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蠅の罪  作者: Alice・L・Joker
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汚物

                     第1章  汚物




                        1



 電気の通っていない廃校舎の中は仄暗く、懐中電灯も持たずに放り込まれたりなどしたら怪我の一つや二つは当然覚悟しなければならないと考える。


 それもそうだろう。


 正面玄関は二重、三重に施錠されており頑なに部外者の侵入を拒んでいた為、僕は仕方なく侵入可能な「抜け道」を探して歩いた。


 数分後、その抜け道は容易に見つける事が出来た。


 校庭に面した教員室の窓ガラスは概ね破損しており、おそらくこれは地元の不良達によって石を投げられたかバットか何かで割られたのだろうと推察してみる。


 まず間違ってはいないだろうが、そうして出来た無数の「入り口」を塞ぐようにして有刺鉄線が張り巡らせてあり、そしてその一部分だけ、一枚の窓ガラス部分だけ鉄線が切除され割れたガラスも綺麗に取り除かれていた。


 この状況を他者が見れば僕は間違いなく不法侵入者と呼べたが、それは違う。僕は招待された客であって招かれざる客ではない。だからこそこの侵入可能な「入り口」は、おそらく僕を招待したその人物が用意した「抜け道」なのだろうと受け止めた。


 腰よりも少し高いサッシ部分に手をかけ教員室へと潜り込む。暗がりの中にあってよくよく目を凝らしてみれば、実際使われなくなって幾久しい机や椅子はそのどれもが埃を被っており、窓側の床には割れたガラス片が散乱していた。何かに躓き転びでもすれば、と考えればつまりはそういう事だ。


 時刻は夕方五時過ぎ。真夏の陽はまだ西の空にあったが、先にも言ったように校舎の中までは届いていない。足下を照らす為に掌サイズのLEDランプを灯す。


 僕の目に、辛うじて投影されていた風景がハッキリとした輪郭を手に入れると、脳の奥底にしまい込まれていた記憶が、つぶさに呼び起こされるのが分かった。


 此処は僕が十八年前まで通っていた中学校であり、忘れたくても忘れられない嫌な場所。いや、嫌というよりも嫌悪な場所と言った方が適切だろうね。それでも、此処に帰ってくるしか手は無かった。此処で、終わりにしなければならなかった。


 教員室を出た僕は校舎の二階へ行こうと階段に足を乗せる。ひんやりとした空気に足首を掴まれた思いだった。まるで幽霊が出ても、疑うまでもなくそれは本当にこの世に存在したのだと、受け入れてしまいそうな、そのような雰囲気に心臓が壊れてしまいそうになる。


 分かってる。


 怖いのは幽霊ではなく、人間なのだということを。それでも、これから対面しようとしている相手が幽霊であったなら、どれほど楽であっただろうかと後悔にも似た感情に心を揺さぶられた。


 僕は足を止める事なく階段を照らしながら進む。


 階段から二階の廊下へと右足を乗せる直前、はやる気持ちを抑える為に深呼吸をひとつ。それから頭だけを覗かせ左右を見渡し周囲を窺った。


 昔の記憶通り南側が教室、北側は壁となっていた。何故方角が分かるかと言えば、よくもよく知る母校だからの一言に尽きる。


 人の気配がないことを確認し左手側を教室とし廊下を進む。壁側を照らし少し視線を上げれば、壁には落書き。地元の悪ガキ達だろうかスプレー缶で描かれているものはアートとは程遠い単なる落書きに過ぎない。


 自己主張の間違った方法論、社会全体に対する鬱積の具現化、などなど文字に表せば知的表現かなにかと勘違いしてしまいそうだが、間違ってもこれは落書きだ。目的の為に描かれたものではなく、その行為自体が目的の一つ。それでも僕の視線が其処から離れなかったのには理由がある。落書きの上に重ね書きされた、比較的新しい文字を見つけてしまったからだ。これは招待客に対する明らかなメッセージだった。


