第七章 綴り
少し離れた場所でテオドロスが待っていた。
「殿下」
彼は即座に言った。
「お手を」
「……」
アントニウスは黙ったまま右手を差し出す。
彼の手は真っ赤に腫れていた。
テオドロスは冷たく絞った布を取り出した。
「失礼します」
腫れた掌へ当てる。
アントニウスは顔をしかめた。
「……鉄仮面を殴ったようだった」
「龍の鱗は槍も矢も通らず、剣でも切れないそうですから」
アントニウスはぎろりと睨む。
「先に言え」
「それなら今からあの子供を殴るつもりだと、先に仰って下さい」
そんな冗談を言いながらも、テオドロスは背後の警戒を怠っていなかった。声をかけられる前に振り向く。
「あの」
アンドリだった。彼はおずおずと頭を下げる。
「おじゃまをしてもうしわけありません。おこえがけをおゆるしいただけませんでしょうか」
テオドロスはアントニウスの前へ立った。
「手短に。殿下はお忙しくていらっしゃる」
アンドリはさらに恐縮する。
「あの」
アントニウスはため息を吐いた。
「なんだ、アンドリ」
子供はぱっと顔を上げた。
少し迷ったが、思いきって質問を口にする。
「その、なまえは、いったい」
「貴様の出生記録に書いてあったんだから、貴様の名前に決まっているだろう。何を寝ぼけたことを」
アントニウスはふんぞり返って早口に告げる。
「では、ほんとうにおれのなまえなのですね」
怪物の子供、改めてアンドリは感動に言葉を震わせていた。
アントニウスは呆れた風を装って言った。
「私が嘘をついていると?」
「いえ!もうしわけありません。はじめてきいたものですから」
アントニウスはその言葉には応じなかった。
「ほかには」
「つづりをしりたいのです」
「綴り?」
「はい。おれは、じがよめませんので」
アンドリは申し訳なさそうに俯いた。
アントニウスはしばらく考えた。
「枝を拾ってこい」
そしてその場にしゃがみこむとアンドリが拾ってきた小枝を地面に走らせた。
アンドリもしゃがみこんで、食い入るように見つめている。
やがて書き終える。
「これだ」
そしてアントニウスは一文字ずつ教える。
アンドリはその文字を何度もなぞった。
日が傾く頃にはようやくそれらしく書けるようになっていたが、アントニウスはすっかり疲れてしまった。
「おい、いつまで繰り返すんだ」
「も、もうしわけありません」
アンドリは地面の文字を見つめたまま言った。
「きえてしまったら、にどとかけないかもしないとおもい......」
「ふむ、そうか」
アントニウスは少し考えそれから少し待っていろと申し渡して立ち上がる。
戻ってきたアントニウスの手には羊皮紙があった。自分が手紙を書くときの為の物だが、その中央に大きく、さらさらと文字を書いてみせる。
アンドリ・チェイレイ。
乾かしてから、羊皮紙を差し出した。アンドリは固まる。
「こ、こんなこうかなもの、いただくわけには」
アントニウスは肩を竦める。
「もう書いてしまった」
「ですが」
「いらんなら捨てるぞ」
アンドリは慌てて受け取った。夢でもみているような眼差しだったが、同時に、夢から覚めたら消え失せてしまうのではないかと心配するようでもあった。
アントニウスは鼻を鳴らして少し笑う。
「くれぐれも慎重に扱え。貴様の給金一年分でもこの一枚は購えん」
アンドリが息を呑む。
そして付け加えた。
「きっちり書けるようになっておけよ。わかったなアンドリ」
アンドリは羊皮紙からアントニウスに目を移した。
「はい......! ありがとうございます!」




