(一)
長すぎる夜は、ほんのわずかな微睡みのあいだに夢の向こうへと消えていた。
真尋は、ついに姿を現さなかった。
『もう二度とあなたの許へは戻らない』
美守の言ったことは、本当なのだろうか。ならば、自分はどうやって帰ればいいのだろう。――帰る? いったいどこへ、なんのために?
ふと浮かんだ言葉に自問して、雛姫はひっそりと自嘲した。
真尋のいない場所にたったひとりで戻って、どうするというのだろうか。貯金を切り崩しながら、いままでどおり節約した生活をつづけて、学校に通って、家事をこなして。まだ小学生の自分に、いつまでそんな生活がつづけられるだろう。そして、いつまで待てばいい? 真尋のいない日々に、とても耐えられるとは思えなかった。
真尋と別れてから、まだ1日も経っていない。
昨日のいまごろは、まだ東京の自宅アパートにいて、翌日の自分がこんなことになっているなど、想像すら及びもつかなかった。
この島の名前どころか存在も知らず、ましてや巫部という不可思議な一族のことも、己の出自さえ知らなかった。
兄の自分に対する愛情を、これまで一度として疑ったことなどない。まして、血の繋がりに疑問を持つなど、あり得るはずもなかった。
巫部雛姫。
カンナギヒナキ―――
耳に馴染まないその名前は、遠い異国の地の言葉のように感じられた。
真尋はなぜ、自分を連れてこの島に戻ってきたのだろう。そしてそれ以前に、自分たちはかつて、本当にこの島にいたのだろうか。もしそれが事実であるならば、兄はなぜ、自分を連れてこの島を出たのだろう。兄と、自分との本当の関係は?
兄の声が聞きたい。兄の言葉が聞きたい。その口から、真実を知らせて欲しい。
昨日出会ったばかりの見ず知らずの人間の言うことなど信じられない。兄の言葉でなければ――兄でなければ信じない。
――ヒロ兄、どこ。
「おはようございます、姫様」
寝所の続き間から声がかかり、あいだの襖が滑るように開いた。その向こうに昨日の老女、トキが両手をついて座っていた。すでに布団から起き上がり、膝を抱えて座りこんでいた雛姫の姿を認めると、トキは表情ひとつ動かさずに深々と頭を下げた。
「おはようございます。お食事の用意が調っておりますので、よろしければお召し替えくださいませ」
「はい」
抑揚のない声で応じて、雛姫は緩慢な動作で布団から立ち上がった。家ではあたりまえの、自分が使用した布団をたたむという行為さえおそらくここでは見咎められ、禁じられるのだろう。行動に移すまでもなく想像は容易についた。それゆえ、雛姫はそのまま布団を降りて部屋の隅に置かれたバッグから着替えを一式取り出すと、洗面所へと向かった。
「本日も、よいお天気でございますよ」
寝所を出る際、すぐわきを通り抜けていく雛姫に向かってトキは言った。「よくお休みになれましたか」と尋ねなかったのは、その顔色を見れば、雛姫がどんな一夜を過ごしたか一目瞭然だったからだろう。
返事をするのも億劫で、雛姫は鬱々たる気分のまま続き間を抜けて内廊下へと出た。
真尋はまだ、この邸内のどこかにいるのだろうか。それとも……。
その先を考えるのは怖かった。
真尋が自分を置いてひとりだけ帰ってしまうはずはない。それだけを強く信じて、ほかは考えないことにした。
訊きたいことならばいくらでもある。だが、自分が欲しい答えをくれる者はいない。昨夜も、どんなに問い質してもいいようにはぐらかされるばかりで、自分たちの今後のことはおろか、とうとう真尋の行方すらわからないままだった。
訊いても無駄だと思うから、雛姫はトキになにも尋ねなかった。
昨夕とおなじ順路を辿って内廊下の突き当たりに出ると、雛姫はそこにある引き戸を開け、洗面所に入った。
左手の洗面台のまえに据えられた竹椅子のひとつに着替えを置き、トキが用意した寝間着から持参した自分の服に着替える。馴染んだ服を身につけた自分を鏡越しに見て、雛姫はようやくささやかな安堵をおぼえた。