 嫌な予感が悪寒となって背筋を走る。


 壁に赤く浮かぶメッセージのその言葉の意味よりも、何故その言葉が其処に記されなければならないのかと考えたとき、今の今まで物音を立てぬようにと配慮していた僕の足は、一転して激しい靴音を校舎内に鳴り響かせた。一刻も早く、「同窓会」の会場へと向かう為に。


 記憶の通りなら僕が中学生時代を過ごした最後の教室は廊下の突き当たりにある。一学年一クラスだけの小さな学校。


 僕の親の世代には三クラス以上あり二階建ての木造校舎が三棟並んでいたそうだ。それでも当時としては比較的規模の小さな中学校だったらしく、現代のような少子高齢化社会からは考えられない時代背景が垣間見えてくる。


 ただ、今も昔も変わらないことがある。


 悪意なき悪意、或いは純粋なる悪意と呼べたかも知れないそれは、幼少期から思春期にかけて顕著に現れるのだろう。


 今回の「同窓会」は、そうした悪意への解答なのかもしれないと、僕はただただ義務感にも似た思いで教室を目指した。


 数秒後、目の前にはライトで照らし出される大き目の引き戸。昔は乳白色だったが今は黄色く変色していた。


 生唾をひとつ呑み込み、覚悟を決め引き戸に手を伸ばそうとしたその瞬間、突然教室内から一発の銃声が鳴り響いてきた。


 投げるように引き戸を開け教室に飛び込んだ僕が最初に出した言葉は、絶句。言葉にならない言葉と驚きだった。そして、「何故」という疑問と問い掛けが津波のように襲ってくる。と同時に、事の始まりとなったあの日へと記憶を遡り、必死に答えを探したんだ。





                        2



 階下から漂ってくる芳ばしいコーヒーの香りが、僕を夢の世界から目醒めさせてくれた。夢と言っても悪夢と呼べるものだったから現実世界へと呼び戻してくれたコーヒーには凄く感謝だ。


 夢自体はたまにしか見ないけれど、そのたまに見る夢が大概悪夢とくれば寝起きも悪くなる。そうした朝には決まって寝汗をかいており、一日の始まりがシャワーからという日も少なからずあった。そうした理由から、今では朝からシャワーが日課となっていた。


 階段を下りてくる足音に気付いたのか、浴室へと向かう僕に向かって扉一枚隔てたダイニングから、妻の千帆ちほが声を掛けてくる。


「パパ今日起きるの早くない? 朝御飯まだ出来てないんだよね」


「んー、いいよ。どうせシャワー浴びるからゆっくり支度しなよ」


「そこは俺が手伝うから、ってたまには言ってもいいんだよ」


「うん、その案は検討しておくよ」


「だったらさぁ、シャワー浴びて済んだら我が家のお姫様を起こしてきてくれないかなー。あの娘、パパの言うことにはすっごい素直だし」


「うん、その案は承諾した」


 千帆が「私にもそのくらい優しくしてくれたらいいのに」と言い終える前に、僕は早々と脱衣室への避難を決め込んだ。


 僕と妻の千帆は年齢が同じで、結婚してから今年で七回目の春を迎える。僕らの間にはもえという六歳の娘がおり、お姫様とはつまり娘に対する僕ら二人の時だけの呼び名だった。


 夫と妻、そして娘と暮らす夢のマイホーム生活。と言えば聞こえはいいが実は結構大変なものだと最近になってようやく理解した。


 医療機器メーカーの営業をしている僕と、当時有名医療法人の看護師だった千帆との年収を合わせれば、銀行からの融資を受けることはそう大して難しい問題でもなかったし、懇意にしていた不動産屋から丁度良い新築物件があるのだけれど、とマイホームの購入を強く勧められていた。


 彼の言う良い物件とは、坪当りの土地単価が三十万円強と、それは都内とはいえ北の端に近いことを踏まえても破格の条件といえただろう。


 それに通勤の為最寄りの都営地下鉄線に乗れば必ずシートに座る事も出来るよ、と彼は付け足した。


 三十歳を間近に控え、住宅ローンを組むのなら少しでも早い方が良いだろうと僕たち夫婦はマイホームの購入を即決する。定年後の退職金で繰り上げ返済を利用する手もあったし、不動産屋の「もしやり繰りに困るようなことがあれば売ったらいいんですよ」の、いま考えれば無責任過ぎるアドバイスに上手く乗せられていたんだと思う。


