三人の過去 後編
エイベルが「自由になりたい」と零した日から、そう時間が経たないうちのことだった。
王城にはどこか重苦しい空気が漂い始めた。
最初は「王妃様が少し体調を崩したらしい」という噂が流れただけだった。
しかし、日を追うごとに王妃は朝の祈りにも、夕食の席にも姿を見せなくなった。
マクスウェルとレオンは何度も侍女に理由を尋ねたが、返ってくるのは決まって「休まれているだけです」という言葉だけ。
その声音に、真実を隠そうとする思惑が混じっていることに、二人はまだ気づけなかった。
王妃の体調は悪化する一方だった。
マクスウェルとレオンを常に気にかけ、どんなに忙しくても様子を見に来てくれた母が——
彼らの顔を見に部屋を出てくることが全くなくなった。
「王妃様が夜中に独りで泣いていたらしい」
「国王陛下が何日も帰ってこないのを気に病んでいる」
——そんな噂が、王城の至る所で密かに広がっていった。しかし、誰も王妃を救おうとはしなかった。
国王は王妃の状態を耳にしても「また気を引きたいだけだ」と冷たく言い、関心を示そうとしなかった。
マクスウェルは母の部屋を何度も訪れた。
扉を叩き、名を呼び、返事を待った。
しかし、扉が開けられることは一度もなかった。
そして——ある朝。
王妃は自ら命を絶った。
その知らせに、城中を満たしたのは“悲しみ”よりも“焦り”だった。
王妃が死を選ぶなど、あってはならない事態だったからだ。
そして真実は覆い隠された。
王妃は病死である、という嘘が、真実として民衆に語られた。
ただ国王の威信を守るためだけに。
その日を境に、マクスウェルは変わった。
涙も弱さも見せない。
しかし、その瞳は暗く濁っていた。
心の中では、父への怒りと、何もできなかった自分への深い後悔が渦を巻いていた。
——自分が誰かに特別な期待を向ければ、その相手が母のように孤独に押し潰されてしまうかもしれない。
だから彼は、他者と“深く関わる”ことを避けるようになった。
*
王妃の死後、エイベルは何度もマクスウェルへ手紙を書いたが、返事は一度も来なかった。
そして、ようやく会えた日のこと。
「マクスウェル殿下……お身体は大丈夫ですか?」
「うん。心配しなくていいよ。エイベルも元気にしている?」
その声は優しさを帯びているのに、どこか遠い。
エイベルは、胸を締めつけられるような感覚に襲われた。
「ええ……殿下が教えてくださった読み方のおかげで、歴史の勉強も楽しくなりましたの」
「そう……よかった」
それ以上、彼は話を広げようとしなかった。まるで、境界線を引くように。
*
学園に入学すると、二人が話す時間はさらに減った。単純に、多忙になったからだ。
マクスウェルは王族の伝統である生徒会長として、学園の指揮をとった。エイベルも、妃教育に加えて社交行事に追われるようになった。
楽しく笑い合った幼かった日々は、遠い記憶になりつつあった。
二年後、レオンが学園に入学しても、その距離は変わらなかった。
学園生活の中で、レオンが二つ年上のエイベルと関わることはほとんどなかった。レオンが自らエイベルに近づくこともなかった。
——彼女を見れば、封じ込めた気持ちが溢れ出てしまう気がしたからだ。
それでも、レオンがエイベルのことを忘れたことは一度もなかった。遠くから見かけるたび、どこか表情が暗い彼女が気になり、目で追ってしまった。
*
そのまま三年が過ぎた。白く積もった雪が溶け始める頃、エイベルの噂がまことしやかに囁かれるようになった。
『マクスウェル殿下とエイベル様の仲は、冷え切っている』
『最近来た転校生が殿下と仲良くしていることに嫉妬して、エイベル様が嫌がらせをしているらしい』
そんな風にエイベルの悪い噂を聞くたび、レオンはマクスウェルに対する苛立ちが増すのを感じた。
ある晩——。
レオンは3ヶ月間の留学へ行く前の、最後の夜に、思い切ってマクスウェルの部屋を訪ねた。
「兄上、エイベル様のことです」
「……そうか。入れ」
マクスウェルは一瞬目を見開いたものの、すぐに無表情に戻り、低い声でつぶやいた。
整理された部屋の中で、先ほどまでマクスウェルが使っていたのであろう机の上だけが、書類で散らかっている。
久々に向かい合った兄の顔には、疲労の影が濃く落ちていた。
「兄上は……最近、エイベル様と話されましたか?」
「教室で見かけたくらいだな。話す機会は、もうずっとない」
「では……エイベル様が転校生の令嬢をいじめているという噂、ご存知ですか?」
レオンの声は静かな怒りに満ちていた。
マクスウェルは一瞬だけ目を細め、書類の山に視線を落とした。
「噂は聞いている……ただ、俺がどうこう言える立場じゃない。
婚約は……もはや“形式”でしかないから」
淡々とした声。
「兄上……! エイベル様がそんなことをするはずありません!」
レオンが立ち上がり、机を叩く。
「兄上だって、エイベル様を昔から知っているのですから——」
「——レオン」
マクスウェルが、レオンを見つめる。
「俺が近づけば……エイベルも、母上のように重圧に押しつぶされるかもしれない。
だから……もう彼女とは距離を置くことにしたんだ」
静かな、それでいて有無を言わせないような声色だった。
レオンは唇を噛み締めた。
「レオン。明日から留学だろう?……休みなさい」
兄の表情は凪のようだったが、その奥に隠された苦しみを、レオンは確かに感じた。
そして——レオンが留学している間に、あの婚約破棄が起きた。
*
帰国したレオンは知らせを聞くや否や、マクスウェルに詰め寄った。
「兄上……!」
「レオン、落ち着け。もう話し合ったよ」
マクスウェルの横に立つエイベルは、静かに微笑んだ。
「レオン。私は……自分の人生を歩きたいの。妃という道ではなくて」
「でも……!」
「昔、妃教育から逃げて折檻されたとき、言ってくれたでしょう?
『僕はエイベル様の味方です』って」
レオンは熱のこもった目で、顔を上げた。
「……もちろん覚えています」
「なら、これからも味方でいて。私の“未来”のために」
レオンは震える声で答えた。
「……はい。僕はいつだって、エイベル様の味方です」
幼い三人はもういない。
けれど、互いを思い合う気持ちだけは確かに残っていた。




