(一)
その昔、風の言葉を聞く娘がいた。
[明日の海は大時化になる]
[今年の夏は日照りつづきで水が不足する]
[嵐がじきにやってくるだろう]
[3日後、東南の海に出れば大漁になる]
[近頃、東の航路に海賊が現れ、横行している]
娘は日々、風によってもたらされる言葉を人々に伝えることで、その生活を助け、深く感謝されていた。
幼いころに流行病で両親を亡くし、娘は天涯孤独の身の上だった。しかし、天から授かったこの不思議な力により、娘は人々から愛され、『神の娘』として大切に守られながら成長していった。
娘はやがて、優しく、賢い女人へと成長を遂げた。
その美しさは、三国一どころか天女を思わせるほどの神々しさで、これを見た男衆は、是が非にも我が嫁御にとこぞって娘を欲するようになった。我こそはと名乗りを上げる求婚者は、引きも切らず娘のまえに現れた。けれども娘はだれの求めにも首を縦に振らず、村はずれの家で、ひとり静かに暮らしていた。
娘の力は衰えるどころか年を追うごとにますます強まり、その存在は、いつしか人々のあいだで崇められるようにまでなっていった。
そんなある日、娘の許に、いつもと違う風の言葉が届いた。
[浜辺に疾く行け]
驚いた娘は、とるものもとりあえず浜辺に駆けつけ、そこで、波打ち際に倒れるひとりの男の姿を見出した。
すわ一大事。
娘はすぐさま村人たちの助けを借りて男を自分の家に運びこむと、幾晩も眠らずに手厚い看病を施した。その甲斐あってか、男は3日目の朝、ついに意識を取り戻した。安堵した娘は、その恢復を心から喜んだ。しかし、事故の衝撃からか、男はいっさいの記憶を失っていた。
帰るあてもなく、己が何者であるかすらわからない。
苦悩する男を慰め、傷が完全に癒えるのを待ってともに暮らすうち、娘と男のあいだには、いつのまにか深い愛情が芽生えていた。
男はこの地に骨を埋め、終世を娘とともにする覚悟を決めた。
漁に野良仕事に村の雑用。
はじめはどこぞの高貴の生まれかと思うほどなにも知らなかった男も、瞬く間にさまざまな仕事をこなせるようになり、精悍な男ぶりと気さくな人柄も相俟って、村人たちに受け容れられるようになっていった。
やがて、ふたりのあいだには、玉のような双子の女の子が誕生した。
愛する夫と可愛い我が子たち。
平穏に過ぎゆく日々の中で、娘は幸せの絶頂にあった。しかし、その幸福は、長くつづかなかった。
光の中に生じた一点の昏い翳り。それは、あまりに突然のことだった。
[愛しい男はほどなくおまえの許を去るだろう]
唐突に耳許で囁かれた風のお告げ。
一点の染みのような小さな翳りは、見る間に周囲を侵蝕し、深く、巨大な穴へと成長していった。
不意に訪れた不安と恐怖の中、娘ははじめて自分の夫となった男の正体を知る。
男は、この土地一帯を永きにわたり守りつづけてきた、風を支配する神だった。
自由を愛し、ひとつところに留まることを嫌う風の神が、あるとき気まぐれを起こしてひとつの小島に棲みついた。
己が使わす風の子らの言葉を解す不思議な娘の存在。
人の中にも時に面白きものが現れる。
ひとかたならぬ関心を抱き、観察するうちに、娘はより一層風の子らとの絆を深め、みるみる美しく成長していった。
人とは、かくも短き時の中で、見事に花開いていくものか。
深い感歎とともに注ぎつづけた好奇の眼差しは、いつしか娘に対する溢れんばかりの情愛と思慕に変わっていた。
人ならぬ身でありながら、風の神は切ない想いに胸を焦がし、我が身の分身である風の子らを娘の許へと差し向けつづけた。
愛しき者が、いつまでも幸せであるように、と。
永劫を生きる身からすれば、一瞬のうちに消えゆく人の生命など、掌に舞い落ちるひとひらの儚き雪のようなもの。その一瞬に己を捧げる歓喜と恍惚に、風の神の心はうち震えた。
風の神はひとり無償の愛に酔いしれる。
結果、その不貞は嫉妬深き妻、大地の女神の逆鱗に触れた。
奔放を性として束縛を嫌い、妻である自分の許にすら留まることを拒んできた夫が、たかが人間の娘ごときに心奪われ、その信条を曲げてまでみずからをちっぽけな島に拘束し、それを歓びとしている。これ以上の裏切りがあろうか。
大地の女神は烈火の如く赫怒した。
されば、いついつまでもその地に留まっているがいい。
係風捕影――いづくんぞ我に能わざりしことやあらん。
