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神の棲む島  作者: ZAKI
第十章 鳴動
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(二)

『真尋、雛姫をどうかお願い……』


 知り尽くした邸内を、真尋は巧みに追っ手をかわして奥へと進む。

 ほどなく辿り着いた社周辺の騒擾そうじょうと張り巡らされた厳戒態勢は、やはり己の推測の正しさを物語っていた。


 ならの大樹の蔭から仔細を観察した真尋は、細心の注意を払ってはす向かいの祠堂しどうへと移動し、その扉に手をかけた。

 わずかに軋んで開いた格子戸の内部で、暗黒の闇がぱっくりと口を広げる。澱んだ空気に顔を顰めながら、真尋は手探りで床板の一部を外し、小さな扉の内へと注意深く身をくぐらせた。

 躰に刻みこまれた記憶が、かろうじて夜陰やいんでの行動を可能にした。真尋は、勘だけを頼りに足下に開いた穴に躰を滑りこませ、見えない石段を数段下りると、ズボンのポケットに忍ばせていたライターを取り出して火をともした。


 綺麗に手入れされたデュポンは、司が石牢に意図的に残していった愛用の品。

 すべてを見透かしたような周到さが、人形のように整ったかおをしたあの男の掌上で踊らされているようで不快だった。だが、いまはつまらぬことにこだわっている暇はない。前方にまっすぐに伸びる狭い通路を、真尋は慎重に進んだ。




 かつて、幾度となく通い詰めた禁断の場所。

 出口の先で必ず迎えてくれる美しい笑顔が、たまらなく嬉しかった。

 通路の終着点で、頭上の羽目板を外した真尋は、石段を登って社の内部へと潜入を果たした。

 奥座敷の床の間が、巧妙に細工された隠し扉の設置場所だった。



「へえ。そうやって美姫従姉様と逢い引きしてたってわけ」


 電灯の消えた薄闇の中、緊張を解く間もなく剣呑な響きを帯びた嘲弄が背後からかかって、真尋はビクリと振り返った。

 庭先の灯籠の灯が、障子越しにほのかに透けて見える。その障子のまえに、黒い人影が浮かび上がっていた。


「相変わらずの素人離れした技ね。赤外線装置や監視カメラの目をかいくぐるのはともかく、邸内中に放った護衛や番犬たちに、どうして見つからずに動き回れるのかしら」


 身構える間もなく近づいてきた影は、乱暴に胸倉を掴むと真尋の躰ごと勢いよく床柱とこばしらに打ちつけた。負傷している背中をあらためて強打され、真尋の表情が苦痛に歪む。


「あらあら、随分思いっきり痛めつけられちゃったみたいねえ。頑張って忍びこんできたとこ気の毒だけど、《御座所》ならここにいないわよ。あなたと入れ違いで、脱走しちゃったみたいだから」


 薄闇にほんのりと浮かんだ白皙の美貌が、息がかかるほど間近でクククと残忍な笑声を放った。


「会いたかったわ、真尋。とってもとっても会いたかった……」


 掴んでいたシャツを放した両手が、真尋の頬を包みこみ、優しく愛撫する。ぴったりと躰を密着させ、執拗に愛撫を繰り返したしなやかな両腕が、ほどなく真尋の首筋に絡みつき、思わぬ強さでその頭を引き寄せた。

 衰弱した真尋の体力はすでに限界に近づいており、華奢きゃしゃな女の躰ひとつ思うように押しのけることができない。

 なんとか顔を背けようと抗う真尋の頭を、美守はがっちりと押さえこんで口づけ、強引に割りこませた舌で思うさま口腔内を犯した。


「真尋……、もう逃がさない。だれにも渡さないわ、絶対」


 濃厚な口づけの合間に、熱に浮かされたような熱い喘ぎを漏らして美守は囁く。息苦しさに眉根を寄せる真尋の顔を嬉しげにみつめ、くことなく角度を変えて口唇くちびるを合わせては陵辱を繰り返した。

 背中の痛みが徐々にやわらいで、四肢に力を取り戻した真尋は、美守の両肩を掴んでやんわり押し返そうとした。その瞬間――



「―――っ!」



 左の脇腹で突如弾けた強い衝撃に、真尋は息を呑んだ。灼熱の痛みは時間差で、あとからやってきた。

 声もなく瞠目する真尋を瞶めたまま、美守は微笑を湛えて手にしたなにかを力任せに引き抜くと、真尋から離れた。

 その手許に、鮮血に染まった刃物が鈍く光っていた。

 無意識のうちに押さえた脇腹から、生温かなぬるぬるとした紅い液体がしみ出してシャツと左手を染めた。


「お願い、真尋。一緒に死んで」


 きつく包丁を握りしめる美守の両手と口唇が、小刻みにふるえた。


「一緒に生きてなんて言わない。愛して欲しいなんて夢みたいなことも望まない。だからせめて、死ぬときだけでいいから傍にいて…っ。この先の長い人生を、こんな寂れ果てた時代遅れの離島に縛りつけられて、実の兄や分家に里子に出された異父兄弟、従兄弟、伯父たち、果ては自分の父親かもしれない男とまで交わって、子供を産みつづけて生きるなんてあたしには耐えられないっ。