 マイホームでの生活を始めて暫くの間は、千帆も仕事と育児とをどうにかして両立させようと孤軍奮闘していた。いま孤軍とは言ったけれど決して僕が協力していなかった訳じゃない。


 それでも、僕が手を差し伸べられる協力の範囲はとても狭く限定的なものであり、後になって千帆の口から明かされた話では、「無いよりはマシ」程度だったそうだ。


 具体的にどのような協力内容だったかと言えば、ゴミ出しであるとか、たまに日曜日に行われる町内会の清掃作業に参加したりだとか、ちょくちょく台所に出没するゴキブリを退治したりだとか、つまりはそういう事。


 結局のところ千帆にばかり無理をさせ、二人で下した決断は、病院の仕事と育児の両立は絶対に不可能。


 今まで信頼と実績を積み上げてきた看護師の職を辞し、千帆は比較的家から近いショッピングモールで清掃員のパート職員として勤めることとなった。


 それなら保育園への萌の迎えに遅れる心配もないし、熱でも出せば他のパートさんと勤務を代わってもらうことも前職よりは容易いだろうと考えての事だ。


 おかげで以前よりは肉体的負担がかなり軽減された。その代償として、金銭的な余裕も減少を見せる。


 まあそれはいい。僕がその分までしっかり稼げばいいだけの話であり、そうした苦労は苦労とは感じていなかったからこれ幸いだ。


 ではいったい何が大変なのかと言えば、僕の家族と一緒に過ごせる時間が激減してしまったという事実。


 確かに働く事自体は苦でもなんでもなかったけれど、萌の成長過程を妻、千帆と同じ速度で共有する事が出来なかった。


 僕に言わせれば、よちよち歩きだった娘がいつ間にやら補助輪付きの自転車を漕いでいた。といった感じだ。


 そして千帆との夫婦の時間まで奪われてしまった事がお互いにストレスを溜める原因となっていた。


 育児に正面から向き合う千帆は躾として時折厳しい口調にもなるが、それは親であれば当然そうなるし、そうでなければならないと僕は思う。そして子供がその真意を理解するにはいま少し時間を要するであろう、とも。


 叱られる立場の子供からすれば、毎日顔を合わせる口うるさい親より、たまの休みにしか一緒に遊んでくれない親であったとしても、そちらに甘えたくなるのが心情ではないだろうか。


 我が家のお姫様が、千帆が起こすよりも僕が起こす方が素直だというのは、おそらくそういった理由からだと思う。


 僕はスウェットパジャマの上着を肌着ごと脱ぐとすぐさま洗濯機へと放り込む。いつも千帆からは「洗濯機回した後が大変なんだからね」と怒られるけど、もう慣れっこになっていた。


 残った着衣を脱ぐ前に、洗面台の鏡に映った男の顔をまじまじと眺める。


 疲れの抜けきっていない、髪が寝癖だらけのだらしない男の顔が其処にあった。


「……うわぁ、ひでぇ顔。これじゃ中年のオッさんだな」


 今更ながら分かってる。そろそろ中年の仲間入りも近いなとは感じていたから、余計にショックだっただけだ。僕は何も見なかった事にしてスウェットの下とボクサーパンツを同時に脱ぎ、これも上着同様洗濯機へと放り込んだ。


 三月も初旬の早朝だったが気温は底冷えするほど低く、僕は身震いしながら浴室へと急ぎ熱めのシャワーを頭の先から浴びせかけた。こうする事で傾眠状態にあった僕の細胞達は、ひとつひとつ順番に覚醒していった。


 シャワーを浴び終え、千帆が用意してくれているだろう衣服を探す。


 いつも通り、脱衣場に併設されたパントリーのカウンター上には、皺のひとつも見当たらないほど綺麗にアイロンがあてられ、これまた店頭に並べられた商品同様綺麗に折り畳まれた下着と衣服が用意されていた。


