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ひきこもり公爵の花嫁候補は溺愛を望まない

作者: 青砥アヲ

「ねえエステル、このドレスどう?今夜のハンツ家のパーティーに着ていくのよ」


 そう言って、姉のマリアンヌがドレスの裾をつまんで一回転する様子を、エステル・フレイシアは床の掃除をしながら見つめていた。


 ワインレッドのドレスはがっつりと胸元が開き、ドレスは足首が隠れる長さではあるものの、膝から下は生地が薄く透けている。


 どちらも最近のトレンドを取り入れた作らせたオーダーメイドらしいけれど、色気というより下品さが際立つ。


 伯爵家の令嬢がこのドレスで侯爵家のパーティーに行くなんて、エステルは正気とは思えなかった。思わず眉をひそめてしまう。


「……確か今日はガーデンパーティーなのですよね?今の季節は肌寒いですし、もう少し露出が控えめなドレスにするかストールを羽織ったほうがよろしいのでは?」


 はっきり言って趣味が悪い。


 そう言いたいところをオブラートに何重にも包んで伝える。

 が、マリアンヌはあからさまに顔をしかめてエステルを睨みつけた。


「はぁ…アンタに聞いたのが間違いだったわ」


 エステルはマリアンヌの睨みを受け止めながら、心の中でゆっくりと息を吐いた。


(最初から聞く気なんてなかったくせに)


「あら、どうしたのマリアンヌ?」


「お母さまっ!」


 ちょうど部屋に入ってきたのは、母のイレーネだった。

 マリアンヌはすぐさまわあっと泣きつく。


「聞いてお母さま、エステルったらせっかくオーダーメイドで作らせたこのドレスを着替えたほうがいいって言うのよ!自分はパーティーに呼ばれていないからって私のことを妬んで酷いことばかり!」