 お願い、真尋。あなたの心すべてをちょうだいとは言わないから、ほんのひと欠片かけら、同情でもいい、憎しみだってかまわない。あなたの想いをあたしにちょうだいっ!」


 悲愴な顔で、美守は血を吐くような告白をした。

 蒼白いその顔を無言で瞶めていた真尋は、不意に空いた右の手を伸ばして美守の腕を掴んだ。ビクッと身を竦ませた美守の手から包丁が放れ、畳の上に思いのほか大きな音を立てて落ちた。

 薄闇の中、真尋は黙って美守を引き寄せると、傷口を押さえていた左手も放して、両の腕でその躰をしっかりと抱きしめた。


 顫えが止まらない幼馴染みの躰を、真尋は子供をあやすようにそっと包みこんだ。軽く背を叩き、指で髪を梳き、額に口づける。驚いて顔を上げた美守の口唇にもついばむようなキスを落とし、そして穏やかに微笑んだ。


「真尋……」

「俺は、美守を憎んだことは一度もないし、これからも憎むことはできない。おまえの奔放さと闊達さが、子供のころからずっと好きだった。いまもそれは変わらない。けど、いまここで、おまえと死んでやることは、すまないが俺にはどうしてもできない」

「――それは、あの子のため?」


 美守の問いに、真尋はきっぱりと頷いた。


「永い永い呪縛から解き放ち、必ず救い出してみせる。雛姫も、そして美守やこの島の人たちも」

「あたしを好きって、本当?」


 美守の問いに、真尋は再度頷いた。


 真尋の好意は、自分が真尋に抱く想いとは種類が違う。

 恋い慕った男が、はじめて自分に向けた優しい微笑を見て、美守は確信した。だが、これで充分だと思った。報われぬ想いに悶え苦しみ、募らせた恨みと憎悪は、陽光を受けた氷塊のように消え去った。

 溢れる涙が白い頬を幾筋も伝い落ちる。美守は真尋にすがりついた。広い胸がそれを受け止めた。しかし、抱擁がしっかりと形を成すまえに真尋の躰が力を喪い、その場に崩れ落ちた。


「真尋っ!」


 美守は、足下にうずくまった真尋の背に手を伸ばしかけ、咄嗟に引っこめた。自分が身につけている白いワンピースの右胸の下あたりから腹部にかけて、黒い染みが浮かんでいる。そして、気がつけば足下にも。

 美守はよろめくように数歩後退あとずさった。その足が、軽くなにかを蹴った。障子越しに届く薄明かりに鈍く光るのは、血塗れた刃物。それは、ついいましがたまで自分が握りしめていた凶器だった。

