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「本当にありがとね」
何度目かわからないありがとうを、唐揚げを詰めながらお母さんが言った。あたしが愛梨ちゃんの運動会に行くなんて、100%無いと思っていたのだろう。
正直、乗り気ってわけじゃないけど……でも、今日一日はあたし、ちゃんと立派な大人の態度で過ごすから。
……と心の中で誓ってから数時間も経たないうちに、あたしはとんでもないことをしでかしてしまうのだった。
こんなにちっちゃかったっけ……と思わず呟くくらい、幼稚園の運動場は狭かった。
あんなに小さい愛梨ちゃんも、ここでは年長さん、お姉ちゃんになる。っていっても、あたしと同じで、愛梨ちゃんはみんなをまとめるリーダー役からは程遠いらしい。どこか不安そうに目をきょろきょろさせながら、独りポツンと立っている。
先生に連れられて、愛梨ちゃんがかけっこのスタートラインに立つ。
「愛梨、頑張れ!!」
中津川慶太が大きな声でそう言うと、ここからでもわかるくらい、愛梨ちゃんの顔がパーッと明るくなった。笑うとほんと、可愛いんだよな。将来美人になるよ、あの子は。他の子たちと比べても、断然顔小さいし、脚長いし。色白だし、目大きいし、鼻筋通ってるし。お母さん、相当美人だったんだろうね。中津川慶太見てもわかるけどさ。
お母さんか……愛梨ちゃんは、お母さん、いないんだよね……。
周りを見ると、若いお母さんだらけだった。中には、そんなに若くないお母さんもいたけど。口々に、自分の子供の名前を呼んでいる。別の場所には、ビデオカメラを構えたお父さんたちの集団が。その中には、愛梨ちゃんのお父さんもいる。あたしのお母さんは、ゴールに近い場所で応援しているみたい。
愛梨ちゃんが一生懸命走っている。おお、ダントツで一番じゃないか。可愛い上に運動神経も抜群なんて、ほんと、将来が羨ましい。
そのままぶっちぎりで、愛梨ちゃんは優勝した。嬉しそうに、お母さんのもとに走って行き、ギュッと抱きついた──あたしのお母さんなんだけど。
お母さんも嬉しそうに愛梨ちゃんを抱き締め、それから何かを語りかけ、何度も髪を撫でている……あたし、あんな風に抱き締められたこと、あったっけ……そりゃあ、あたし自身、あんな風に甘え上手な子じゃなかったけどさ。そもそも、運動会で一位取ったことなんてないし。いつも三位とか四位とか中途半端な位置で、誉められることも慰められる必要もなかったといえばなかったんだけど。
「にーに、あいり、いちばんだったー」
「すごいな、愛梨。かっこよかったぞー」
中津川慶太は、愛梨ちゃんを高く抱き上げた。愛梨ちゃんは、キャッキャ言って喜んでいる。
「お、おめでとう、愛梨ちゃん」
私も思いきって、精一杯の笑顔で言ってみた。愛里ちゃんは一瞬ビクンとしてから、「……ありがとう」と無表情で言った。うう、あたし、嫌われてる……。
それから愛梨ちゃんは玉入れに参加するためまたあたしたちのところを離れ、お昼になると戻ってきた。午後は、親も参加する障害物競走とダンスがあるらしい。
「わー、すごーい、いっぱいあるー」
お母さんの作ったお弁当を見て、愛梨ちゃんが手を叩いて喜んでいる。
「パパのおべんとうと、ぜんぜんちがうー」
愛梨ちゃんの言葉に、和やかな笑いが広がる。
愛梨ちゃんは、あたしのお母さんの膝の上に乗り、口をあんぐり開けた。お母さんはそこに、小さい唐揚げを入れてやった。
「おいしー!!」
「そう? 良かった。たくさんあるからね。次はおにぎり食べよっか?」
「うん!!」
あたしのお母さんと、愛梨ちゃんと、愛梨ちゃんのお父さん……どこから見ても、幸せそうな仲良し家族だ。
あたしの存在、忘れてない? いや、それを言うなら中津川慶太もだけど。
「瑛ちゃん!! 慶太も。一緒に食べよう」
心の声が聞こえたわけではあるまいが、愛梨ちゃんのお父さんがあたしたちを呼んだ。愛梨ちゃんは慶太を見てニッコリと笑い、あたしの方を見て「チッ」という顔をした……ような気がした。
