのである。
別れを言えなかった親の事でナイーブになっていた俺の脳は、かばんいっぱいのブラジャーのことで埋め尽くされた。
俺史上最大のピンチである。
俺がファスナーの持ち手を掴んだ指を震わせていると、楓が急かすような調子で言ってきた。
「どうしたの? できれば早くして欲しいわ」
「お、おう……、ちょっとファスナーが固くてな」
俺はファスナーを渾身の力で開けようとするふりをしながら切り抜ける方法を必死に考えた。
きっとファスナーを開けた瞬間、カバンにはちきれんばかりに入ったブラジャーは鍋から吹き出る沸騰したお湯のようにどばどばと出てくるだろう。
また、おそらく水筒はかばんの一番奥、つまりブラジャーの最下層に埋もれている。なので、水筒をかばんから引き出したと同時に大量のブラジャーも引き上げられる地獄絵図になることは想像に容易かった。
いろいろ考えた結果、俺はこのカバンは人前で開けてはいけないモノだと判断。
そういうわけで。
「ごめんな高木さん。水筒なかったことに気づいたわ」
「いや、絶対に嘘でしょ」
一瞬で嘘を見抜かれてしまった。
「いや、本当にないんだ。ないって言うのは水筒の中身がないってことな」
「じゃあ見せなさいよ」
くいくいと指を振って催促してきた。
なんだこれ挑発にしか見えねぇ。
傍から見ると下らない喧嘩にしか見えないだろうが、俺にとっては死活問題である。
「ひっくり返しても数滴しか垂れてこないぞ。それでもいいのか?」
「数滴で十分だから水筒出して」
「んなわけあるか!」
お前はサボテンかと突っ込もうとしたところで、しかしその言葉は突然のエンジン音に遮られた。
そして、そのエンジン音は建物をぐるっと回った後、入口の方向で止まった。
「何っ……!?」
楓も警戒モードに入ったようだった。
「分からない。例の迎えの者かもな」
「あっ……やっと来たのね! 助かったわ!」
と、さっきまでの不機嫌は何だったのか、彼女はぱあっと明るい表情になった。
俺も餌に飛びつく犬のように入口へ走っていく楓を、後ろから見ながらほっとしていた。
だが、神はそう簡単に俺を助けてはくれないようだった。
「やばい、やばい、隠れて!」
「何だよ!?」
顔面蒼白になった楓が踵を返して走ってきた。
騒がしい奴だなと初めは思ったが、泣きそうになってる彼女の顔を見て俺もだんだんと不安になってきた。
「おい……何なんだよ。何が来たんだ?」
楓は隠れる場所を必死の形相で探している。
「警察よ! 入口に来た車はパトカーだったわ!」
「え?……」
俺は、裏切られたと思った。
俺を助けようとしてくれた命令の主は、やはり俺を捕まえるためにここへ誘い込んだのだと。
悔しいような悲しいような気持ちになり、それはまもなくして怒りに変わった。
俺はオロオロしている楓の手を掴んだ。
「ダンボールに隠れるぞ。あれしかない」
「えっ……わ、分かったわ」
まず制かばんに土埃を被せ、瓦礫のあたりにうまく隠した。
そして、俺達はさっき楓が隠れていたダンボールを無理やり被った。
大きさ的には詰めればギリギリ2人の姿を隠すことは出来るだろう。
「おい、もっと体を丸めろ!」
「ご、ごめん……、ってどこ触ってるのよ!」
ダンボールにはかなり密着しないと二人は入らない。
俺はダンボールの暗闇の中、楓の体と密着するよう引き寄せた。
「おい!お前の左足出てんだよ、もっと体をこっちに向けろ」
「そ、そんなこと言ってもあんたがいるから無理だって!」
「緊急事態に何言ってんだ!」
俺もこいつと体が密着することに気恥ずかしさが無いわけではなかったが、今はそんなことを気にしていられない。
「お前こんなとこで捕まっていいのか!? 家に帰るんじゃなかったのかよ!」
「っ……!帰りたいに決まってるじゃない!」
こうしてる間にも警官の足音が近づいてくる。
入口付近の床がきしむ音が聞こえた。
「じゃあ早くしろ! 2人で無事に家に帰るぞ!」
「わ、分かったわ……うん、そうよね」
素直になった楓は俺に体を近づけてきた。
体の至るところが密着し、全身に柔らかい感触を感じる。
そしてダンボールは俺たち2人分の体積を完全に覆った。
警官の足音が近づいてくる。
「……」
「……」
お互い無言になる。
もちろん、警官がすぐ近くにいる状況で声は出せないのでそれは当然なのだが、楓が黙っているのは警官に見つからないようにするための配慮というよりは、体が密着している状況による気まずさのためだと思った。
「おい……今はこうするしかないんだ。後で飲み物奢るから我慢してくれ」
「別に気にしてないわよ……」
俺は耳元で小さくささやいた。
そして楓が返した言葉は彼女の吐息と一緒に顔にかかった。
花のような髪の匂いは鼻にいっそう強くまとわりつき、それに少し汗のような生々しい匂いもした。
ザッ……ザッ……
警官の砂利を含んだ床を踏む足音が聞こえてくる。
心臓をがしっと掴まれたかのような強い緊張が走った。
来たか……!
