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「柴原瑛」
突然フルネームで呼び捨てにされ、あたしは半ば混乱した頭で振り向いた。
振り向いて、そこに立っている人の姿を見て、もっと混乱した。
「なか……」
中津川慶太、とこちらも呼び捨てしそうになって、慌てて口を閉じる。
「随分ガキっぽいことしてるんだな」
「……は?」
「無視してるんだろ? お袋さんのこと」
「お袋さんて……」
笑うところじゃないのはわかってるけど、思わず吹き出しそうになる。っていうか、話したんだ、お母さん……きっと何でも話してるんだね。
「お前の気持ち、わからないわけじゃない。いや、やっぱわかんないんだけど……おれ、男だし。けど、少しはお袋さんの気持ちも考えてやったらどうなんだ?」
なんでそんなに偉そうなの? 先輩だから? 男だから? 物分りがいいから? イケメンだから? モテモテの人気者だから!?
なんだかあたしは無性に腹が立ってきた。
「……人の家のことに口出ししないでもらえます?」
「お前の家だけの問題じゃないだろ? お前だけなんだからな、反対してるの」
あ、そう。やっぱり物分りのイイ人なんですね。その物分りの良さで、あたしの複雑な心も少しは思いやってほしいんですけど!!
「……あんたんちのことなんて知らない。あんたは別に一緒に住むわけじゃないんでしょ? あたしはね、ずっと、ずーっと、お母さんと二人だけで暮らしてきたの!! これからもそのつもりだったの!! なのに、なのに……」
人前で泣くのは絶対嫌なのに、あたしの目からは勝手に涙がボロボロと零れていく。
「幸せだったのに……あたしは、お母さんがいれば、それで良かったのに……お母さんは、そうじゃなかった……あたしのことなんて……」
そうだ……邪魔なのは、あたし……あんなろくでなしのサイテー男の血を引くあたし……あたしさえいなければ、みんな幸せになれるんだ……。
「落ち着け……」
中津川慶太が、手を伸ばしてきた。その手を思いきり叩いて拒絶し、その目を思いきり睨みつけてやった。八つ当たりだ。わかってる。あたしは、よりにもよって、この人に甘えてる。
憤然と去るあたしを、中津川慶太は呼び止めも追いかけもしなかった。
「なんであたしだけじゃダメなの……あたしと二人じゃ嫌なの……」
辺りはすっかり暗くなってしまっていたけど、あたしは家に帰る気にはなれなかった。
ただ街中をウロウロしてるだけ。もう随分前から、お腹がグーグー鳴っている。
ヒロもシホもバイト中のはずだ。あたしもバイトしよっかな……うん、そうだ、そうしよう。そうすれば、家にいなくて済むし。お金貯めれば、家を出て行けるかもしれないし。
そんなことを考えていたら、また涙がじわじわと溢れてきた。
「……何やってんだ馬鹿」
滲んだ視界の中に、中津川慶太の姿があった。なんだかものすごく怒っている……みたい。
「お前、こんなに遅くなったことないんだろ? お袋さん、泣きそうな声で電話してきたぞ。携帯も繋がらないし、誰かにさらわれたんじゃないかって。だから、おれと親父で急いでお前んち行った」
家出だとは思わないところがお母さんらしくて、あたしはなんだかおかしくなった。
「笑いごとじゃないだろ!!」
怒鳴られて、今度は涙がボロボロと零れる。
「……とにかく、電話するから。逃げんなよ」
中津川慶太はあたしを睨みつけたまま、携帯を取り出した。
「慶太ですけど、瑛ちゃん、見つけました……はい、元気です……って、逃げんなって言ったろーが!!」
中津川慶太は携帯をポケットにしまいながら、あたしの後を追いかけてきた。当然あっさりと、あたしは捕まってしまった。
「……帰る」
「は?」
「一人で帰る!! だから離せ!!」
中津川慶太に掴まれた腕を、あたしはブンブンと振り回した。
「信用できるか!! お前はおれが家まで連れて行く!! 引きずってったっていいんだぞ!!」
「……で? 明日からはどうすんの? ずっと監視でもするつもり? バッカじゃないの?」
「馬鹿はお前だろーが。あんないいお袋さん悲しませて、何がしたいんだよ!!」
「……いない方がいいの……」
「何?」
「あたしはいない方がいいの!! あたしは邪魔なの!! あたしがいなきゃ、あんたたちだって嬉しいでしょ!?」
「……甘ったれんな」
ズバリそう言われて、あたしは何も言い返せなくなった。
急に戦闘意欲をなくしたあたしを、中津川慶太は引っ張っていく。最初は痛いほどだった腕を掴む力が、少しずつ弛んでいった。それでも離す気はないらしい。
あたしはなんだか無性におかしくなって、クスクスと笑い出した。
「……何がおかしい」
「だって……あたし、連行されてるみたい」
「あながち間違いでもないんじゃないか?」
「それに……」
「何?」
「……なんでもない」
「何だよ。言いかけたら最後まで言えよな」
こんなところ、学校の誰かに見られたら、どんな噂が立つんだろ……そう思ったら、おかしいやら恐ろしいやらで。
「あたし、リンチされるのは嫌だなぁ……」
「は? 誰がそんなことするかよ。人を何だと思ってんだよ」
あなたのことじゃなくて。あなたの熱狂的なファンの子たちのことだってば。
「……ひとつだけ誉めてやるよ」
「なんのこと?」
「お前いつも、六時前には家に帰ってんだってな。門限があるわけでもないのに」
「……暗くなると、お母さん心配するから……」
「今日は、心配かけたかったわけか……典型的な甘ったれだな」
「うるさい」
「……あのさ、いつもそんな攻撃的な性格なわけ? それとも、おれが嫌いだから?」
その質問に、あたしは答えることができなかった。
中津川慶太にしたように、誰かに乱暴な言葉をぶつけたことなんて一度もないし、ヒステリックに泣き喚いたことだってない。
かといって、中津川慶太のことが嫌いなのかというと、まったくそんなことはないわけで……結局のところ、何故か甘えてしまっただけなのだと思う。
だけど、「つい甘えちゃいました。ごめんなさい」なんて言えるわけがない。
「……答えたくなきゃいいけど」
中津川慶太は溜め息混じりにそう言った。
アパートの前の道路に、お母さんの姿が見えた。今にも泣きそうな顔で、あたしの名前を呼び、それきり何も言わなかった。
中津川慶太が帰った後、あたしは「ごめんなさい」と言った。お母さんは微笑むと、黙ってあたしの背中を優しく撫でてくれた。
台所のテーブルの上には、あたしの分の夕食がラップされてあった。お母さんはヤカンに水を入れてコンロにかけ、お風呂にお湯をはりにいった。
また涙が出てきてしまった。あたしの涙腺は、どうにかなってしまったのかもしれない。