 いや、そうではない。


 むしろ姉が恥をかかないよう助言したつもりだったのだが、まるで伝わっていないらしい。


「まあっ、あんな子の言うことを気にしちゃだめよ。とってもよく似合ってるわマリアンヌ。さすが私の自慢の娘よ」


「お母さま嬉しい!」


 イレーネの言葉に、マリアンヌは勝ち誇ったように笑う。


 目の前で繰り広げられる三文芝居に、エステルはため息しか出てこない。


 昔からそうだ。

 母のイレーネは姉妹の姉マリアンヌだけを溺愛している。エステルはいつも姉と比較され、虐げられてきた。


 この家では姉がいつも正しくて、姉の言葉が絶対。だから何を言おうが、結局はいつもエステルが悪者で終わる。


「ねえアリー、このドレスに合う宝石を早く出してきて。それからエステル、早く髪を結ってちょうだいよ!」


 エステルは侍女たちが忙しそうに動き回る姿を横目に見ながら、マリアンヌの髪を整えていく。


 小さな頃は、エステルにも世話をしてくれる侍女がいた。

 けれどある日、母と姉が相談する姿を見かけた次の日には姉の侍女になり、エステルの世話をする者は誰もいなくなった。


「これでいいですか?」


「えぇいいわ。アンタって髪を結うセンスだけはあるわよね。伯爵家の令嬢よりそのほうがお似合いよ?」


「…そうですか」


エステルの感情のこもっていない返事に、マリアンヌは興がそがれたようにフンと鼻を鳴らす。


「ほんと、アンタって私の妹って感じがしないのよね。もっと素直でかわいいお人形みたいな妹が欲しかったのに」


 派手を好み、何でも自分が一番でないと済まないマリアンヌ。

 一方のエステルは、注目を集めることが苦手だった。


 エステルは、お人形遊びなんかより外をかけ回るのが好きだった。

 本もお姫様が幸せになるおとぎ話よりも、少年や海賊がお宝を目指して冒険する話にわくわくしていた。


 エステルとマリアンヌは、まるで性格も趣味も違っていたのだ。


「おいおいマリアンヌ。パーティーはいいが、あまり遅くならないでくれよ?明日はミルデンブルグ公爵との顔合わせを兼ねた晩餐を予定しているのだから」


 イレーネに続いて部屋に入ってきた父・アーデルが困ったように肩を竦める。


 そう、マリアンヌにはもうすぐミルデンブルグ公爵との縁談が控えているのだ。


「お父様、私イヤよ!ミルデンブルグ家なんて『()()()()』のお情けで成り上がった新興公爵家じゃないの。私は由緒正しい家に嫁ぎたいの」


「そうは言っても…ミルデンブルグ家は力があるし、お前だって公爵家に嫁ぎたいと言っていたじゃないか。これでも苦労してようやく縁談を受けてもらったんだぞ?」


「でもあの『ひきこもり公爵』でしょう?社交界どころか王宮にもほとんど姿を現さないって有名なのよ?」


 あぁ、またあの話か。


 エステルは気分が悪くなって、話を耳に入れないようそそくさと部屋を出ようとドアノブに手をかける。


「あらエステルどこへ行くの?」


「ちょっと外の空気を吸いに…」


「あらそう。いつも思ってたけど、そんなみすぼらしいダサいワンピースでよく恥ずかしげもなく街を歩けるわよね」


 マリアンヌは嘲りの言葉とともに鼻で笑った。


 エステルは、ちらりと鏡に映る自分の姿を見る。

 マリアンヌは豪華なオーダーメイドのドレスを纏い、宝石のついた首飾りを揺らしている。


 一方の自分はというと、青のワンピースは何度も洗濯を繰り返し、生地は少しだけくすみ毛羽立っている。いつものことながら姉とは対照的だった。


 それでも――マリアンヌのようになりたいと思ったことは一度もないけれど。


 エステルは何も答えないまま、部屋を後にした。


 この家では姉が主役。

 エステルはただの背景のような存在。


 この家で誰にも必要とされないなら、どこか別の世界へ行きたい。


 できることなら、どこまでも遠くへ。





 エステルには最近お気に入りの場所がある。

 王立博物館の地下に設けられている、図書閲覧室だ。


 この場所に足を踏み入れるたびに、ひんやりとした空気が肌を撫でる。

 地下の静けさと、古びた本の匂い。


 ここには誰の目も気にせず、本の世界に没頭できる自由がある。

 エステルにとってこの場所は『逃げ場』であり、また『夢への一歩』でもあった。


 いつものようにエントランスの横にある大きな螺旋階段を地下に降りていくと、エステルに気づいた係員がニコリと笑顔を向けた。


「今日もいらっしゃいましたね、エステル嬢」


 ほぼ毎日通うエステルは、図書閲覧室の係員とすっかり顔なじみになっている。


「けれど残念でしたね。今日の一番乗りは別の方です」


 先客がいるとは珍しい。


 博物館の地下にあるこの図書閲覧室は、とにかく訪れる人が少ない。


 王立図書館とは異なる、ややマニアックで偏りのある蔵書がそろっていることもあり、エステルはそこも含めて好きだった。


「どなただと思います?きっと名前を聞いたら驚かれますよ」


「そうなんですか?でも私にはきっとわからないわ」


 係員のどこか浮き足だった言葉もそこそこに、エステルは入室証を見せて中へと入る。


 静寂に包まれた図書閲覧室に、こつこつと自分が歩く靴音だけが響く。


 エステルは、何気なく手に取った世界地図の本を持って椅子に座った。


 エステルは古い地図帳のページをそっとめくり、未知の国々の輪郭を指先でなぞる。

 その先にある冒険を夢見て、彼女の心は密かに高鳴っていた。


 (いつかこの足で世界を歩いてみたい…)


 エステルは小さく呟き、ページに描かれた海を見つめた。

 十八歳になった今も彼女の夢は変わらなかった。


 エステルは姉のマリアンヌのように結婚は望んでいない。

 それよりも諸外国の情勢や歴史を勉強して、いつか自分も外国に行ってみたい。


 家を出て、世界を旅する自由。


 それが彼女の望みだった。



 けれど、そのためにはお金がいる。


 もしも姉の結婚が決まれば多くの持参金が必要となるに違いない。自分が家を出る時は、ほぼ何も持たせてもらえないだろうと分かっていた。


 だとしたら、自分で稼ぐしかない。


 外国で、伯爵令嬢としての身分は捨てて働く。


 そのためには『語学』が一番に必要になる。


 エステルはそのために、独学で王国周辺の諸外国の言語を勉強していた。

 日常会話レベルなら四か国語は喋れるようになっている。



 エステルは地図帳を元の場所に戻すと、本棚の間を歩く。

 さて次は何を読もうか。


(これ、ずっと読みたかった本……)