すでに朝の清掃を終えているのか、今朝の洗面台にはサフランモドキや竜胆などが生けられている。それを見ながら洗面と歯磨きを終え、たたんだ寝間着を持って雛姫は奥座敷に足を運んだ。
昨夜同様、座卓にはすでに朝食の支度ができており、ひとりぶんの料理が並べられていた。違っていたのは、並べられた料理が洋食であったことと、部屋の入り口に控え、雛姫を待っていたのがトキだけではなかったことである。
「お戻りなさいませ」
先程とまったくおなじ姿勢で三つ指をつき、慇懃に出迎えるトキの後方に、ひとりの少女の姿があった。年の頃は、14、5といったところか。思わず足を止めた雛姫の視線を意識して、少女は突っ伏すような勢いで額を畳に擦りつけた。その少女をチラリと見やって、トキは恬然と説明した。
「これに見えるは波子でございます。この春に本土の中学を卒業いたしました。本日より姫様付きのお側仕えとして侍らせていただきますので、どうぞお見知りおきを」
「お側仕え?」
「さようにございます。不慣れゆえ、なにかと不調法申し上げることも多かろうとは存じますが、年近き者のほうが姫様も心安い場合がございましょう。どうぞよしなにご用立てくださいまし」
「ふっ、ふつつか者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたしますっ」
古参ならではのトキの落ち着きとは対照的に、緊張に声をふるわせ、裏返らせた波子が平伏したままさらに上体を低くした。
当惑した雛姫は、返すべき言葉を持たずにその場に立ち尽くした。
トキのような老齢の者から見れば年近き者同士であっても、小学生である雛姫の目から見れば、中学を卒業した少女の存在は遙かに年上であった。ましてや、互いに成年に達しない微妙な立場での年齢差は、なまじ明確に線引きがなされた大人との関係より大きな距離があるように思われた。
普段なら、気後れするのは雛姫の側のはずである。それなのに、その気後れされて然るべき立場の相手が目の前で自分にひれ伏し、緊張に戦いているさまが俄には信じがたかった。
「さ、お給仕はこの波子がいたしますゆえ、姫様はどうぞご着座あそばされて」
雛姫の手から寝間着を受け取りながら、トキは促した。
「いまどきのお若い方は、和食より洋の物を好まれるのでは、との厨房側の配慮により、今朝はパン食をご用意させていただきました。ほかになにかご要望がございましたら、なんなりとお申し付けくださいまし」
昨夜とおなじ食卓に展開されているのは、籠に盛りつけられた何種類ものデニッシュとバゲット、ロールパンにクロワッサン。上質のバター、マーマレード、イチゴやブルーベリー、アプリコットなどの数種類のジャムに加えてメープル・シロップ及びチョコレートとキャラメルのソースまでが揃っていた。そしてふわふわのスクランブル・エッグの鮮やかな黄色が映える真っ白な洋皿には、カリカリに焼いたベーコンとボイルドされたウィンナー、野菜サラダが美しく盛られ、ほかにフルーツの盛り合わせとプレーン・ヨーグルトのボール皿もそれぞれ置かれていた。グラスにはすでに牛乳が注がれており、リンゴとオレンジのフルーツ・ジュースのピッチャーまでが用意されていた。
昨日の夕食に雛姫が殆ど手をつけなかった理由を誤解し、子供――というよりも、いまどきの若い世代が喜んで食しそうなものをと腐心した結果なのだろう。
建物や部屋の内装、調度、庭園など、徹底的に和を追求した世界にあって、座卓にかけられたレースのテーブルクロスとランチョンマット、そしてその上に繰り広げられたホテル並みの朝食だけが奇妙に浮いていた。
これ以上要求するものなどなにも思いつかず、雛姫がもう充分だと告げると、トキはあとを波子に託して下がっていった。