このダンボールが詰まれている場所を通り過ぎてくれれば俺達の勝利だ。
俺は、せめて不幸中の幸いでも起こしてくれないかと神に祈った。
警官の足音が俺達の付近で鳴り続ける。
どうやら1人だけのようだ。
俺が立体音響のように周りをうろうろする足音を注意して聞いていると、楓の体が震えているのを感じた。
極度の緊張によるものだろう。
俺は震えている彼女に対して大丈夫だと手を握ろうとした。
しかし、彼女の体の震えが左ポケットの振動を即座に連想させた時、俺は大丈夫でもなんでもないことに気がついた。
ちょっと待て……スマホの位置情報でバレバレじゃねえか!
クソッこうなったら……
あまりやりたくなったがもうしょうがない。
俺は大きく深呼吸をし、警官をここで始末することを決めた。
俺は足音が遠くなった瞬間を察知し、ダンボールから静かに体を這い出そうとした。
その時、楓に足を掴まれることで行くなという意思表示を受けたが、これには彼女の肩を叩くことで大丈夫だと答えた。
ダンボールから出た俺は警官の後ろ姿をとらえる。
身長は180cmほどあり、とてもガタイのいい男だった。
床にコンクリートの破片が落ちているのを確認した俺は、それを拾ってゆっくり警官に近づく。
足音で気づかれないよう慣れない忍び足で歩いた。
ここまで大して活躍のしていない俺だったが気付かれずに近づくことくらいはできるのだ。
そして警官に掴みかかれる距離まで近づいたと思った俺は、破片を握った右手に力を込めて一気に飛びかかった。
相手の後頭部めがけて右手を打ち込む。
コンクリートの質量分、威力を増したパンチは相手を確実に気絶させる……はずだった。
しかし、俺が繰り出した渾身の一撃は相手に当たることはなかった。
警官は初めから俺が後ろにいることに気づいていたかのような、軽い身のこなしで攻撃をかわしたのである。
いや、攻撃をかわしただけならまだしも、俺のパンチを避けるために屈んだ体勢から前によろけた俺の体をそのまま前方へ投げ飛ばした。
点数を付けるならそれは百点満点。
極めて合理的な動きだった。
俺は警官に投げ飛ばされながらそんなことを思った。
とても人間技とは思えない。
確かに俺と相手には圧倒的な体格差はあったが、それを差し引いても、何の武道のものかも分からない漫画みたいな技で俺を地面に叩きつけたこいつの身体能力は、ただの警官のそれではないと瞬時に分かった。
「君が雨波君か」
地面にぶっ倒れた状態で警官の方を見た。
ひと仕事終えたとどこか楽天的な顔になっているのが見えた。
その強さに似合う余裕そうな表情である。
そして、俺の目に上下逆さに写った警官は近づいてくるなり警察手帳のようなものを突きつけてきた。
俺はこのまま逮捕されるのだろうと思った。
警察手帳を見せてから手錠をかけ、パトカーに載せる一連の流れに入ったのだろうと。
警官はその警察手帳のようなものを俺の上下逆さまの視界に合わせて逆向きに掲示し直してきた。
そんなウィットに富んだ行動に、俺は自分と相手の心の余裕にも大きな差があることを痛感した。
視界にしっかりと読める向きで再度視認できた警察手帳のようなものは、しかしそれが警察手帳ではないということに気づかされた。
……ん?……
Alley Cat?
そう書いてあるように見えた。
手帳にはひまわりのような花をくわえている猫のロゴがプリントされていた。
「 Alley cat だ。俺たちは冤罪の者を保護してる。そう警戒するなよ、敵じゃない」
そう言ってその男は手を差し出してきた。
だが、すぐにその手を取る気にはなれなかった。
あまりの急展開に俺は混乱、とまではいかなくても腑に落ちない気持ち悪さを感じていた。
すると、その男はそんな俺を見てハハっと高笑いをあげた。
「大丈夫だ。本当だよ、騙してなんかない。俺は君たちを保護しに来たんだ。どこかで隠れてる高木さんも早く出てきなよ」
その言葉を素直に聞き入れたのか、楓がさきほどのダンボールから姿を現した。
「あーそっちに居たか。一つ奥のダンボールかと思った」
ハハッとまた高笑いをする。
俺は痛む腰をさすりながら自力で立ち上がった。
「スマホに指示を送ってきたのもお前か?」
「そうだ、俺だ。正確に言うと俺たちの組織だけどな」
男は俺と楓を交互に見つめた。
「お前たちがもし警察に捕まれば確実に死刑になる」
俺は息を飲んだ。
想像以上に状況はシリアスなようだった。
「 俺たちの組織 に来い。お前たちを安全な場所で保護してやる」
俺たちに一考の余地はないようだった。
よく分からないが自分たちを保護してくれるらしい組織に入ることを決心する。