「あ…っ」


 そのとき、同じ本を取ろうとして指が触れ合った。


「すみません…!」


 そうだった、今日は先客がいるんだった。


 いつも誰もいない図書閲覧室で自由気ままに使わせてもらっていたのが日常になっていて、つい誰かがいるということを忘れていた。


 驚きで手を引っ込めたエステルは、隣りの人物を見上げる。


「こちらこそすまない」


 そう言って、本棚から抜き取ったお目当ての本をエステルに差し出してくれる。


 綺麗な、銀髪を束ねた美しい青年だった。


「あなたもこれを読まれるのでは?」


「いや、ただ何となく目に留まっただけで、どうしても読みたかったというわけではないから」


 ふと、目の前の青年の視線がわずかに鋭くなる。

 けれどそれはほんの一瞬で、その表情はすぐに消え、彼は何事もなかったかのように言った。


「そうなんですか…では遠慮なく、ありがとうございます」


 お礼を言ってエステルが本を受け取った――そのときだった。



「レイン様!レイン様こちらですか!!」



 本来ならば水を打ったように静かな図書閲覧室で、ひと際大きな声が響いた。

 あまりの大声に驚いて、エステルは思わず本を落としてしまった。


「そちらにいらっしゃるのですか!?」


 エステルが慌てて落とした本を拾うと、反対の腕をぐんっと強く引っ張られる感覚に体がよろめく。


「こっちへ」


(えっ、ちょっと待っ――!?)


 彼の手は思った以上に力強く、抗う間もなく引き寄せられる。

 そして、気づけば本棚の奥へと隠れるように押し込められた。


 背中には壁、横には本棚、目の前には銀髪の青年――と、エステルは四方から囲まれる形になる。


「あ、あの、もしかしてあの人から逃げているんですか…?」


「静かに」


 耳元で響く有無を言わさない冷静な声。

 気づけば、彼との距離がありえないほど近い。


 彼の手はまだエステルの腕を掴んでいて、その体温がじんわりと伝わる。

 逃げるには狭すぎる空間。


 この距離で動けば、確実にぶつかる。


「レイン様、こちらですか!?」


 先ほどの声の主が戻ってきたらしい。

 こちらへ向かってツカツカと足音を立てて近づいてくる。


 ちっ、と耳元で舌打ちが聞こえたかと思うと、次の瞬間青年の手がエステルの背中に回り、ぎゅっと体が密着する。


「あああああのっ…!?」


「黙って」


 強い制止の言葉に、エステルは口を噤むしかない。


「おや、確かに音がしたと思ったのですが…いったいどちらに行かれたのか…」


 男性の声と足音が遠ざかっていく。


 しばらく図書閲覧室内を探し回る音や声がしていたものの、やがて図書閲覧室の重厚な扉が閉まる音が響いた。


 おそらく先ほどの男性は図書閲覧室を出て行った。

 それでもまだ警戒しているのか、エステルの背中に回った腕が緩む気配がない。


「あの、もう大丈夫だと思いますよ…?」


 エステルは少し身じろぎをしながらそう告げて、青年の顔を見上げる。


 すると、目の前の銀髪の青年は、なぜか驚きの表情を浮かべていた。



「どうして――ないんだ?」



(……え??)



 よく聞き取れなかった。


 いや、もしかしたらこの青年自身、自分が声に出していたことに気づいていないのかもしれない。


 エステルは動揺して思わず一歩後ずさるも、再び腕を掴まれる。


 銀髪の青年はエステルを射抜くように正面から見据えると、はっきりとした口調でこう告げた。



「君は、いったい何者だ?」



 何者―――


 それはどういう意味だろう。


 名前を聞かれているのか、それとも身分を聞かれているのか。


(……私って何なんだろう)


