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神の棲む島  作者: ZAKI
第四章 山上の館
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(二)

 真尋と別れ、老婆の案内あないを受けて屋敷の奥へ通された雛姫は、あてがわれる部屋へ着くまでのあいだ、随分長い距離を歩かなければならなかった。

 入り組んだ屋敷内の廊下を、老婆は慣れた足取りで進んでいく。いくつもの角を曲がり、外廊下に出て、山頂付近全体を借景とした池泉廻遊式の大庭園を横目に見ながら、次第に深奥部へと入りこんでいった。


 いったい、この屋敷はどれほど広大な敷地を抱えた邸宅になっているのだろうか。


 池にかかった朱塗りの反り橋が、角を曲がるたびに見え隠れし、その角度を変えた。どこか遠くでは、鹿威ししおどしの風流な音が絶えることなく響いている。

 海に囲まれた島の山頂付近だからなのか、この屋敷の造りのせいなのか、地上では連日記録しているはずの猛暑が、ここではひっそりと息をひそめ、涼風が爽やかに吹いていた。



 やがて、母屋の最奥に達したところで、池から引かれた遣水やりみずの上に設けられた渡り廊下が現れた。その向こうに、これまた見事な数寄屋造りの離れが建造されていた。入母屋いりもやの屋根に取りつけられた立派な破風はふとそれを引き立たせるように対を為した懸魚げぎょの華やかな装飾が、建物の外観に荘重さを増していた。

 全体の印象としては、『住居』というよりは、むしろ『社』かなにかのようだ、と雛姫は思った。


「ささ、姫様、こちらでございます」


 老女は、渡り廊下の手前で一度立ち止まると、後からついてくる雛姫を振り返って離れを指し示した。

 クラスでも小柄な部類に入る雛姫より、老女はさらに頭ひとつぶんほども小さい。そんな老人に自分の手荷物を持たせることに抵抗を感じた雛姫は、途中、幾度か自分で運ぶ旨を老女に申し出た。しかし、結局最後までそれが聞き入れられることはなかった。


 渡り廊下を抜け、離れに辿り着くと、ぐるりを囲んだ外廊下から建物内部に繋がる内廊下へと移り、いくつかの部屋を通り過ぎて、ようやく中庭に面した一室に通された。

 美しい砂紋を描く枯山水が、開け放たれた障子の向こうに広がっている。

 離れといっても、それはあくまでこの屋敷の規模での話であって、この建物それ自体が充分すぎるほどの広さを誇っている。その奥座敷ともなれば、造りはもちろんのこと、調度から建具、畳に至るまで、隅々に最高級の素材が使用されていた。

 ひとつひとつの実際の価値はわからなくとも、それがただの客間でないことだけは雛姫にも理解できた。


「さぞお疲れでございましょう。ただいま夕餉のご用意をいたしておりますゆえ、それまでごゆるりとおくつろぎくださいまし」


 通された部屋が、あまりに広く立派であったため、所在なく部屋の隅に立ち尽くす雛姫に、老女は中央の座卓でお茶を淹れながら言った。


「あ、あの……」


 なにかを尋ねようとして口を開いてみたものの、実際にはなにをどう質問すればいいのか見当もつかない。雛姫は困惑して、結局なにも言えずに口唇くちびるを噛みしめた。


「そうそう、お湯殿へご案内いたしましょう」


 雛姫の抱える不安を宥めるように、明るい口調で言って老婆は立ち上がった。


「こちらには質のいい温泉が引かれておりますからねえ。長旅のお疲れもきれいにとれましょう」


 そう言って、雛姫の返事も聞かずにさっさと先導していく。雛姫の目では、その年齢を推し量るのは難しかったが、それでも闊達すぎるこの老女が、初老と呼べる域に留まっているようにはとても見えなかった。にもかかわらず、この元気さと身軽さはどうしたことだろう。