席に着いた雛姫は、自分ひとりのためだけに用意された料理の洪水に呑まれそうになり、思わず溜息をついた。
これが、旅行先のホテルで真尋とともに摂る朝食であったなら、どれほど嬉しかったかしれない。昨日の豪華な懐石料理にしたってそうだ。けれども、夢と現実とのあいだには、気が遠くなりそうなほど厚く、重たい壁が立ちはだかっていた。
「あの、姫様」
朝食に手をつけようともせず、暗澹たる眼差しを向ける雛姫に、おずおずとした声がかけられた。顔を上げると、寝不足の雛姫とはまた違った意味で顔色の優れない波子が、緊張に顔を硬張らせ、少し離れたところに控えてこちらの様子を窺っていた。
「お食事は、お気に召しませんか? それともアレルギーなどのお躰の関係で、なにか召し上がっては不都合なものでも……?」
「あ、いいえ。そういうんじゃないです。ただ、食欲がないだけで」
雛姫はかぶりを振った。
「どこか、お加減でも優れないのですか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
答えながら、雛姫は波子の顔を見た。
今年の春に中学を卒業したばかりだという少女。昨夜会った美守のように、見る者の心に強い印象を残す、妖艶ともいえる美しさではないが、実直さが窺える、優しげな貌立ちをしていた。少なくとも、昨日この島に到着してから会ったわずかな人々の中で、この波子がもっとも真摯に自分と向き合ってくれそうな気がした。
老獪な大人たちの、それが策だと言ってしまえばそれまでである。だが、たとえそうであったとしても、トキや美守、司をまえにしたときより、緊張と警戒心を緩めてもいいと思えたことだけはたしかだった。
「あの、波子さん」
「は、はいっ」
「朝ご飯はもう済んだんですか?」
「あ、いえ、まだ――じゃなくて、えっと、いえその……」
「よかったら、一緒に食べませんか」
雛姫はごく軽い気持ちで誘ったのだが、波子は大きな黒瞳をさらに限界まで見開いて驚愕を露わにした。
「とっ、とんでもないっ! わたくしごときが姫様とお食事をご一緒させていただくなど、もったいないことです。ご容赦くださいませっ」
続き間のほうまで飛び退ってしまいそうな波子の剣幕に、雛姫のほうが驚いた。
「も、もちろん、直々にお声をかけていただきましたことは大変光栄なことでございます。ですが――」
「パンは嫌いですか?」
「い、いいえ。そのようなことは決して……」
「じゃあ、よかったらぜひ。ひとりでこんなに食べきれないし、それに、ひとりで食べても美味しくないですから」
それは雛姫の本音だった。家庭の事情で、ひとりで食事をすることはこれまでにも少なくなかった。だが、家でひとり食事を摂るとき、そこに孤独はなかった。いつも、兄の存在がすぐそばにあったからだ。けれども、ここでは違う。
また雛姫が手をつけなければ、別の食材を使って違う種類の料理が並ぶことは目に見えていた。そんな不要な心遣いが、ひどく重荷だった。
「ダメですか?」
頑なに辞退する波子に、雛姫は重ねて訊いた。
「ダ、ダメだなんて、そんな……」
畏れ多いとでも言いたげに波子は首を振り、困ったように雛姫を見てから背後にもチラリと目をやった。トキが去っていった方角を気にしたことは明白だった。
「ここだけの秘密にしておきますから」
雛姫が言うと、波子はドキリとした様子で身を竦ませた。
「トキさんには絶対内緒にします。もし見つかっちゃったら、あたしが無理にお願いしたってちゃんと言いますから。それでも怒られそうだったら脅迫したって言ってもいいです。だって、ほんとのことだから」
「そんな、脅迫だなんて……」
「ここの食事は豪華で美味しいけど、あたしには贅沢すぎて、重たいんです」
雛姫の言葉に、波子はハッとして顔を上げた。
