第二章 母のいない部屋
王宮が、阿鼻叫喚に包まれた日のことを、アントニウスは生涯忘れなかった。
弟が生まれた日だった。
本来ならば祝福されるべき日だったはずだ。
だが、その産声が上がった瞬間から、王宮は恐怖と混乱に包まれた。
乳母が悲鳴を上げた。
侍女が失神した。
産室から飛び出してきた医師たちは顔面蒼白で、誰もまともに言葉を発することができなかった。
そして父王アレクシオスは、産室から運び出された赤子を見た瞬間、激昂した。
「これは何だ!」
怒号が石造りの回廊に響き渡る。
「何だこれは! 説明しろ!」
普段の威厳ある姿はどこにもなかった。
顔を真っ赤にし、唾を飛ばしながら怒鳴る父を見て、九歳のアントニウスは強い嫌悪を覚えた。
国の頂点に立つ者がこのように取り乱すなどあってはならない。
母は幽閉された。産褥期すら明けぬまま。
アントニウスはまっすぐ前へ進み出た。
「王妃の不貞を問うのであれば、まず証拠を揃えるべきです」
周囲が凍りつく。構わずに九歳の少年は続けた。
「裁判もなく断罪するのは法に反します」
イミリーシャは法治国家だ。王の感情で人を裁いてよい国ではない。
まして母は王妃である。不貞を疑うのであれば裁判を開くべきだ。それが正道ではないか。
正論である。
だが誰も何も言葉を返してくれなかった。父王も。大臣たちも。
やがて誰かが言った。
「殿下。お部屋へお戻りください」
「なぜだ。話は終わっていないぞ」
誰も反論しない。議論もない。ましてや説明など、あろうはずもなかった。
ただ子供だからと退けられた。
そのとき、アントニウスは理解した。
自分は今までずっと守られていたのだと。
大人たちは本気で相手をしていたわけではなかった。
王太子だから意見を聞いてくれていた。
賢いと褒めてくれていた。
だが本当に重要な場面になれば、結局九歳の子供など誰も相手にしない。
自分には何の力もない。
何一つ変えられない。
胸の奥に黒い絶望が沈んだ。
三日後。アントニウスが王妃の居室へ駆け込んだ時には、すべてが終わっていた。
家具は撤去されていた。
化粧台も。刺繍枠も。愛読していた本も。花瓶も。絵画も。
あの宝石箱も。
何もかもが消えていた。
そこにはもう母が存在した痕跡は、一切残っていなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……っ」
喉が詰まる。視界が滲む。床に膝をついた。
初めてだった。悔しくて泣いたのは。涙が後から後から溢れて止まらない。
何もできなかった自分が、どうしようもないほどに情けなくて。
その時だった。
「殿下」
静かな声が聞こえた。
振り返ると、若い侍従が立っていた。最近やってきた側仕えの青年だった。
テオドロス・メガラ。アンドロニコスより十歳上なのだという。
彼は何も言わなかった。慰めの言葉も。励ましも。
ただ隣に立っていた。それだけだった。
だがその沈黙は、不思議と心地よかった。