 また延々長い廊下を歩かされるのかと内心でうんざりしながら、雛姫は老女の葡萄染えびぞめの帯をぼんやり眺めつつ後につづいた。だが、その予想はいい意味ですぐに覆された。奥座敷を出ていくらもしないうちに内廊下の突き当たりに行き着くと、老女はそこにある、格子に磨りガラスが嵌めこまれた引き戸のまえで立ち止まった。


「こちらでございます」


 横に押し開かれた引き戸の向こうには、いつも通っている銭湯のそれとは明らかにランクの違う、隅々まで掃除の行き届いた明るい脱衣所が広がっていた。

 入り口左手には、嵌めこみ式の大きな鏡が備え付けられ、陶器の洗面台が3つ、竹椅子とともに等間隔に配置されている。竹の一輪挿しには、それぞれヤマユリ、ヤブカンゾウ、ホオヅキなどが飾られ、ドライヤーやブラシ、歯磨き・洗面用具なども完備されていた。また、入り口右手には、サウナにシャワー・ルーム、パウダー・ルーム、手洗いが並び、そして正面奥、ガラスの二枚扉が開放されたその向こうには、情緒ある広々とした岩風呂が、岩から流れ落ちる滝の湯を背景に湯煙を上げていた。


「わあ……」


 雛姫は思わず歓声をあげた。その様子に満足したように、老女は先に立って脱衣所と湯殿の境目まで進み、さらに奥を指し示して言った。


「岩風呂のさらに奥には、四阿あずまやを設けて、その下に檜の露天風呂が造られております」


 見ると、たしかに岩風呂の向こうに飛び石が敷かれ、辿った先には立派な四阿が見えた。


「夕餉のお支度が調いますまで、いましばらくお時間がございます。先に湯殿をお使いになるのがよろしいでしょう」

「あ、でも着替え……」

「ご案じなさいますな。ババがすぐにご用意いたしましょう」

「そんな、いいです。さっきの部屋まですぐだから、自分でとってきます」


 雛姫は、言うなり来た廊下をとって返そうとした。刹那、背後から毅然とした老女の声が飛んだ。


「なりません、姫様」


 ハッとして雛姫はその足を止めた。思わず顧みた少女を、背筋をピンと伸ばした老女の眼光が鋭くとらえていた。


「姫様のお身の回りをお世話申し上げるのが、この婆の務めにございますれば」

「え、でも……」


 老婆の言いようは、たんに一個人宅を訪れた客をもてなすにしては大仰すぎる気がして、雛姫は強い違和感をおぼえた。そして先程から繰り返し用いられている、『姫様』という自分への呼称にも。


「遠慮はご無用でございますよ。すべてこちらの当主より、姫様のよきにはからうようにと申しつかっておりますゆえ」

「あの……、ここはおばあさんのおうちではないんですか?」

「とんでもないことでございます」


 ホ、ホ、ホ、と、老婆は皺だらけのおちょぼ口を、さらにすぼめて笑った。


「こちらは巫部家ご当主、巫部志姫しき様のお住まいでございます。わたくしは、古くからこちらのお家にお仕えしている者のひとり。トキと申します。そして先程お出迎え申し上げました、いまひとりがわたくしの姉、ウキでございます」

「お姉さん――おばあさんたちは、双子?」

「さようでございます」


 老婆は神妙な面持ちで頷いた。鏡に映したようにおなじ姿をしていたのは、だからだったのだ。雛姫は納得した。


「あの、それで、このおうちのご当主様は、どうしてこんなによくしてくださるんですか?」


 兄の言っていた『長老』という人がこの家の当主なのだろうことは想像がついたが、その人物と自分たちとの関係が、雛姫にはいまだ結びつかなかった。だが、トキはしかつめらしい表情で頭をひと振りすると、意外なことを口にした。


「当然でございます。ご当主志姫様は、雛姫様の大伯母上様にあたられる御方でございますから」

「大…伯母さ、ん……さま?」

「さようでございます。志姫様は雛姫様のお祖母様であらせられる、いまは亡き真夕姫まゆき様の実の御姉君なのです」


 トキの言葉に、雛姫は茫然とした。


 そんな話は、いままでただの一度も聞いたことがなかった。

 亡くなった父も母も、生前は肉親の縁が薄かった人たちで、その両親亡き後、残された兄妹に親類と呼べる存在はいないと真尋からは聞かされてきた。そして実際、雛姫はこれまで、父方、母方いずれの縁故関係にあたる人たちとも会ったこともなければ、噂すら耳にしたことがなかった。だから、ずっとそういうものなのだと思っていた。

