(一)
「ちょっと、どういうことなのっ。真尋が消えたわ!」
ノックもなく、血相を変えて部屋に飛びこんできた美守の顔を見やり、窓外をあわただしく行きつ戻りつする複数の灯りをぼんやり眺めていた司は苦笑した。
「巫部家の令嬢ともあろう者が、こんな夜中になんともはしたない振る舞いだね」
「うるさいわねっ。あんたのそのとり澄ました顔見てると、ときどき本気でメチャクチャに引き裂いてやりたくなるわ!」
怒りも露わに喚き散らす美守に、司はこわいこわいと肩を竦めた。深夜1時をまわるこの時間に、部屋着とはいえ、仕立てのいいシャツとボトムをきちんと身につけ、一分の隙も見せようとしない。そんな実兄に、美守は強い苛立ちをおぼえた。
「白状なさい。真尋はどこ? 隠したって無駄よ。司以外にこんなことする人間も、できる人間もいないんだから」
「べつに隠しちゃいないさ。昨日――いや、日付が変わったから一昨日の昼か。一度だけ様子を見に行ったきり、彼とは顔を合わせていない。彼が姿を眩ましてしまったというのなら、その後のことだろう」
「とぼけないで。あんたのすることぐらいお見通しよ。真尋を逃がすために、わざと鍵をかけなかったでしょ」
「さあ。よく憶えていないな」
「この……っ」
満面に朱を注いで振り下ろそうとした美守の手首を、司は難なく捕らえて押さえこんだ。
「少しは冷静におなり、可愛い美守。いまは《御座所》が社を抜け出して、屋敷中、上を下への大騒ぎの真っ最中。不審者がいれば、すぐさま見つかる」
「この家のことを知り尽くしてる真尋がそんなヘマするわけないじゃないっ! 放しなさいよ、卑怯者!」
「いいとも。君が望むなら」
言われるまま、すんなり掴んでいた手首を放した司は、そのまま妹の躰を自分の両腕の中に抱きしめた。
「真尋くんのこととなると、君はどうしていつもそう見境がなくなってしまうんだろう」
耳許での囁きに、腕から逃れようと激しく抵抗していた美守の痩身がピクリと反応した。
「そんなに、彼が好き?」
「バカ言わないでっ! だれがあんな男!」
激昂した美守は、間近にある司の顔を睨み上げた。
「嘘が下手だね」
自分とたしかにおなじ血を引く妹の貌を見つめ、司は滅多に見せることのない優しい笑みを浮かべた。
「巫部の家は、なにより血の濃さを重んじる。可哀想だが、おまえがどんなに彼を求めたところで想いは成就しない。おまえに与えられた選択肢は、巫部の男の子供を産むことだけ」
美守のすべらかな白い頬を撫でた司の指先が、ほっそりとした頤にかかる。わずかに角度を上げさせたその口唇に、司はそっと口づけた。
美守は腕の中で微動だにしない。
やわらかな口唇の感触は、しかし、突如鋭い痛みに変わった。
「……っ」
咄嗟に力を緩めたその隙に、美守はするりと司の腕から逃れて身を引いた。
「そんなこと、物心ついたときから知ってるわ、兄様。でも、もううんざりっ。こんな腐りきった血なんて、滅びてしまえばいい」
昏い光を湛えた視線を床に落とし、吐き捨てるように呟くと、美守は猫のようにしなやかな動きで戸口の向こうへと姿を消した。
下唇から顎へと伝い落ちる鮮血を、司は無表情に手の甲で拭う。
美守が消えた戸口を視つめたまま、司はいつまでもその場に佇んでいた。