 それが千帆の性分でプラス要素でもあったし、僕の大雑把な性格をマイナス要素としたなら二人合わせてプラマイゼロといったところだ。彼女にはいつも感謝している。


 更衣を終えた僕はドライヤーで髪を乾かし、ヘアワックスで髪を整える。そして電気シェーバーで髭を剃り終えると、先ほどまで鏡に映っていただらしのない中年男性とはうって変わり、誠実そうで笑顔の似合う男性が目の前に立っていた。


 僕はダンヒルのネクタイを結びながら「まだまだ老けるには早過ぎますよってんだ」、と営業スマイルのチェックをしながら自分で自分に喝を入れる。


 それからほんの数秒後、僕がシャワーを浴び終えるのをまるて見計らっていたかのように、扉の向こうから千帆が声を掛けてきた。おそらくドライヤーの音でそうだと気付いたに違いない。


「ごめんパパ、もうひとつお願いがあるんだけどいいかな?」


 普段から家の用事はほとんど千帆に任せきりだったから、このお願いもそうした案件だろうと予測がつく。


「あぁ、いいよ。少し照れるけどおはようのキスなら僕も大歓迎さ」


「いやいや、そうじゃないから。実はお世話になった職長さんが急に辞める事になって、送別会って名目の飲み会があるのよ」


「おいおい、そんな話聞いてないぞ」


「聞いてないもなにも、いま初めて言ったんだもん。パパいつも朝早いし帰りは遅いしで何だか言い難くてさ」


「だからって当日の朝に言うことじゃないだろ」


「だぁかぁらぁ、ゴメンって」


 僕の腹の奥底で、得も言われぬ怒りと不満が湧いてくる。


 僕が千帆との日常会話に時間を割いてやれていない自覚はあったし、仕事の苛立ちから言い出しにくい雰囲気を醸し出していた事は否定のしようがない。


 僕が鏡で見たような、あのだらしの無い顔を毎朝見ているとしたなら、誰だって言い出し難い相談などしようとは思わないだろう。だからこそ、毎朝のシャワーには表情のスイッチを切り替える目的も含まれていた。


 この怒りと不満は、間違いなく自分自身に対するものだ。家など買わなければ夫婦の時間は奪われることもなく、仕事で無理をして自分で自分を追い込むことも無かったかも知れない。でもそれは憶測に過ぎず現実的ではない。


大切なのは、現状をどう打破していくかだ。


「そもそも飲み会に行くのは良いとしてさ、うちのお姫様はいったいどうするつもりなのさ?」


 僕は冷静を装いつつ扉に向かって話しかけた。次の瞬間、僕の頬は思わず緩むことになる。


 音も立てず、すすすっと扉が開いた後、頭を下げ頭上で合掌する千帆の姿が其処にあった。


「お願い! 生まれつきインフルエンザでしたからって早退無理かな? 駄目なら盲腸とか、痔とか?」


「お前なぁ……それわざと言ってるだろ。同じ言い訳するなら腹痛か頭痛で十分だし。とにかく、まぁ、今日はどうしても外せない得意先だけ顔だして早めに帰るようにはするよ。それでいい?」


「ほんと! 助かるわぁー。上司の送別会だし、断りきれなくて困ってたのよねー」


「帰り、そんなに遅くはならないだろ?」


「なになに? 私が浮気でもするんじゃないか心配になったとか?」


「そうじゃなくて。あまり遅いと我が家のお姫様が不安になるだろ」


「あら、不安なのはパパのくせに。萌のせいにしないでよね。大丈夫、早めに切り上げるつもりだからさ」


「それならいいけど……」



 千帆に言われるまで、今の今まで不安など感じていなかった自分自身に気付く。僕が言うのもなんだけど、妻の千帆は可愛らしい。背が低く幼い顔立ちが余計にそう思わせる。決して美人というわけではなく愛嬌の塊と言ったらいいかな?


