第四章 名無しの怪物
五年が過ぎ、十四歳になったアントニウスは王都イミリスノープルから程近い近郊に駐屯するニケフォロイ騎士団へ見習いとして預けられていた。形式だけの見習い期間だが、アントニウスはテオドロスと共に、騎士達と寝食を共にし訓練に励んだのだった。
その日も訓練を終えた騎士たちが食堂へ集まり始めていた。
汗臭い空気。乱雑な笑い声。皿のぶつかる音。
そんな中でアントニウスの目を引いたのは、一人の小さな影だった。
下働きの子供だが、その異形の姿は赤子の時と全く同じだ。
煤竹色の鱗。尖った耳。
小柄な体で、大人でも一苦労する重い水桶を両手に黙々と運んでいる。
「おい化け物。遅いぞ」
「さっさと片付けろよ。騎士様方を汚れた席に座らせる気か」
騎士たちが下卑た顔で笑う。子供は恭しく頭を下げ、黙って食卓を拭き皿を下げ、ごみを運び、再び水桶を抱える。
その様子を見てアントニウスは目を見張った。
「あの時の赤子か」
五年前。揺り籠で見た怪物。母を奪った存在。
当然処分されたと思い、近頃は思い出すことも少なくなっていた。
だが生かされていたのか。
あの時は、恐怖、怒り、憎しみしか沸かなかった。
今は別の思惑が先に立つ。
あれは使える。従順に躾ければ役立つかもしれない。
馬丁。護衛。あれだけの怪力があるなら、価値はある。
アントニウスは隣のテオドロスへ顔を寄せた。
「あれを手懐ける。手伝え」
テオドロスの眉間に皺が寄る。
「殿下。どのような危険があるか分かったものではありません」
「危険ならなおさらだ」
アントニウスは笑った。
「街中に野犬を見つけたら放置するか? 噛むかもしれないなら鎖を付けるだろう」
テオドロスは嫌そうな顔をしたが、アントニウスは構わずに、子供の背後に立った。
「おい」
子供がびくりと肩を震わせ振り返る。
そして慌てて膝をついたのだった。
「なにかごようでしょうか、おうたいしでんか」
アントニウスは眉を上げた。子供の舌足らずな口調だが、言葉は随分と流暢だ。五歳児とは思えない。
「私を知っているのか」
「おうたいしでんかをぞんじあげぬものは、このくにのたみでは、ありません」
「いっぱしに国民のつもりか。図々しい」
子供は黙った。ただ頭を下げる。
アントニウスは少し考えてから尋ねた。
「名は」
アントニウスは本当のところ、彼の名を母から聞いて知っていた。
だが周囲の騎士たちは、彼が王妃から産まれたと知らないのだ。
知られては面倒なので、初対面を装ったのだが、子供の返事は思わぬものだった。
「その......ばけもの、とよんでいただければ、さんじょうつかまつります」
アントニウスは顔をしかめた。
「質問に答えろ。名を名乗れ。無礼者」
子供は困ったように視線を泳がせた。そして小さく言う。
「......ありません」
「何?」
「なは、ございません」
アントニウスは言葉を失った。俄かには信じられなかった。
そんな馬鹿な。
誰かが教えているはずだと思っていた。母が付けた、あの名前を。
名のない人間などいるはずがない。
だが子供の顔に嘘はなかった。
本当に知らないのだ。自分の名前を。
その時。
「おい化け物!」
厨房から怒鳴り声が飛んだ。
子供がびくりと震える。
「何を怠けていやがる!」
「もうしわけありません!」
慌てて頭を下げる。
そしてアントニウスへ一礼すると駆けていった。
アントニウスはその後ろ姿を見送ったまましばらく動けなかった。
だがすぐに何かを思い立つ。




