忍びよる暗い影
昼休みの中庭。
アメリアは本を手に、人気の少ない石造りのベンチに腰を下ろしていた。
リリアの忠告を受けて以来、アメリアはエイベルとマクスウェルの二人との距離を、より意識してあけるようになった。
ページをめくる手は、先ほどから一向に進まない。それでもぼんやりと文字を眺めていると、聞き慣れた柔らかい声が落ちてきた。
「また独りでいるのですか、アメリア」
驚いて顔を上げると、そこにはエイベルがいた。
美しい微笑み。しかしその奥に、かすかな悲しみと寂しさが揺れている。
「エ、エイベル……」
「最近、元気がありませんこと。私まで沈んだ気分になってしまいますわ」
エイベルはツンとした表情を作りながらも、アメリアの隣に腰を下ろした。
その距離は、以前よりほんの少しだけ遠い。
(エイベルまで……優しくしてくれる……)
胸が締め付けられる。
「あなたには感謝しているの。あの殿下の誕生日パーティーの日、友達になろうと言ってくれて……本当に嬉しかったわ。
殿下もそうよ。あの人はずっと人を遠ざけていたのに……あなたといる時だけ、少しだけ、昔の彼に戻ったみたいだったわ」
懐かしむように目を細めるエイベル。その横顔は、幼い頃からマクスウェルと積み重ねてきた時間を思わせた。
「……アメリア。あなたは、私たちの世界を照らしてくれた光よ。
だから今みたいに独りで沈んでいるあなたを見るのは……正直、つらいわ」
その言葉にアメリアは息を飲む。胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「ごめんなさい……エイベル。わたし……」
言葉が見つからず、唇が震える。
(だめ……言ってしまえば、きっと傷つけてしまう。
婚約破棄のことも、マクスウェル殿下に想いを寄せてしまったことも……)
葛藤するアメリアを見て、エイベルはふっと微笑んだ。
「あのね、あなたが私を救いたいと思ってくれていることは分かるわ。
でも、“婚約破棄”は私も望んでいることなの。今は詳しく話せないのだけれど……とにかく心配しないで」
アメリアは目を見開いた。
「エイベルが……望んでいること?」
「ええ。——それとも、私が王太子妃にならなければ何もできない人間だと?」
軽く睨むような、しかしどこか茶目っ気のある瞳。
その冗談に、アメリアの表情がわずかに緩んだ。
詳細は分からないが、エイベルが婚約破棄を前向きに捉えていることだけは伝わった。
マクスウェルに利用されていると聞かされた時の痛みはまだ胸に残っているが、それでもエイベルが自分を気にかけてくれていることが救いになった。
「それに——」
そこでエイベルは、ほんの一瞬だけ周囲を一瞥した。
風が止まったように、空気が張りつめる。
「悩みを一人で抱え込むのはやめてね。
最近、学院の外で妙な噂がありますもの。……あなたを独りにするのは、少しばかり心配ですわ」
その声には、わずかに鋭さが混じっていた。
アメリアは息を呑む。
「え……何かあったの?」
「いいえ。ただの噂よ。ただ、胸騒ぎがするだけ」
エイベルは優雅な微笑みを浮かべると、そっとアメリアの肩に手を置いた。
「さ、戻りましょう。あなたをここにひとり残すと、殿下に叱られてしまいますわ」
*
その頃——学院から程近いロゼティーナ家の屋敷。
当主であるエイベルの父、ライナーの執務室には、いつになく張り詰めた空気が漂っていた。
「……おかしい。金の流れが鈍すぎる」
低く掠れた声でライナーが呟く。散らばった書状を荒々しく掴み上げ、机に叩きつけた。
隣に控える夫人も青ざめた顔で口を開く。
「あなた……王家に勘づかれているのではなくて?
だから裏金の流通経路を止められているとか……記録は全部、処分したのでしょう?」
「すべて燃やした。抜けはないはずだ」
だが、その声はわずかに震えていた。
——王宮の監察官が、密かにロゼティーナ家の支出を調べているらしい。
そんな噂が、最近頻繁に耳に入る。
夫人は唇を噛み、後ろに控える執事へ問いかけた。
「それに……婚約の話が“保留”になっているというのは、本当なの?」
「信憑性の高い情報です。殿下から正式な書面は届いていませんが……王宮に忍ばせた“影”から、そう聞きました」
「そんな……長年決まっていた婚約なのに。いったいどうして……?」
「それが分かれば苦労はせん!」
ライナーは苛立ちを露わに机を叩いた。
「だが、ひとつだけ確実なことがある。
保留の原因は——あの娘だ。アメリア・ヴィスカルノだ」
夫人の顔色が変わる。
「つまり……殿下が彼女に心変わりを?
それで、エイベルとの婚約を破棄するつもりだというの?」
「可能性はある。となれば——」
そこで言葉は途切れた。
だが夫婦の頭には、同じ“策”が浮かんでいた。
それはエイベルを守るための策ではない。
自分たちの罪を隠し通すための、追い詰められた獣の本能的な案。
アメリアという存在を、利用し、処分するための。
*
数日後。
アメリアは夕刻前の学院の図書館にいた。前に借りた本を返すためだ。テストまでにまだ日があるため、館内にほとんど人影はない。
ふと、誰かの視線を感じて振り返る。しかし、周囲には誰もいない。
(気のせい……?)
そう思い直して棚に手を伸ばした、その瞬間——。
背後で衣擦れの音がした。
息をのみ、ゆっくりと振り返る。
だが誰もいなかった。開いた窓から、冷たい風だけが流れ込む。
(……怖い。最近、誰かに見られている気がする)
不安が胸の奥で膨らんでいく。
「エイベルに……相談した方がいいのかな」
自分でも驚くほどかすれた声が、静かな図書館に落ちた。
そのとき、別の方向から足音が近づいた。
棚の間から現れたのは、マクスウェルの弟、レオンだった。
「アメリアさん。お久しぶりです」
朗らかな笑みを浮かべてはいるものの、その藍色の瞳——兄と同じ色を宿した眼差しには、かすかな疲れが滲んでいた。
彼はアメリアが転校して間もなく他国へ留学し、つい最近戻ってきたばかりだ。そのため、直接の関わりは多くない。しかし、エイベルと一緒にいる時は、よく気さくに声をかけてくれた。
ここしばらくはエイベルと距離を置いていたせいで、レオンとも話す機会が自然と途絶えていたのだが。
久々とはいえ知り合いの顔を見て、エイベルの胸に安心感が広がる。
「お久しぶりです。レオン様も、何かご用が?」
「僕は生徒会役員として見回りを……最近、学院の外で不審者を見かけたという話があって。
ただの噂かもしれませんが、お気をつけください」
「不審者……?」
「気にしすぎかもしれません。ただ、念のため」
それだけ言うと、レオンは軽く頭を下げて去っていった。
しかしその声に宿る緊張は、ただの噂話とは思えないものだった。
アメリアは胸元を押さえ、そっと息を呑む。
(何か……大変なことが起きている気がする……)
それは、嵐の前触れのような静かな、そして確信めいた予感だった。