 あまりに直接的で、それでいてどこか曖昧な問いにエステルはひどく揺さぶられた。

 いつも感じていた、自分の居場所がここではない感覚が押し寄せる。


 ずっと考えないようにしていたのに。


 姉とは違う自分。

 家族ともどこか噛み合わない、居場所がない。


 心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。


「すみません、失礼します……!」


 ほぼ反射的にそう言って、エステルは図書閲覧室を飛び出していた。






 その日の夕方。

 太陽が西へと傾き始めた頃、フレイシア家の屋敷に重々しい馬車が止まった。


 家紋の刻まれた馬車の扉が開き、恭しく姿を現したのは、ミルデンブルグ公爵家の使者だった。


「ミルデンブルグ公爵家より、正式な婚約の申し入れをお届けに参りました」


 使用人の報告を受けてフレイシア家の家族が揃う。

 屋敷の応接間に入った使者は、厳かに手紙の入った封筒を差し出した。


 ミルデンブルグ公爵家とフレイシア家の縁談は以前から進められていたし、婚約の申し入れが来るのは時間の問題だった。


「ついに正式に決まったのね!」


 イレーネが嬉しそうな笑みを浮かべる。


 マリアンヌは少し憮然としていたものの、公爵家からの婚約申し込みは悪くないと思い始めていた。


 もしも気に入らなければ断ってやればいいだけのこと。

 それでも、公爵家から結婚を申し込まれたとなれば今後の縁談にも箔がつく、とマリアンヌは考えていた。


 だが——


 フレイシア家当主であるアーデルが、受け取った書状に視線を走らせる。


 次の瞬間、その手がわずかに震える。

 表情が驚きと戸惑いに揺らいだ。


「……これは、本当にミルデンブルグ公爵家からの申し出なのか?」


「はい、間違いなく公爵家より正式な書状です」


 使者が肯定すると、応接間の空気が少し張り詰める。


 アーデルはゆっくりと視線を上げ、信じられないとでも言いたげに口を開いた。



「婚約の申し入れはマリアンヌではなく……エステル宛てだ」



 その一言が、応接間の空気を凍りつかせた。

 部屋の中に沈黙が落ちる。


 言葉の意味を理解するまでに、数秒の間が必要だった。



(……どういうこと?私……?)



 エステルは驚きに目を見開く。



(……私が、公爵家の婚約者?そんなこと、あるはずがない……!)



 その一方で、マリアンヌの表情はみるみるうちに青ざめて強張っていく。

 まるで、自分の世界が突然ひっくり返されたかのような顔だった。


「どういうことですの!?それは何かの間違いでは?」


 イレーネも動揺を隠せないまま使者へと詰め寄った。


「いいえ、正式な申し入れでございます。公爵閣下は『次女のエステル様との婚約を希望する』と、確かにおっしゃっておられます」


(どうして……?)


 ミルデンブルグ家からの使者が立ち去った後も、フレイシア家の応接間は静まり返り異様な雰囲気のままだった。


 それを打ち破ったのは、マリアンヌだった。


「よかったわね、エステル」


 突然、マリアンヌが微笑んだ。

 余裕のある、いや、それを装った笑みを浮かべて。


「この家でずっとお荷物みたいに扱われていたあなたにようやく『居場所』ができたってことじゃない?しかも相手があの『ひきこもり公爵』だなんて。あなたにお似合いだわ」


 あざ笑うかのようなマリアンヌの言葉に、エステルは何も言い返さなかった。






 朝日が窓から差し込み、フレイシア家の庭に馬車が停まる。

 黒い塗装が施された威厳ある馬車は、ミルデンブルグ公爵家の紋章を掲げていた。


 エステルの荷物は最小限だった。


 馬車を見た母イレーネと姉マリアンヌは、「これで厄介払いができた」と言わんばかりの態度でエステルを見送る。


「せいぜい、良き公爵夫人になれるよう頑張ることね?」


 マリアンヌは、最後まで皮肉げに微笑んでいた。

 イレーネは形式的な言葉をかけることすらしなかった。


 エステルは何も言わず、馬車に乗り込む。

 窓から見えるフレイシア家の屋敷が遠ざかるにつれて、心の奥に小さな安堵が広がるのを感じた。


 (……これでいいんだ)


 これから先のことは分からない。

 けれど、ここにいるよりはきっと自由になれるはず。


(私に婚約を申し込んだ『公爵』はどんな人なのだろう?)


 社交界にもほとんど姿を見せない。

 『ひきこもり公爵』と揶揄される謎めいた人物。

 

 それ以上のことは何も知らなかった。



 馬車がミルデンブルグ家の敷地に入ると、風景が変わる。


 フレイシア家とは違う壮麗な城館。

 重厚な扉の前に使用人たちが整列し、出迎えの準備をしていた。


 やがて馬車が止まると扉が開かれる。


「お待ちしておりました、エステル様」


 執事の低い声が響いた。

 エステルは深く息を吸い、ゆっくりと馬車を降りた。


 案内された応接室は、重厚ながらも無駄のない設えだった。

 濃紺のカーテンに深い木目の家具。大理石のテーブルの上には白い花が生けてあるだけ。


 静かなその部屋の中で肘掛け椅子に腰かけていた青年が、エステルの姿を見るなり立ち上がった。


 ——その姿を見て、エステルは息を呑んだ。


 昨日、図書閲覧室で出会ったあの青年。

 銀髪に銀灰色の瞳。

 突然エステルの手を引き、声を潜めて隠れた相手。


 静かな声と真っ直ぐな視線、そしてあの問いかけ。



(まさか……彼が……)



