(二)
監視の目は、想像していたよりずっと厳重だったらしい。
社を抜け出していくらも経たぬうちに巻き起こった騒動に、雛姫は早くも己の軽率さを後悔しはじめていた。
だが、ここで見つかれば、もう二度とこんなチャンスは巡ってこない。
いまにも口から飛び出してきそうな勢いで早鐘を打つ心臓と、震えが止まらない手足を、雛姫は精一杯励まして植えこみの蔭に身を潜め、何度目かの追っ手をやり過ごした。
自分でも驚くほど冴えわたった神経が、危険が近づくたびに正確に警鐘を鳴らす。その直感に従って、雛姫はこれまでのところ、巧く難を逃れていた。
《気配》を受け容れることで備わった不思議な力。
その力に後押しされて、雛姫は行動を起こす決心をした。
身の内にあるものの声に全神経を傾け、その指示に従う。音声となって明確な言葉が返ってくるわけではないが、それでも確実に雛姫の思いに応える《なにか》が正しい方向へと導いてくれるのがわかった。
声も聞こえず姿も見えない。
だが、《それ》が告げる危険や注意、ゴーサインなどを正確に受信することができた。
止まれ、伏せろ、その角まで走れ。
雛姫は素直にその指示に従う。
自分が『力』を有しているわけではない。ただ、その『意思』を感じとることができるだけだ。それが雛姫に与えられた能力。
風の子らの声を聞くことができたという娘も、こんなふうだったのだろうか。
不思議な感覚に、思わず逸れかけた思考を雛姫は慌てて軌道修正した。
余計なことを考えている暇はない。注意深く周囲の気配を探り、冷たい汗に濡れた両の手をしっかりと握りしめて呼吸を整えると、一気に繁みから飛び出した。
真尋が閉じこめられている場所はこの先。
屋敷に到着してこのかた、離れにずっと逗留させられていた身では敷地内の位置関係に精通しているはずもない。だが、志姫の許可が下りた昼のうちに、向かうべき方角は見定めておいた。
寝所に引き籠もっていた雛姫が昼食を摂り、庭を散策したいと言ったときの波子の喜びようは大変なものだった。きっと前日の風呂上がりに自分が泣いてしまったことで、ひどく責任を感じ、心配していたに違いない。
そう思うと、胸が痛んだ。もしかしたら、こうして自分が社を抜け出したことで責任を問われ、辞めさせられてしまうかもしれない。
自分にあんなにもよくしてくれた波子のことを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、それでも雛姫の決意は揺らがなかった。
――待ってて、ヒロ兄。雛がもうすぐ自由にしてあげるから。波子さん、ごめんね。あとでいっぱいいっぱい謝るからね。
縺れそうになる足を懸命に交互に動かしながら、雛姫は日頃からもっと真剣に体育の授業を受けておけばよかったと本気で後悔した。
いくら運動が苦手でも、せめてこんなときぐらい、もうちょっと速く走れてもいいのではないだろうか。これでは見つかったが最後、確実に捕まってしまう。
亀よりものろまで体力のない自分を心底恨めしく思いながら、雛姫は歯を食いしばって駆けつづけた。
「見つかったか!」
「まだだ。屋敷の外へは出られないはずだ。こんな暗がりの中、子供の足でそう遠くまで行けるはずもない。とにかく社を中心に徹底的に捜すぞ」
すんでのところで飛びこんだ滝壺わきの岩陰で、雛姫は爆発しそうな心臓を宥めながら両手で強く口を押さえ、追っ手が遠ざかるのを祈るような気持ちで待った。
走り疲れたせいばかりでなく、腰から下の力がうまく入らない。追われる恐怖で、足が竦んでいるせいだった。
――大丈夫。大丈夫、まだ頑張れる。もうすぐヒロ兄に会えるんだから。
何度も繰り返し自分に言い聞かせ、雛姫は手の甲で乱暴に滲んでくる涙を拭った。
――頑張らなきゃ。雛がなんとかしなきゃ。ヒロ兄を助けられるのは雛だけなんだから。
恐がりで臆病な少女を奮い立たせ、突き動かしているのは、ただひたすら兄を救いたいというその一心なればこそだった。
昼に散策した区域は、とうに過ぎている。あとはとにかく、信じる方角を目指すだけだった。
笑う膝を励ましてどうにか立ち上がった雛姫は、ふと背後の岩を顧みた。特になにか変わった様子が目についたわけではない。けれども、なぜか妙にその岩が気になって、自分でもよくわからないまま手を伸ばしていた。
指先が、苔生した岩肌の乾いた部分に触れる。と同時に、やわらかな空気が手を覆って一緒に押した気がした。
ゴトリ。
わずかな手応えの後、小さな音を立てて重いはずの岩がいとも簡単に動いた。
やわらかな空気は、まだ雛姫の手を包んでいる。目に見えない唯一の味方が起こした突然の行動。
信じても、大丈夫。
自分の直感に従って逆らわずに身を任せていると、《気配》に包まれている手が勝手に動いてずれた隙間に差し入れ、横に押し開いた。
力を入れて引いたという自覚はない。だが、隠し扉となっていた岩戸が、ズズッ、ズズズと震動しながらゆっくりと開き、1メートルほど移動したところで止まった。
目の前にぽっかりと現れた空洞は、滝壺周辺の暗がりよりなお闇が濃い。
雛姫は、挫けそうになる気持ちを叱咤しておそるおそる中を覗きこもうとした。その躰を、やわらかな空気が今度は手だけでなく全体に包みこんだ。驚く間もなく、雛姫の躰は空洞の中へと導かれ、勝手に下方へと伸びてゆく空間に向けて移動した。背後でふたたび岩の動く音がする。電動で動く装置が仕掛けられていたようにも見えなかったが、なんらかの仕組みで岩戸は元の位置に戻ったらしかった。
洞の中は、真黒の闇で満ちていた。
晦冥は深く、方向感覚が麻痺してたちまち自分がどこに向かっているのかわからなくなった。にもかかわらず、雛姫は不思議と恐怖を感じなかった。いつのまにか先程までの震えも止まっている。暗い場所は苦手のはずだったが、全身を包みこむやわらかな空気が、雛姫に安堵感を与えていた。
――なんだか、ヒロ兄と一緒にいるときみたい。
思わず笑いを漏らして、ふと見下ろしたその先に、ぼんやりとした小さな光が見えた。
じっと視つめるうちに、光は次第に大きく、はっきりと近づいてくる。否、ゆらゆらと揺らめきながらも静止しているその光に、一歩一歩近づいているのは自分のほうだった。
光の届く周辺の輪郭が次第に露わになって、揺らめく光は、一点の炎であることが明らかとなった。その炎の灯る場所で、自分がいま降りている階段が途切れ、階段と垂直に交わる形で細い通路が延びていることも判明した。
炎は変わらず揺らめいている。その炎を灯しているのは、燭台に据えられた1本の蝋燭。そしてその燭台を支えていたのは―――
雛姫を包んでいたやわらかな空気が、ふっつりと消失した。
「随分とお捜し申し上げましたわ、姫様」
階段を下りきった場所で通路の陰から不意に現れた人物。その姿をとらえた雛姫の双眸が、驚愕に見開かれた。
「――波子さん……!」