 だが、真尋が今日、こうしてなんらかの理由でこの屋敷を訪れたということは、大伯母と呼ばれる人の存在をとうに知っていたことになる。そしてそれ以前に、港に迎えに来た男も、先程玄関先で自分たちを出迎えたトキとウキも、『戻ってきたこと』を前提とした態度を取りはしていなかったか。


 これは、いったいどういうことなのだろう。


「さすがにお血筋は隠せませぬ」


 雛姫の混乱をよそに、トキは満足げに、もともと糸のように細い目をさらに細めて述懐した。


「志姫様、真夕姫様のお若いころの面影はもちろんのこと、お母君に生き写しでいらっしゃる」


 その言葉に、雛姫は心底驚いて目を瞠った。


「お母さん……。あたしのお母さんのことも知ってるんですか?」

「無論でございますとも。お母君のことなら、よぉく存じ上げておりますよ。ご幼少のみぎりより、わたくしが大切にお世話申し上げてまいりましたからねえ。いまの姫様同様、お可愛らしくて、お小さいころから利発なお子様でいらっしゃいました。成長あそばされてからは、それはたおやかで清楚な、まるで天女のように美しい女性にょしょうになられて……。

 美姫みき様は、ほんにトキの自慢でございました」


 亡き人を思って老婆は涙ぐむ。だが、雛姫はそこでトキの言い間違いに気づいた。


「……あの、あたしのお母さんの名前は、『美姫』じゃなくて『牧江まきえ』です」

「それは御堂の家の者の名でございましょう」


 まるで汚らわしいものででもあるかのように、トキは不快げに眉根を寄せてピシャリと言い放った。


「あ、はい。でも、あたし――」

「巫部の家は、代々女性が当主の座に就く女系家族。なかでも直系の、【ある資格】を持って生まれた女子に限って『姫』の一字を入れて名付けるのが習わし。それゆえ皆様、ある時期までは『姫様』と呼び慕われるのでございます。雛姫様の御名にも、直系有資格者の印である『姫』の一字がございましょう? これは大変特別なことを意味するものなのでございますよ」

「あの、だけどあたしは……」

「それなのに真尋も本当に困ったことをしてくれたもの」


 老婆は苦々しげに呟いて、問い質す間も与えずそこで話を打ち切った。


「さあさ、すっかり余計なことを話しこんでしまいました。お耳汚し、お許しくださいまし。いまはひとまず、こちらの湯殿でごゆるりと下界の汚れをお落としになって」

「あ……。あの、でも、やっぱりあたし……」


 やや強引に入浴を勧められて、雛姫は思わず躊躇した。だが、老婆はすべて心得ているようにひとつ頷いた。


「ご心配なさらずともようございます。姫様におかれては、はじめての月の障りをお迎えの由。なにごとも、姫様のよろしいようにこの婆がとりはからいましょう」


「あ……」


 言われた途端、雛姫の顔が頬から耳にかけて羞恥に赤く染まった。

 なぜ知っているのかという思いと、自分がもう、決して戻れぬ階段をひとつ上ってしまったことへの戸惑いや不安がい交ぜになった感情が小さな胸の中を一気に駆けめぐり、その場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。だが、老婆はなにごともなかったかのごとく涼しい表情で雛姫のわきを通り過ぎると、「では、ごゆっくり」とのひと言を残して引き戸の向こうへと姿を消した。

 雛姫は、膝から崩れ落ちるようにぺったりとその場に座りこんだ。


 いろいろなことが頭の中でぐちゃぐちゃに絡まり、なにから考えたらいいのか、もうわからなかった。


 茫然とくうを見つめながら、雛姫は早く真尋に戻ってきて欲しいと、ただそれだけを願っていた。

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