 驚きで足が止まる。



 レイン・ミルデンブルグ公爵。


 そう呼ばれている人物が、まさか彼だったとは。



「どうぞこちらへ」


 図書閲覧室での様子とは打って変わって、今の彼は貴族としての威厳と落ち着きを纏っていた。


 エステルは戸惑いながらも、促されるままにまた一歩ずつ歩みを進める。


 彼の瞳はじっと自分を見ていた。

 静かな湖面のように凪いでいるのに、どこか探るような光が揺れている。



「突然の申し入れで驚かせてしまったかもしれないが、君をミルデンブルグ公爵家の婚約者として迎えたい」



 言葉は整っていたが、それでもストレートで重みのある申し出だった。


(でも、私たちは昨日ほんの数分、会話しただけなのに……)


「……どうして私なのですか?」


 気づけば、声が漏れていた。

 目の前の人物は、昨日初めて出会ったはずの相手。

 それなのに、どうして――?


 彼は、答えをすぐには口にしなかった。

 沈黙が、室内の静けさをさらに深くする。


 やがて、レインはゆっくりと目を伏せ、わずかに首を横に振るようにして呟いた。


「……本当は、もっと理由らしい理由が言えたらよかったんだが」


「……?」


「昨日、君と出会ったとき——直感的に、これは機会だと感じた。詳しく説明ができないが、そう思ったんだ」


「直感で婚約を決めるなんて……随分と無謀ですね」


 レインは、ふっと笑った。


「君もそう思うか……だが、それでも俺は確かに“君でなければ”と思った。それが昨日の出会いでも、ほんの一言二言しか交わせなかったとしても」


 その言葉には、どこか自嘲が混じっている。


「何か、事情がおありなんですね…?」


 レインはその言葉に一瞬だけ考えるような間を置いて、ゆっくりと口を開く。


「……来月、王宮で国王主催の晩餐会がある。君も“ひきこもり公爵”の噂は聞いているだろう?」


「はい。少しだけ……」


「俺は社交の場を避けている。だが国王主催ともなればそうもいかない。あれこれと『お相手候補』を用意されるのは……正直、勘弁願いたい。それを避けるためにも、」


 エステルはすべてを察した。


「表向きの婚約者が必要だった?」


「そういうことだ」


 エステルは目の前の青年が真実を隠さず語っていることに、少し驚いていた。

 きっと彼なら、この場限りのもっと飾った言葉も使えただろうに。


「つまり、誰でもよかったということですか?」


 その問いに、レインは一瞬だけ表情を動かした。

 銀灰色の瞳がすっと揺れる。


「……違う。君でなければ意味がなかった。君だからこそ、俺はこうしてここに立っている」


「どういうことですか…?」


「興味を持った。君に」


(興味……?)


 それは好意のようでもあり、まるで『研究対象』に向けるような言葉にも聞こえた。


 その言葉に、胸の奥がちくりと痛む。

 何かを期待してはいけないと思っていたのに、ほんの少し、何かが揺れてしまった気がした。


 エステルは、ほんの少しだけ目を伏せる。



「……分かりました。承諾します」



 レインの表情に、わずかな驚きと安堵が浮かんだ。


「……でも一つ、条件があります」


 エステルは勇気を振り絞って続けた。


「……私の夢を、尊重してほしいんです」


「夢?」


「はい。私には……いつか世界を旅して、さまざまな国の文化や言語を学びたいという夢があります」


 今までフレイシア家を出たいと思ってきたのは、ただ逃げたいからじゃない。


 もっと外の世界をこの目で見たいから。

 この世界をもっと知りたいからだ。


「でも結婚はそれを妨げるかもしれない。だから、契約のような婚姻がいいのです。お互いを縛らず、尊重し合う関係で」


 少しの沈黙が落ちた。

 レインはまっすぐにエステルを見つめている。


「……君のその夢を否定するつもりはない。むしろ、俺にとっても意味のあるものかもしれない」


「と、言いますと?」


「俺は王宮官僚として外交に関わる職に就いている。だから、君の夢はむしろ後押しになるかもしれない」


 まさか、そんな言葉が返ってくるとは思っていなかった。



(……この人は、想像していたよりずっと誠実なのかもしれない)



 エステルは、そっと口元を緩めた。



「それなら……よろしくお願いします、公爵様」


「レインでいい」


 彼は、わずかに目を細めて微笑んだ。


 その笑みは、どこか安心したようで、それでもまだどこか探るような色を残していた。



 ——こうして始まった二人の婚約。


 それはまだ、お互いを何も知らないまま交わされた、“静かな契約”だった。


 だがこの出会いが、やがて二人の運命を大きく動かしていくことを、エステルはまだ知らなかった。




ここまでお読みいただきありがとうございました!


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