何しろ、彼女との付き合いは一目惚れした僕からの告白で始まった。


好みのタイプだった。


その彼女と結婚し、愛娘まで授かったのだから満足しているに決まってる。


幸せの真っ只中にいるんだから、不安など感じるわけがなかった。


 千帆は僕の返事を聞き、笑みを含んだ悪戯な顔でウインクを飛ばすと、「あー! 目玉焼き焦げちゃう!」とコンロの火にかけていたフライパンを思い出し慌ててダイニングへと駆け出した。


 僕は洗面台に向き直り、改めて自分の顔を覗き込む。すると眠気の去った瞳の奥に、いま生まれたばかりの小さな不安が見え隠れする。


ネクタイを締め直しそれを否定したところで、僕は二階でまだ寝ているお姫様をお越しに再び階段へと向かった。





                        3





 


 小綺麗に整理されたダイニングには焦げ臭さが漂う。


 ついさっき、僕を目醒めさせてくれた芳しくも豊かなコーヒーの薫りは何処へやら。テーブルの上に並べられた食器の上で、その焦げ臭さの元凶が僕を見上げていた。


「ごめんなさーい。少し焦がしちゃったけど食べられなくはないから。だって、勿体無いでしょ?」


「別にかまわないよ。どんなに焦げてもハムエッグに違いはないからね」


「あのー、それただの目玉焼きなんですけどー」


「なんでしゅけどー」


 目の前の席で、まだ眠たそうに目を擦っている娘の萌が、千帆の口真似をする。意味が分かって言っているのか、単にその音が面白くて真似ているのか、僕は後者だと思う。


「萌、ママの真似しなくていいから」


「してないよー」


「してないよねー、萌」


「ねー、ママ」


 ケラケラと笑う女二人。敵にまわして僕に勝ち目などない。もとより勝ち負けの問題ではないのだけれど、色々と面倒くさい。ここは黙って引き下がるのが得策とみた。


 僕はマーガリンを薄く塗ったトーストを頬張りながら、ミルクも砂糖も入れていない飴色のコーヒーが注がれたカップに手を伸ばす。色は薄いが薫りは高い。口に含めば頭の中がクリアになっていくのがよく分かった。


 千帆はといえば、対面カウンター型のキッチンの中で陽気な鼻歌を口ずさみながら萌に持たせる弁当を作っている。萌もその鼻歌に合わせリズムをとっていたが、クリアになった僕の耳はそれとは違う別の音声に向けられたんだ。


 冬のボーナスで買い換えたばかりの大型薄型テレビ。朝早い情報番組の天気予報コーナーで、桜の開花予想が報じられ、関東一帯では例年に比べ一週間程度早まるだろうとのことだった。


 暖冬の影響もあるのかも知れないが、それでも萌の入学式までには散らないでくれよと心の中で呟く。入学式といえば、桜の木の下で記念写真と相場は決まっている。なので散ってもらっては困る。


 ここまでであれば、朝食を摂りながらテレビに耳を傾けていただけ、であったが、次のニュースを聞いて僕の視聴覚神経は全てテレビに向けられる事となった。


 そのニュースの内容とは、関東広域にわたり小学生以下の児童が消息不明となる事件が相次いで起こっているというものだった。警察は事件、事故の両方で捜査にあたっているとの事だったが、何一つ有力な手掛かりは掴めていないようで、キャスターの口から近く公開捜査に踏み切るのではないか、と報じられた。


 幼い娘を持つ親として心配しない訳がない。我が家の娘だけは事件に巻き込まれたりしない、などと誰が言えただろう。犯罪や事故も災害と同じく誰の身にも起こり得るものだ。


 キッチンから千帆が、「最近怖いのよね」と怯えた顔で話しかけてくる。萌を見れば何の話かは理解出来ていないようで僕は内心ホッと胸を撫で下ろした。


 萌の関心がニュースに向かないよう、テレビのチャンネルを子供向けアニメ番組に切り替え、千帆との会話を続ける。肝心の萌は目を輝かせテレビ画面に釘付けだ。


「怖いって……この辺で似たような事件でもあったの?」


 千帆はコーヒーを注いだカップを片手に僕の隣へと腰掛け、真剣な面持ちでこう続けた。


「……隣の板倉さん家、先週引っ越したでしょ?」


「あぁ、海外に転勤が決まったとかで、家族揃って引っ越したんだっけ」


「違うの……本当は、娘の由奈ちゃん、お母さんとスーパーで買い物中、ちょっと目を離したすきにトイレに連れ込まれ、イタズラされたそうなの。発見後直ぐ救急車で搬送されたんだけど、もう子供を産める身体じゃないって……お母さん、泣きながら打ち明けてくれたの。なんて言って慰めてあげたらいいか分からないし、なんだかね……」


