第一章 - 約束
その日も、王太子アントニウスは母の居室訪問を乳母にせがんだ。
九歳になったばかりだが、利発で勇敢、国民人気も高くイミリーシャ王国の未来は明るいと言われている。
「殿下、王太子たるもの、いつまでもお母様に甘えてばかりではなりません」
乳母は困り顔でそう言った。
だがアントニウスは眉ひとつ動かさない。
「母上は臨月なのだぞ」
むしろ相手の非常識を指摘するような口調だった。
「男ならば身重の女性を気遣うのは当然だ。もし私が訪れなかった日に母上の体調が急変したらどうする。お前は責任を取る覚悟があるのか?」
乳母は言葉に詰まった。
いつものことである。
結局その日も、アントニウスは堂々と王妃の居室へ向かった。
王妃付きの女官が扉を開いてくれ、柔らかな笑みを浮かべたアイリーナが居間に迎えてくれるのも、いつもの光景だった。
「いらっしゃい、アントン」
いつものように抱きしめられる。
だがアントニウスは小さく首を傾げた。
「母上。お加減でもお悪いのですか」
アイリーナが瞬きをした。
「どうしてそう思うの?」
「少しお元気がないように見えます」
しばらく見つめ合ったあと、アイリーナはくすりと笑った。
「お前は何でもお見通しなのね、アントン。もしかして母様の予知能力が備わったのかしら」
「予知能力などなくても分かりますよ、母上のことなら」
アントニウスは胸を張った。
「悩みごとでしたら、お力にならせてください」
アイリーナは吹き出した。九歳の子供が言うにはあまりにも大人びた言葉だった。
けれどその真剣な表情が可笑しくて。そして愛おしくて。
しばらく笑ったあと、彼女はどこか悲しげに微笑んだ。
「大切なお友達と、最後のお別れをしたの」
「最後の?」
「ええ。もう私は会うことができなくなるから」
アントニウスは考え込んだ。
数秒ほど黙り込み、やがて顔を上げる。
「母上が会えないのなら」
小さな頭で精一杯考えた言葉だった。
「私はいずれ、そのご友人に会うことがあるかもしれません」
アイリーナの表情が固まる。
「もし会うことができたら、何か言伝てましょうか」
アイリーナは大きく目を見開いた。息子を見つめる。まるで初めて見る誰かを見るように。
やがて彼女は静かに笑った。
「そうね……」
声はなぜか、かすれていた。
「もしアントンが母様のお友達に会うことができたら、あまり苛めないでやってちょうだい」
彼女は少し考え、そう言った。
アントニウスは心外そうな顔をした。
「私が母上のご友人を? そのようなこと、致すはずもありません」
「まあ。そうかしら?」
「当然です」
アイリーナは両手を上げた。
「降参、降参」
そして息子を抱き寄せる。腕の中の体はまだ小さい。それでもこの子はいずれ大人になる。
自分の見通す、もっと先の未来まで歩いていくのだ。
「ねえ、アントン」
「はい、母上」
アイリーナは自らの大きなお腹を撫でた。そしてアントニウスの小さな手を取り、同じように撫でさせる。
「このお腹の子とも仲良くしてくれるかしら」
アントニウスはぱっと表情を明るくした。
「当然です」
迷いはなかった。
「王女なら私が守り抜きます」
そして少し得意げに続ける。
「王子なら、王太子の脅威にならない程度に鍛えてやります」
アイリーナは堪えきれず声を上げ、涙が滲むほど笑った。
ようやく笑いが収まると、静かに言った。
「この子は王子にはならないわ」
「では王女ですか?」
「いいえ」
アントニウスは首を傾げる。
「王女でもないけれど」
アイリーナはお腹に手を当てたまま微笑んだ。
「それでもアントン」
その声は不思議なほど真剣だった。
「この子を助けてあげて」
アントニウスは黙って聞いている。
「優しくして、そして仲良くしてくれるかしら」
王子でも王女でもない。そんな存在が生まれるなど聞いたことがない。
アントニウスは混乱した。けれど母がそれほど真剣な顔をして頼むのなら。
自分の答えは一つだった。
「お約束します」
彼は母の手を取り、その甲に口づけた。
アイリーナは微笑んだ。
その微笑みはどこまでも優しく、そして、悲しかった。




