三人の誓者
これから何か恐ろしいことが起こる気がして、エイベルは息を呑んだ。
そして、また龍像の目の光が強まった時——空気がふっと変わった。
「……?」
アメリアは、辺りを見回した。
頭の奥にかかっていた、薄い霧のようなものが、急激に晴れていくような感覚。
エイベルの登場により、誓いが中断されたためであろうか。龍の誓いの空間に呑まれてしまっていた意識が、少しずつ戻ってくる。
つい先ほどまで、思考の輪郭が曖昧で、何かを考えようとしても、するすると零れ落ちていたのに——
(……私、ここで何を……)
視界が、やけにはっきりしている。
冷たい石の床に刻まれた、白く光る龍の印。
祭壇の前に立つ、ライナー。
そして——
「……エイベル?」
喉の奥でなんとか絞り出した声は、掠れていた。
(どうしてここに……?)
頭の中に記憶の波が流れ込んでくる。
馬車の中で感じた違和感。
誓いの内容を「確認する」はずなのに、肝心なところだけが妙に曖昧だった。
一つ目の誓い——マクスウェル王太子とエイベル・ロゼティーナの婚約が再度結ばれるよう、それを目的としたライナー・ロゼティーナの指示に全て従う。
その時は、これから始まる誓いへの不安が大きく、深く考えられなかった。
元婚約者同士である二人の時間を増やすために、自分が身を引く。ただそれだけのことだと、思わされた。
今なら、はっきりとわかる。
(“全て従う”って、何?)
とても曖昧で、全てを含むような言葉。少しでも彼らの婚約が有利になるような内容であれば、アメリアは従わなければいけない。
たとえ、命を絶て、と言われたとしても。
そして、二つ目。
——この誓いを結んだことを、この場にいる者を除き、誰にも言ってはならない。
アメリアが訝しんだのを瞬時に察知したライナーは、穏やかに微笑んで言った。
「混乱を避けるためですよ。余計な誤解を生まないように」
その言葉に、有無を言わせない響きがあり、思わず頷いてしまった。
でも、それは配慮なんかじゃない。逃げ道を塞ぐための強制的な沈黙だ。
そして何より——ライナー自身の誓い。
ヴィスカルノ家及びエイベル・ロゼティーナを“救う”ために尽力する。
(……“救う”?)
あまりにも、抽象的だ。
何をもって救いとするのか。
誰の価値観で、誰の未来を?
ライナーの考える「救い」が、エイベルやヴィスカルノ家にとっての救いになるとは限らない。
ヴィスカルノ家に罪を押し付けた上で、量刑を軽くしようと働きかけることも、エイベルの自由を奪って望まない婚姻を結ばせることも、彼が「救った」と言えば、それで成立してしまう誓い。
(……都合が、良すぎる)
疑問を抱いた途端、「気にしなくていい」と流され、納得した“つもり”にさせられた、強烈な違和感が大きく膨らんだ。
私は、対等に誓いを結んだのではない。
相手にとって都合の良い言葉で、一方的に縛られただけだ。
「——誓いは、聞き届けられた」
証人が厳かに宣言した。しかし、その響きはさっきまでとは明らかに異なっていて。
全員が一斉に、彼へ目を向けた。
黒いマントに包まれたその身体が、かすかに震え——次の瞬間、不自然なほど滑らかに背筋を伸ばした。
「……っ」
ぞわり、と背中を冷たいものが走る。
証人の口が動いた。いや、何かに支配されたかのように動かされた。
「血を捧げし者、アメリア・ヴィスカルノ」
声は、確かに証人のものだ。しかし、そこに人間味はない。
「血を捧げし者、ライナー・ロゼティーナ」
石壁が、共鳴するように低く唸る。
「血を捧げぬまま、名を刻まれし者——
エイベル・ロゼティーナ」
「……え?」
エイベルが、自分の足元を見下ろす。
アメリアは力の限り叫んだ。
「やめて!!エイベルは関係ない——!」
言葉は、最後まで届かなかった。
床を走る光が立ち上がり、エイベルを包み込む。
「汝は、誓いの核として認識された」
証人の首が、ぎちり、と傾く。
その瞳は白く濁り、焦点を結んでいない。
(……龍が、見てる)
アメリアは、はっきりと理解した。
この声は、証人のものではない。龍そのものだ。
「血の欠落は、代償によって補われる」
エイベルの胸元が、淡く光った。
「代償を、宣告する」
「汝の目覚めの息吹——眠りから覚め、未来を選ぶための力を、誓い果たされるその時まで龍が預かる」
「な……に……?」
エイベルの瞳が揺れた。
次の瞬間、その身体から力が抜ける。
「エイベル!!」
鈍い音を立てて、彼女は床に崩れ落ちた。
アメリアは彼女の元に駆け寄ろうとするも、鎖に繋がれたようにその場から体を動かせない。
呼吸はある。しかし、その瞼は固く閉じられたまま動かない。
「……くそっ、想定外だ」
低く、苛立ちを含んだ声が響く。
ライナーだった。
その声には、娘の様子を心配する響きはない。
「核が眠りについた以上、誓いは未完了だ」
証人——龍の媒体が、ゆっくりと呟く。
それに呼応するように、龍像が、軋んだ。
その時、礼拝堂の扉が激しく開かれた。
「全員、動くな!!」
鋭い号令。
冷たい夜気と共に踏み込んできたのは、王家の紋章を掲げた騎士たち。
先頭に立つマクスウェルが状況を一瞬で把握する。
「……間に合わなかったか」
「殿下……!」
アメリアの声は、震えていた。
護衛たちは瞬く間に制圧され、証人の身体は糸が切れたように崩れ落ちる。
床に倒れ込んでいたエイベルの元にはすぐにアルバスが駆け寄り、脈を取った。
「兄上!エイベル様は生きています。しかし……深い昏睡状態です」
「そうか、すぐに医者の元へ連れていってくれ」
強く唇を噛み締めたマクスウェルだが、すぐに顔を上げ、拘束されたライナーに向かい合うと、ひどく冷たい瞳で彼を見下ろした。
「ライナー・ロゼティーナ」
マクスウェルの声は、氷のように冷たい。
「王命により、貴殿を逮捕する」
ライナーは、静かに息を吐いた。
「……誓いは、終わっていない」
虚ろな瞳でそう告げる。
龍像の目の光が、ゆっくりと消えていく。床の紋様も、何事もなかったかのように薄れていった。
誓いは、破棄されていない。
だが、果たされてもいない。
凍りついたまま、この夜に封じられた。
龍の誓いによる拘束が解けたアメリアは、冷たい床に座り込み、エイベルが運ばれていく扉の方を見つめる。
そこに、騎士たちに指示を出し終えたマクスウェルが近づいてきた。
彼は何も言わずにエイベルを抱きしめた。
礼拝堂の鐘の音が、深夜の森に重く響く。
それは、誓いの成立を祝う音ではなかった。
——これは、警告だ。




