(二)
夏場にもかかわらず、ひやりと冷たい石牢の澱んだ空気には、黴の発する臭気のほかに、ほのかに潮の香が混じっていた。
静まりかえった空間に、コツン、コツンと足音が響き、やがて止まった。
すぐ近くに人の気配を感じて、真尋は朦朧とする頭で意識の切れ端にしがみつき、重い瞼を押し上げた。
頭上高く括られ、吊し上げられた両腕の感覚はすでに麻痺している。全身を走るさまざまな種類の痛みは、もはや痛むことそのものが常態と化し、具体的にどの部分でどんなふうに痛むのか判別がつかなくなっていた。
「随分、痛めつけられたようだね」
焦点の結びにくい視界の中に、かろうじてスーツ姿の若い男の像がぼんやりと映る。真尋は、途端に相手に向かって皮肉混じりの笑みを投げかけた。
巫部司は、それを見て薄い口唇の片端に冷笑を上らせた。
「おそらく察しはついているだろうが、肉体的に加えられた制裁は、半分は美守の腹いせだよ。君に裏切られて負った心の傷は、相当な深手だったらしい。情が強いぶん、我が妹の執念深さは尋常ではないようだ」
司は、スーツの内ポケットから煙草を取り出すと銜えた1本に火を点け、深々と吸いこんだ。その煙を、真尋の顔に向けてゆっくりと吐き出す。
「……雛…姫は?」
「元気にしているよ。下へも置かない待遇に、少々戸惑ってはいるようだけどね」
さらりと応えて、ついでのようにこう付け加えた。
「美守ほどではないが、君をひどく恨んでいる。俗世への未練を断ち切ってもらうため、君が彼女を置き去りにして、ひとり東京へ戻ってしまったことにしてあるからね。昨夜はひと晩、泣き明かしたようだ」
司の言葉を聞いても、真尋はまるで動じなかった。不敵な笑みが、赤紫に腫れ上がった口唇の端にかすかに閃く。まんまと嘘を看破され、司は悪びれもせず、剽げた態度で肩を竦めた。
「やれやれ、はったりは利かないか。築き上げた彼女との絆に相当の自信があるようだ」
「雛姫はそんな妄言に惑わされたりはしない」
「なるほどね、君との信頼関係は鉄壁というわけか。だが、君と引き離されて不安な夜を過ごしたことは事実だよ」
「当然でしょう? まだ子供なんですから」
「それはそうだ」
なにが可笑しいのか、司は指のあいだに挟んだ煙草を弄びながら低く笑った。
「まったく君の胆力には頭が下がる。それもすべて、あの子供を想うがゆえの『親心』、かな? 強力な自白剤にも屈しないとはじつに恐れ入った。そうまで忠義を尽くしているのは果たしてどちらに対してなのだろう。あの子供か、それとも前の《御座所》、我が麗しの従姉殿か」
「あなたには関係ない」
「そんなことはない。できそこないでも、一応僕も巫部本家の端くれだからね。知る権利くらいあるだろう? いまは亡き従姉殿が、身罷る直前、あの子供を君に託していったいなにを吹きこんだか」
顔を近づけ、真尋の顎を掴んで自分のほうへ向かせると、司は正面からその双眸を覗きこんだ。動きを封じられた真尋は、きつい眼差しを返して無言でそれを撥ねつけた。
しばしの睨み合いの後、司はふっと表情を緩めると真尋を解放した。
「まあいい。決着をつけに君が戻ってきたのなら、結果は早晩出るだろう。君に期待してるよ、真尋くん」
司は、銜え煙草のまま真尋を吊り上げている縄を弛めてやや位置を下げると、ボトムのポケットから取り出したホールディング・ナイフでおもむろに切り離した。支えをなくして、真尋の躰はその場にくずおれかける。司は抱えこむようにそれを支えると、真尋を背後の壁に凭れさせた。
長時間の拘束から一気に解放され、真尋は立ちくらみを起こしてそのままズルズルと床に座りこんだ。その手首にしっかりと結びつけられ、くいこんだ部分を、司は屈んで器用にほどくと床に抛り捨てた。
「動けるようになるまでに少し時間がかかるだろうが、せいぜいいまのうちに、しっかり休養をとって体力の回復を図るんだね。あとで滋養のつくものでも運ばせよう」
司はそう言い置いて、3分の1ほどが灰になった吸いかけの煙草を真尋の口に銜えさせると姿を消した。
石牢の鍵は、かけられないままだった。
司の意図がわからない。
動けるようになった時点で行動を起こせという示唆なのか、それとも自分を泳がせるための罠なのか。
感情をいっさい表に出さず、いつもひややかな微笑を浮かべてなにを考えているかわからない司が、真尋は昔から苦手だった。感情の赴くままに怒りをぶつけ、泣き、笑う美守のほうが、直情的であるぶん、まだ理解しやすく扱いやすかった。
けれども、外見に反し、正反対の性質を持つ兄妹にひとつだけ共通することがある。それは、己に流れる呪われた血をだれより嫌忌するその反面で、みずからが生きるための縁として切り離せずにいることだった。
――お願い、真尋。あたしをこの島から連れて逃げて!
7年前、プライドをかなぐり捨てて追い縋った美守を、自分は無情に切り捨てた。そのことを思えば、この躰の痛みなど、なにほどのこともない。
真尋は、口に煙草を銜えたまま、重力が引き寄せるに任せて上体を冷たい床の上に横たえさせた。
急激に血液がまわりはじめた両腕が、ジンジンと痛いほどに熱く痺れている。だが、それも含めた全身の痛みは、どこか自分と切り離された、他人のことのように感じられた。
自分の口から吐き出された煙が、目に染みる。
ダンヒル・ライト――司の嗜好は昔のまま変わらない。
ひさしぶりに吸う煙草は、痛めつけられた胸部への圧迫感を増し、見えない手に肺を握りしめられるような息苦しさをおぼえた。口腔内に拡がるわずかな苦みだけが他の感覚と異なってリアルに感じられ、朦朧とする意識の断片をこの場に踏み留めさせていた。
――真尋、あなたにしか任せられない理由があるの。どうかお願い、この子を守って。
沈みかける意識の底で、繰り返されるは彼の女の声。
混濁する思考がさまざまな記憶を無秩序に掘り返しては、いたずらに掻き回してゆく。
――雛姫……。
意識が闇に沈む直前、脳裡に少女の笑顔が一瞬だけ鮮明に浮かび上がった。
ふわり、と生じた風が、真尋の躰をそっと包みこむ。
待ってろ。必ず俺が、すべてを断ち切ってやる―――