「酷い、な……。まだ5歳かそこらだろ……」


「ええ、うちにもよく遊びに来てたから、余計に可哀想で。それにお母さん……精神的にまいってしまったみたい。旦那さんもそれを見かねて引っ越しを決めたようだけど、その旦那さん自身も相当落ち込んでたように見えたわ。もしこのニュースを二人が観てたら、きっと由奈ちゃんの事件思い出しちゃうでしょうね……」


 千帆はカップに注がれたコーヒーをただ眺めるだけで、決して口に運ぼうとはしなかった。視線の先にあるのはコーヒーなどではなく、目には見えていない犯人像だったからだと思う。


「その犯人、まだ捕まってないんだ。だから、怖いんだね」


「うん。ニュースのとは別の事件かもしれないけど、次に狙われるのが萌かもしれないと考えただけで、なんだか恐ろしくって……」


「大丈夫。警察だって馬鹿じゃない。ニュースの事件も、お隣の事件も、きっと犯人を捕まえてくれるさ」


「……そうね。そう願うわ」


 僕たち二人は事件の話題にそれ以上触れないようにした。犯人探しは警察の仕事であって僕達の役目じゃなかったし、我が子と共にする朝食の席にも相応しくないと考えたからだ。


とは言っても、萌がトーストに噛り付いた時には、僕は既に玄関の上り口で革靴を履き終えていた。家族揃っての食事など日曜の夕食だけであったし、まだ愛する娘と顔を合わせられるだけこの出勤前の一時は貴重と言えた。


 千帆が背中越しに、「さっきの約束忘れないでよ」と念を押しながら僕に確約を求めてくる。お隣さんの話を聞いた後ではあったから、確約を惜しむ理由などある訳がない。


振り返ることなく「分かってるよ」、と答えたところでもうひとつ所用を頼まれた。


実は萌の小学校入学準備に必要な書類がいくつかあり、その中には提出期限が今日のものも含まれていたんだ。


 千帆は重ねられた書類の中から記入の必要なものだけを上に差し替え下駄箱に置く。僕も内容だけは目を通していたので改めて読み直す必要もなかった。


 胸からペンを取り出し、サインを終えたところで行って来ますのキスをする。


 新婚当初ならともかく、この歳になってからのキスにはある意味義務感すら覚える。もう愛していないとかそういう話ではなくて、毎朝繰り返している内に身体に叩き込まれた「癖」のようなもので、愛を失わない為にも続けなければならないミッションだとも言えた。


勿論、僕は千帆を愛してる。


 いつも通り、いつもの時間に僕は家を出た。朝日が昇るまでいま少し。明るみを帯びつつある東の空を仰ぎ見てから、同じように出勤で家から出てきたお向かいの佐竹さんと挨拶を交わす。


「おはようございます」


「あぁ……おはよう」


 佐竹さんは僕よりもひと回り歳上で、勤めている外資系化粧品会社では営業部長の職に就いている。同じ営業職ということもあってなにかと愚痴を聞いて下さる良い相談相手だ。


 その佐竹さんの顔色が、正午からは雨になるだろうと予報される曇天の空と、同様の色をしていたことは彼の声調子からも容易に想像出来た。


ただし想像は出来たが、その理由を彼に尋ねるまでもなく、おそらく年度末の激務で疲れておいでなのだろうとの結論に至る。


実際、去年のこの時期も「連日の徹夜続きで倒れそうだよ」、と苦笑い交じりに仕事の話を聞かされていた経緯もあり、初めからそのように決めつけていた感も否めない。


それでも挨拶を終えた後の彼の顔には、いつも通りの柔和な表情が戻っていたので、僕の出した結論にまず間違いはなかったのだと思う。













 
























 

 


 



 


















































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