あたしは遠くを見ながら、黙々とお弁当を食べた。3人の仲良し家族は、中津川慶太を入れて4人になった。
こんなはずじゃなかったんだけどな……今日は、愛梨ちゃんとも、少しは仲良くなれると思ったのにな……。
ふいに、トントン、と肩を叩かれた。振り向くと、小さな男の子が立っていて、手の平に乗せた飴をあたしの方に差し出している。
「あげる……」
「……あたしに?」
男の子は、なんだかムッとしたような顔で、コクンと頷いた。
「あ、ありがとう……」
そう言って飴を取り笑うと、男の子は真っ赤な顔をして去って行った。近くで待っていたお母さんらしき人にしがみつくと、あたしの方を振り返り、嬉しそうに笑う。それはどう見ても、好意の笑顔だった。あたしも自然に笑顔になる。
「……ねえ、何かお菓子持ってない?」
中津川慶太はポケットの中から、チロルチョコを三つ取り出した。
「ひとつ、もらってもいい? あ、お金は払うから」
「いらねーよ」
そう言って、手の平をあたしの方に差し出した。あたしはお礼を言ってひとつ取り、さっきの男の子を捜しに行った。
その子のお母さんがいる前で、さっきのお礼と言ってチョコをあげた。男の子は恥ずかしそうにお母さんの方を見てから、「ありがと」と小さな声で言ってチョコを受け取ってくれた。
「良かったねー、遼ちゃん。すみません、ありがとうございます。この子、キレイなお姉ちゃんに飴あげるんだ、って、きかなくて」
キレイ……って、あたしが!? この子、こんなに若いのにド近眼なんだろうか……それとも、こんなに小さいうちからマニアな趣味なのだろうか……。
男の子の将来が心配になりながらも、子供に好かれて悪い気はしなかった。いいや、ものすごく嬉しかったし、こんなあたしでも好きになってくれる子供がいるのだと思うと、ほんの小さな自信にもなった。
すっかり上機嫌になって戻ると、ビニールシートの上には中津川慶太しかいなかった。
「あれ……みんなは?」
「愛梨がダンスの練習するって」
中津川慶太の指差す先を見ると、3人ではしゃいでいる姿があった。
「……あのさ、愛梨ちゃんって、あたしのこと、嫌ってる……?」
中津川慶太が、きょとんとした顔であたしを見上げた。あたしだって、なんでいきなりこんなこと訊いたのかわかんないわよ。しかも「うん」って言われたらめちゃめちゃヘコむじゃない!!
「っていうか……怖がってる」
「怖いの!? あたしのこと!? なんで!?」
「……おれも、ちょっと怖い」
「は?」
とは言ってみたものの、確かに今までのこの人に対するあたしの態度を振り返ってみると、かなり怖い女かもしれないあたし……いろんな意味で。
もちろん、愛梨ちゃんにはそんな態度をとったつもりはないけど……でも、あたしのピリピリした気持ち、伝わっちゃってるのかもしれない……。
「……嫌いなのと、怖いの、どっちが消すの簡単かな……」
「……怖いのは、怖くないってわかりゃいいだけじゃね?」
「わかってくれるかな?」
「わかってもらいたいのか?」
「当たり前でしょーが!!」
「……その顔が怖い」
「う……じゃ、じゃあ、どうすればいいのよ? 具体的なアドバイスしてよ」
「うーん……無理に大人ぶらないことかな」
「は? 何それ。散々エラソーに“ガキ”扱いしてきたくせに」
「うん。だからそれでいいんじゃね? 子供はさ、嘘くさいのが一番嫌いなんだと思う。だからって、おれに噛み付くみたいに愛梨に噛み付いたら、ただじゃおかねーけどな」
何よ、みんなして愛梨愛梨って……なんて拗ねるところが、ガキって言われちゃうところなんだろうけど。
そうこうしているうちに、3人が戻ってくるのが見えた。
「あいりのこと、みててね、ママ!!」
あたしのお母さんと手を繋ぎながら愛梨ちゃんが言った……ママ?
ママ、と呼ばれたお母さんも、特にビックリした様子もなく、ごく自然に頷いている。
あたしの知らないところで、ずっとそうやって呼んで、ずっとそうやって呼ばれていたんだ……それはあんたのママじゃない、あたしのお母さんだ……!!