「あたしはただの小学生なのに、昨日、このお屋敷に来てから急にすごい扱いを受けてしまって、自分でもどうしたらいいかわからないの。本当に知りたいことはだれも教えてくれないし、聞かされる話は信じられないことばっかりだし。あたしは御堂雛姫なのに、そうじゃないって否定までされて、ヒロ兄には会えないまま、この先どうなるかもわからないままで、こんなふうに立派なお部屋で年上の人たちに『姫様』なんて呼ばれて特別な待遇を受けてる」
「……姫様」
「理由がね、全然わからないんです。どうしてここの人たちにこんなによくしてもらえるのか、とか、波子さんみたいなお姉さんに、うんと偉い人に対するみたいな接しかたをされちゃうのか、とか」
なんだか時代劇のお殿様にでもなっちゃったみたいと力なく笑う雛姫を、波子は痛ましげに見つめた。そしておずおずと口を開いた。
「あの、わたしの口から申し上げられることは限られてますけど、それでよろしければ可能な範囲でご説明します。わたしのような、お屋敷に入り立ての新参の者では充分ご満足いただけるほどのお話をすることはできませんけど、少しでも姫様のご不安やご不審が取り除けるのでしたら、わかる範囲でできるだけ」
「いいんですか?」
「かまわないはずです。口止めはされておりませんから」
波子はそう言って微笑んだ。
「でも、わたしが存じ上げていることは、おそらく島の人々でも知っているような、当たり障りのない程度の内容にすぎません」
「それでもいいです。なんにもわからないいまの状態よりはずっとましだから」
「わかりました。それならお話しします。でも、そのまえにひとつだけ……」
「え?」
「少しでかまいませんから、どうぞお食事を召し上がってください。おひとりで味気ないと仰るのでしたら、わたしもご相伴させていただきます。こう申し上げるとまたご不快に思われるかもしれませんけど、わたしにとって姫様はやはり上つ方でいらっしゃいます。でも、決してわざと距離をおいたり、ましてや嫌ったりしているわけでないことだけはご理解ください。むしろこうしてお仕えできることを嬉しく思っているんですから」
「でも……」
「もしこのような言葉遣いが気になられるようでしたら、これがこの地方での方言だと思っていただければよろしいんではないでしょうか」
「――方言?」
「はい。こんな田舎の小さな島ですから、都会暮らしの御方の耳に馴染まない言葉が使われるのは当然でございましょう?」
波子はにっこりと笑った。なんとも強引なこじつけにしばし呆気にとられた雛姫は、いつのまにか緊張を解いて細やかな心配りを見せてくれる波子に好感をおぼえた。
「姫様も、どうぞわたしに敬語などお使いにならず、お友達に接するようにお気楽になさってくださいね。打ち解けていただけると、とても嬉しいです」
「そのほうがいいの?」
「はい。特に先程のように同席の者がある場合は」
波子はそう言って、またチラリと自分の後方を見やったので、雛姫はその心中を察してクスリと笑った。
「では、お話はお食事をいただきながら、ということでよろしいですね?」
雛姫はもちろんそれでかまわないと同意した。
「お誘いくださってありがとうございます。じつはわたし、お腹がぺこぺこだったんです。重大なお役目を仰せつかって、今朝は緊張のあまり食事が咽喉を通りませんでしたから。お給仕の途中でお腹が鳴ってしまったらどうしようって、気が気じゃありませんでした。だって、こんなに美味しそうなんですもの」
波子は雛姫の向かいに座って白状した。
「お仕えするのが姫様のような方で本当によかったです。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」
形式的なものではなく、真に自分に向かって発せられた言葉に、雛姫も今度はきちんと応えることができた。