 己がしでかしたことの重大さに戦慄し、美守の膝から力が抜けた。


「真尋……、真尋、ごめんなさい……。ごめん、なさ……」


 美守は泣きじゃくりながら、腹部を押さえて蹲る男に這い寄り、その背中を抱きしめた。


「ごめんなさい、真尋」


 その言葉に応えることもできず、真尋はきつく目を閉じ、荒い呼吸を浅く繰り返していた。


 このままでは真尋が死んでしまう。不安になった美守が、助けを呼ぶべきか逡巡して中庭のほうへ視線を送った。そのとき、不意に真尋が顔を上げた。

 驚いて振り返った美守が視つめる中、額に玉の汗を浮かべた真尋は、闇に向かって耳をそばだてる。そして突然、背後の床柱に縋って立ち上がろうとした。


「真尋やめてっ、どうする気なの!」


 シャツに滲む血が、濃く、大きく拡がるのを見て、美守は悲鳴をあげた。


「……雛姫が危ない」

「あの子がなに? なんにも聞こえないじゃない。お願い、動かないで。傷に障るわ」


 朦朧とする意識が、真尋に幻聴を聞かせているに違いない。美守は懸命に真尋を押し止めようと取り縋った。しかし、真尋は思わぬ強さで美守の制止を振り払った。


「真尋、お願い! せめて傷の手当てをしてっ」

「ダメだ、時間がない」


 踏み出した途端にぐらりと揺れた躰を、美守は慌てて立ち上がって支えた。刹那、凄まじい鳴動が辺りに轟きわたり、地を揺さぶった。


 真尋の全身に、鋭い緊張が奔る。庭からも、警護にあたっていた者たちの驚愕の叫びがあちこちであがった。

 それは、前夜と比ぶるべくもない、彊梁きょうりょうとしたエネルギーを秘めていた。

 歯を食いしばった真尋は、決然と一歩を踏み出した。その顔を見た美守は、それ以上の制止を諦め、真尋の躰を支えて従った。




 真尋が向かった先は、社にしつらえられた湯殿だった。

 脱衣所を突っ切り、浴場に足を踏み入れた真尋は、迷わず正面奥にある岩風呂の裏手にまわった。そして、湯が流れ落ちる岩山の裏側で足を止めた。


 なにをするつもりだろう。


 いぶかる美守を見て、真尋はかすかに笑んだ。


「昔、美姫さんに教えてもらった《御座所》専用の通路なんだ」


 あまりにさらりと明かされた衝撃の内容に美守が咄嗟に反応できないでいるうちに、真尋は積み上げられた岩の中央、もっとも大きな部分に手をかけた。その全身から、ふわり、と風が舞ったかと思う間もなく、真尋は岩を手前に引く。岩戸は、美守が想像していた以上に簡単に口を開け、中から、湯殿よりなお生暖かく湿気を含んだ空気が流れ出してきた。


「……どこに、通じているの?」

「山の頂の真下、《御魂鎮め》の中心部へ」

「御焚き上げの?」


 美守の言葉に、真尋は頷いた。


「雛姫が、そこにいるの?」

「いま、向かっている」

「向かっている? どうしてあなたにそれがわかるの?」


 美守の質問に、真尋はただ微笑を深くしただけで応えなかった。美守は、そんな真尋を見て諦めたようにひとつ嘆息し、首を横に振った。


「いいわ。ともかくそこが目的地なのね? だったら行きましょう」


 まったくどんなからくり屋敷よ、とぼやく美守に、真尋は苦笑した。

 この通路の存在を知っているのは、歴代の《御座所》と当主のみ。さらに使用してきたのは《御座所》のみに限られる。美守が驚くのも無理はなかったが、いまはその枢密事項を部外者である真尋が知っていたという事実も含め、胸中に膨らむさまざまな疑念や問いをすべて呑みこんで腹に収めてくれていることがありがたかった。


 先にも言ったとおり、美守を憎んだことも敵だと思ったこともなかった。だが、正直、味方と思ったことは、それ以上になかった。その美守が、成り行きとはいえこうして自分の傍らにいることに、真尋は当惑をおぼえていた。


「ねえ、真っ暗でなんにも見えないわよ」


 中の様子を窺っていた美守が、真尋の戸惑いをよそに振り返った。ぼんやりしかけていた真尋は、我に返ってポケットからライターを取り出した。その手許に視線を落とした美守が一瞬動きを止めた。事情を察したらしいその口唇が、わずかに歪む。だが、結局なにも言わずに岩戸の向こうへと視線を戻した。


「御焚き上げまで少し距離があると思うけど、歩ける?」

「大丈夫だ」


 美守の肩を借りて、真尋は岩戸をくぐろうと踏み出した。その背後で、湯殿内の随所に配置された灯籠がいっせいに灯を点した。



「神聖なるお社で、いったいなにをしているのです、真尋?」


 振り返ったふたりの視線の先に、小柄な老婆が佇んでいた。


「トキ!」


 叫声を放った美守をも老婆はひややかに見やった。そして、無言のままリズムをとろうと片足を上げた。息を呑んだ美守が、真尋の許から老婆へと駆け寄る。そして、あっというまにその矮躯わいくを抱え上げた。


「なっ、なんとされます美守様! わたくしの邪魔をなさるとただではすみませんよっ。あのような者を庇い立てするなど嘆かわしい! お母上様に逆らうおつもりですか!?」


 宙に浮いた足をばたつかせながら老婆は喚き散らした。その躰を必死で抱えこみながら、美守は真尋を顧みた。


「真尋、行って!」

「美守、おまえ――」

「いいから早く! 妹を助けたいんでしょ? だったらあたしのことは気にしないで先に行って。あたしも必ず後から追いかけるから!」


 トキは美守の腕の中でさらに騒ぎ立てたが、老婆の言葉に耳を貸す者はいなかった。

 真剣な眼差しを向けてくる美守を見返し、真尋は頷くと、意を決してきびすを返した。


 ふたりの女が言い争う声が、背後で激しく展開された。けれども、岩戸を潜って数歩進んだところで、外部の音は幕が下りたように聞こえなくなった。代わりに鼓膜を打ったのは、震動を伴った臓腑までも揺さぶるような低い地鳴り。


 それは、たしかに通路の先から伝わってくる、《神》の声だった。


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