「……般若みたいになってんぞ、顔」
中津川慶太の声が聞こえた。だけど、笑顔を作る気分になんてなれない。あたしはギリギリと歯を噛み締めた。
「あんな小さな子供に嫉妬かよ……ほんとお前ってガ──」
言い終わる前に、あたしは中津川慶太の左頬を、思いっきり平手打ちしていた。不意打ちだったからか、中津川慶太の大きな身体は、シートの上に倒れてしまった。
手の平がジンジンする……あたし、人を叩いてしまった……生まれて初めて、人を、叩いてしまった……。
「……ってぇ……舌噛んじまっただろッ!!」
滝のような涙と鼻水を流し、しゃくりあげるあたしを見て、中津川慶太の顔から怒りの色がスッと消えた。
「……ごめ……ヒック……ごめ……なさ……ッ……」
「慶太。ちょっと来なさい」
中津川慶太のお父さんが、今まで見たこともないような怖い顔で言った。中津川慶太は素直に立ち上がり、左の頬を撫でながらついていく。
「ま……待ってくださいッ!!」
声が裏返って恥ずかしかったけど、今はそれどころじゃない。
「中津川慶太──先輩……先輩は、何も悪くないです!! あたしが悪いんです!! ほんとです!! だから……」
「瑛ちゃん……」
「ごめんなさい……ごめんなさい!! お騒がせして、本当にごめんなさい!!」
あたしは思いきり頭を下げ、文字通り逃げるように幼稚園から出て行った。
走って、走って、走って……これ以上走ったら心臓壊れちゃうってところまで走って、立ち止まって、周りを見てみたら、まるで見たこともない景色が広がっていた。
そもそも、幼稚園のある場所だって、まったく知らないところだったけど……。
何だか本当に、独りぼっちになってしまった気分になる……この広い世界で、あたしは独りぼっち……寂しくて、死んでしまいそう……。
大丈夫、ちゃんと帰るから……ゆっくり歩いて、頭冷やして、暗くなる前には家に帰るから……あたしだって、少しは大人になりたいもん……大人になれば、この苦しさも、なくなってくれるでしょ……?
「……ぶっちゃった……」
手の平を広げてみる。あたしの手はもう全然痛くないけど、中津川慶太のほっぺたは痛いだろうな……っていうか、舌噛んだとか言ってなかった?
「愛梨ちゃんだけじゃなくて、中津川慶太にも嫌われたな……確実に」
いや、元々嫌われてたか……考えてみれば、あたしみたいな妹ができるなんて、中津川慶太にとっては勘弁してほしい事態だよね……。ま、一緒に住むわけじゃないけどさ。
「あ……」
ストリートコートっていうのかな、コンクリートのバスケのコートがあるのが見えた。周りに家はないから、公共のスペースってことなのかな?
誰もいないのを確認して、あたしはボールを拾い上げ、ゴールに向かって投げてみた。
ボールはネットがぶら下がってる輪っかに当たって、とんでもない方向に飛んで行った。拾いに行って、もう一度投げてみる。今度は板に当たって戻ってきた。
それから何度も投げてみた。全然入らなくてイライラする。あたしはヤケクソになって、ボールをゴールに叩きつけ続けた。
「……入れる気ないだろ」
突然声がして振り向くと、中津川慶太が立っていた。いつからいたんだろう……あたしの手からボールを奪い取ると、完璧なフォームでゴールに向かって投げる。ボールは輪っかに触れることなく、スポッとネットを通って落ちた。
そりゃあんたは何年も毎日練習してるんだから、上手いに決まってるじゃん……なんて嫌味を考えてる場合じゃない。
「あの……本当にごめんなさい」
改めてあたしは頭を下げた。本当に、心の底から、反省してます。
「もういいって……おれも、悪かった」
「え……?」
「お前がそんなに思い詰めてるとは思わなかったからさ……単なるワガママだと思ってた」
中津川慶太はボールを拾い、何度かドリブルすると、また華麗なるシュートを決めた。
「……おれだってさ、100パー賛成ってわけでもないんだぜ?」
意外なことを、中津川慶太は口にした。
「親父には幸せになってほしいけど、母さ──お袋のこと、忘れたわけじゃないし」
別に無理してかっこつけて“お袋”なんて言わなくてもいいのに。っていうか、むしろジジくさくてかっこよくないよ?