嫉妬と憎悪に狂った大地の女神は、ことの次第を父である天の神に涙ながらに訴えた。愛する娘の嘆きと婿である風の神の心ない仕打ちに、天の神もまた激怒し、風の神から真の名を取り上げて、その身の上に雷を落とした。
哀れ真の名とともに力を奪われし風の神は、己の存在理由すら見失って、小さな島の海岸に打ち棄てられた――
ただの男として愛する娘と出逢った風の神。
つましく穏やかに生きる幸せなふたりに、大地の女神の不吉な影が忍び寄る。危険を察知した風の子らは、ただちに娘に訴えた。おまえの愛しき夫を奪わんとするものがじきにやってくる、と。
突然もたらされた不吉の報に、娘は絶望し、悲嘆に暮れた。
夫を我が許に留めるために、如何なる手段を講ずるべきか。
娘は必死で考えを巡らせた。
[夫を留める方法が、ひとつだけある]
娘の耳に、ふたたび風が囁きかけた。
[子供のひとりを夫の身代わりに立て、大地の女神に贄として差し出せばよい]
娘はすぐさまそれはできぬと拒絶した。
夫を守るため、我が子を差し出す非道がどうしてできよう。
夫は大事。ましてその最愛の夫と己の血肉を分けた我が子らは、白銀・黄金に勝ってなお貴い。
けれども風は、なおも言い募った。子供はふたり。対して大事な夫はひとりきり。なにを躊躇う必要あろうかと。
人ならぬものを愛し、いままさに奪われんとしている娘の煩悶は計り知れない。
[おまえは所詮、かりそめの妻。我らが神が真に愛するは、尊き母なる大地の女神。徒人のおまえに敵おうはずもない。我らが神に相応しき、真の御魂がやってくる。愛する夫を取り戻すため]
娘の意は、ついに決した。
渡しはしない、我が夫を。それが如何なる尊き神であろうとも。
娘は我が子のひとりを抱き上げた。それが大地の女神の罠とも気づかずに。
風の声は女神の声。夫から奪いし力で思うさま女神は風の子らを支配する。
[さあ、ゆけ。疾くゆけ。贄を捧げよ、いますぐに]
声に導かれ、娘が辿り着きしは島の山頂。そこで我が子の命を贄とした。
愛しい我が子、愚かな母を恕しておくれ。
疾風迅雷。凄風蕭々。
憐れ娘が手掛けしは、神に連なる血を引く子。即座に神罰下されて、娘は儚き生終える。
颶風荒れ狂う山の中、大地の女神の哄笑が響きわたる。
我が子の目醒めは、ただちに風の神の失われし記憶を呼び覚ました。風の神は、一瞬にしてすべてを知る。妻と我が子になにが起こったか。
駆けつけた山の頂で、風の神が見出したるもの。
それは、変わり果てた妻の姿と瞋恚に猛り狂う人ならぬもの。人為を超えたるものとして、目醒めた我が子の成れの果て。
凄まじい力の放出は、大地の女神はおろか、万物の頂点に君臨する天の神すら打ち砕き、消し去っていた。
誕生したのは、恐ろしい力を備えた破壊神。
なんたることか―――
風の神は愕然とした。
人と神、双方の血を引く特異な我が子がもたらした、尋常ならざる変異。そして変容。
神の力をもってすら敵わぬ存在に、力を失くしたこの身で如何にして立ち向かえよう。
絶望と悲しみに打ちのめされながら、それでも風の神は我が子であったものと対峙する。
愛する者よ、どうか心穏やかに、怒り静め給え。
それはただひたすらに、父としての切なる願い。
いまひとりの我が子を想い、妻を想い、己を受け容れてくれた心優しき人々と、ゆるやかに時流れゆく美しき島を想った。
主を守ろうと、風の子らが懸命に楯を作る。だが、風の神の躰は、圧倒的な力のまえでみるみる引き裂かれ、形を失ってゆく。
凄まじい威力。凄まじい破壊。
壊したくはない。失いたくはない。
大切なこの地と愛する人々を、愛しい我が子を守りたい。
祈りは荒れ狂う激情を次第に包みこみ、飆風となって渦を巻き、弧を描きはじめた。
我が愛し子よ、鎮まり給え―――
円は徐々に狭まり、勢いを衰えさせ――やがて終熄した。
静寂訪れし後、すべてを浄化する級長戸の風がひと吹き辺りを攫っていずれともなく消え去った。
寂寞たる荒れ地に残されしは、霄壌唯一の大いなる力。
力を使い果たす寸前、風の神はいまひとりの我が子に取り戻した己の真の名を授けたという。
母の力を受け継ぎ、父の名を受け継いだ子は、母とおなじく島の人々に大切に育てられ、やがて神の守り役となった。
島に棲まうは荒ぶる神。
名は受け継がれ、鎮めの力は受け継がれる。
其は撫恤。其は暴戻。
其は天。其は地。
其は光。其は闇―――――
真実は、真の名を受け継ぐ者のみぞ……知る―――