「まだ、たったの四年しか経ってないしさ。おれにとっては、お袋だけが、世界中でただ一人の母親だし。誰も代わりにはなれないし、なってほしくもないし。他の人に夢中になってる親父を見るのは、正直複雑な気分だったりもする」
話しながら、中津川慶太は何度もボールを放り投げている。何を話していても、どこから投げても外さないのはさすがだ。
面と向かっては、話しにくいことなんだろうな……だからあたしも余計なことは言わず、ただ黙って耳を傾けることにした。
「……今でも時々、お袋の夢を見る。なんで死んじゃったんだろう、って思う。いてほしい。戻ってきてほしい……けど、戻ってくるわけねーじゃん?」
中津川慶太が、振り向いて笑った。悲しそうで、寂しそうで、優しくて、あたしの胸がキュッと痛んだ。
「愛梨はさ、母親の記憶、ないから……あいつに、母親、作ってやりたくてさ……けど、お前の気持ち、全然考えてなかったよな、おれ」
キュッと痛んだ胸が、今度はじんわり熱くなる。なんだよ、急に優しくなりやがって……。
「……あたしも、お母さんの気持ち、全然考えてなかったよ……自分の寂しさとか、不安とか、そういうのでいっぱいでさ……」
中津川慶太が、胸の辺りで持ったボールをあたしの方に投げる素振りを見せた。
バスケのボールって、硬くて痛いから大っ嫌いなんだ。パス受け損なうと、爪の間から血が出るし。
だけど、あたしは中津川慶太と同じように、胸の前でボールを受ける形に手を作った。中津川慶太の手を離れたボールが、あたしの手の中に飛び込んでくる。やっぱり痛い。けど、なんか嬉しい。
「よーくゴールを見てみな。絶対に入る、絶対に入る、絶対に入る……心からそう念じて、集中するんだ」
絶対に入る、絶対に入る、絶対に入る……輪っかの中を見つめてそう念じ、あたしは大切にボールを投げた。ボールは何度か輪っかにぶつかって、ネットの中に落ちて行った。
「やった!! 入った!!」
「気持ちいいだろ?」
「うん!! 体育でも入ったことなかったのに!!」
思いきり笑って、はたと気づく。そういえば、中津川慶太の前でこんな風に笑ったことってなかった気がする。そう思うと、何だか照れくさい。だけどやっぱり、苛立ちをぶつけるより、よっぽど気分がいいや。
「……いろいろ、ごめんね……いや、ごめんなさい」
つい忘れちゃうけど、中津川慶太は先輩なんだよね。しかもふたつも。心の中とはいえ、呼び捨てにするのもやめた方がいいのかな……。
「だからもういいって……それに、嫌いじゃなかった」
「え?」
「あんな風に、なりふり構わず自分の気持ちぶつけてくる女なんて初めてだったし。女の子が泣いてるのは見たことあったけど、鼻水まで流してんのは見たことなかったし」
「しょ、しょーがないじゃん!!」
「だから、いいよ、別に。今さら気取らなくたって。その方がおれも楽だし」
「……タメ口でもオッケーってこと?」
「んー……ちょっとムカつくけど、お前に敬語使われるのも不気味だからいいや」
「不気味って……あ、でも、学校では敬語使うから。っていうか、学校では話さないから」
「なんで?」
「なんでって、自覚ないわけ!? あんたと仲良く話しなんてしてたら、後で呼び出されてボコボコにされちゃうって」
「話しただけでそれはないだろ。んなこといったら、今まで付き合った彼女たち、半殺しの目にあってたっておかしくないだろ」
「彼女……たち……」
あれ……? なんだろう、このガッカリ感……なんだかものすごくテンション下がるんですけど……まさかそんなにショックなのあたし!?
「まあ、多少陰口叩かれたりってことはあったみたいだけど……ってか、お前、彼女じゃないし」
あたしの顔を見て、中津川慶太が噴き出しそうな顔になる。鼻の穴がヒクヒクしてる。うわー、ムカつく!! そりゃああたしはあんたに釣り合うような美人じゃないわよ悪かったわね!!
「あ、あたしだって、あんたなんてお断りよ!! 女が誰でもあんたみたいのが好きだと思ったら大間違いなんだからね!!」
精一杯の強がりを返す。ほんとは……ほんとは、ちょっと、いいな、とか、思ってたり、するけど……ちょっとだけだけどね!!
「あ……愛梨ちゃんのダンスは?」
「ああ……予定では、あと三十分くらいで始まる」
中津川慶太が腕時計を見て言う。
「戻ってあげて」
「お前は……戻れないか」
「うん……ごめん……」
「気にすんな。愛梨も、お前がいると怖がるし」
「う……ねぇ、愛梨ちゃんと、仲良くなれると思う……?」
中津川慶太がフッと笑う。優しくて、キレイな微笑み。
「なれるさ……愛梨は優しいし、心が広いから」
「……なんか微妙な言い方だけど、そう言ってもらえて嬉しい」
「焦る必要はないし、無理する必要もない。おれももう、無理強いしないし」
「ありがと……あんたがいてくれてよかった」
「惚れるなよ?」
「だ、誰がッ!!」
……多分、もう、手遅れですけど……。
それから中津川慶太は幼稚園へと戻っていき、あたしは早々に家に着いた。
帰ってきたお母さんは、あたしが嫌なら再婚の話は考え直すと言った。だけどあたしは笑って首を振った。
自分でもほんとに不思議なんだけど、いつかちゃんと祝福できる日が来るような気がしたんだ。何時間か前までは、あんなに子供みたいに取り乱してたっていうのに。
そりゃあ、お母さんを取られちゃうような寂しさはあるし、家族の形が変わってしまう不安もある。だけど、お母さんの幸せを考えられる余裕が少しだけできたっていうのかな。
それはきっと、あたし自身が、恋というものを知ったから……いつの間にか、あたしは恋をしていたんだ──初めての恋を。まだ生まれたばかりの、ちっちゃな卵みたいなものだろうけど。




