第17話 クラッグ・エイプ
一時間ほど違和感を辿って森の中を進んでいると、急に違和感を感じなくなった。
不思議に思いながらも歩を進めていくと、遠目に開けた草地と異質な存在感を放つ泥小屋が見えた。
泥小屋が目に入るのと同時に背後から強烈な威圧感、まるで空気が重くなるような感覚に襲われて振り返った。
「ゲギャギャギャ!」
甲高い鳴き声に似つかわしくない大柄な体躯をしたそれは、物凄い勢いで両腕を振り下ろした。
「ちっ!」
すんでのところで横に飛び躱したが、化け物の腕を叩きつけられた大地から爆ぜるように飛び散る土の礫が体に当たる。
「ギャー!」
獲物を取り逃したことに激怒した化け物が騒ぎ出す。
乾いた汚泥のような肌、なんの毛皮か判別不能なほど泥と血に汚れた腰巻、そしてアンバランスなほど発達した上半身と対照的に貧相にすら見える後ろ足。
そんな化け物がまるで子供のように癇癪を起こす異様な光景を目の当たりにして、逆に冷静さを取り戻せた。
――油断するべきじゃなかった……馬鹿か俺は!
そして忘れるべきではなかった、ここがどこなのか。
ストラーク大森林、魔獣魔物が跋扈する弱肉強食の地。
先ほどまで不自然なほど思考を埋め尽くしていた、違和感の元を訪れるべきという考えがすっぽりと抜け落ち目の前の脅威だけに意識が集中する。
アビス・シードに似た、重苦しい存在感を放つ化け物を見据えて戦闘に備えた。
「ギャー!!」
「クソ!」
化け物は腕を振っただけ、たったそれだけなのに後ろに飛び退いた自分を更に押し返す程の風圧が生じる。
こちらが着地に手間取っている隙に化け物は両腕を地面に殴りつけ、その反動で宙を舞いながら迫ってくる。
「なんでもありだな!!」
慌てて今度は真横に飛び、転がりながら回避する。魔物の着地と併せて大地が揺れる。
「アーーー!!!!」
攻撃を避けられるのがそこまで癪なのか、先ほど以上に化け物は怒り狂っている。化け物の出方を窺わず、その場から走り出す。
――防御は無しだ、あの攻撃を受けようとしたらただじゃ済まない!
走り出したのとほぼ同時に、化け物がまた両腕を地面に叩きつけると今度はこちらではなく近くの木々を目掛けて飛んでいく。
――何を……
「なっ!?」
「ゲギャーー!!!!」
通り過ぎた木の幹に片腕だけ引っ掛け、跳躍の勢いをほぼ殺さぬまま木を半周した化け物が空中で軌道を変えながらこちらに突撃してくる。
「ぐぁっ……!!」
とっさに剣で防御の構えを取ろうとするが間に合わない。吹き飛ばされた勢いのまま水切りのように地面を転がる。
「ッアーーー!! ゲギャーー!!!!」
地面に這いつくばり、朦朧としていた意識を浮上させたのは騒ぎ出した化け物の鳴き声だった。
焦点の合わない目にぼんやりと映ったのは、右腕に深々と突き刺さった長剣の刀身を抜こうと暴れる化け物の姿。
自分の右手を見るが、握っていたはずの剣の柄は見当たらない。
歯を食いしばり、自己治癒を発動しながら比較的軽傷だった右腕を収納鞄に伸ばす。
「アーーー!!!」
なかなか抜けない刀身を左手で無理やり引き抜こうとしている化け物から目を離さないよう注意しながら、ポーションを一本飲み干す。
かなり重症だったが、幸いポーションで治せないような欠損はなかった。
――高級ポーションは後二本か……
空になったポーションの瓶をそのまま地面に落として、収納鞄からヴィセンテの剣を取り出す。
食料やポーションはともかく、故人の装備を勝手に使う事に気が引けて武器防具類には今まで極力手を出していなかった。
クァールから逃げる途中に失くしたブーツはさすが取りに戻れなかったので、収納鞄にしまわれていたヴィセンテのものと思われる予備を借りていたが。
――色々と勝手に使っているんだ、遠慮は今更だな。ヴィセンテ、俺が死んだら二人をドルミル村まで連れていけない。だから使わせてもらう。
死人に口なし。許可を求めても相手に答えようがないので一方的に使うと心の中で宣言する。
「アーーーーー!!!!」
血濡れの刀身が地面に投げつけられ、柔い土に刺さる。血走った目でこちらを見ながら、化け物が両腕を掲げ上げる。
――チャンスは一度きりだろう。
もう一度攻撃を食らったら意識を保てる保証もなければ、即死しないとも限らない。
「ギャーー!!」
化け物が雄たけびを上げながら地面に両腕を叩きつける。
振動を感じたのと併せて、全ての魔力を身体強化に注ぐ。
一直線にこちらに向かって飛んでくる化け物から逃げるのではなく、あえて向かっていく。
今までと違って回避しなかったことに気づいたのか、化け物が宙を舞いながら左腕を振るうそぶりを見せる。
そんな化け物の行動には目もくれず、神経を剣に集中させる。
脇に構えた剣を流れるように上段に構えなおし、交差する瞬間化け物の左肩から腰を目掛けて己の全てを掛けた袈裟斬りを放つ。
突進してくる化け物の勢いを利用して、剣が化け物の体に滑り込んでいく。
「がっ……!!!」
刀身が化け物の胸まで到達した瞬間、強烈な左フックを食らい横に吹き飛ばされた。直撃を受けた右腕の骨が皮膚を突き破り、それでも殺しきれなかった衝撃が右の肋骨を砕く。
地面に叩きつけられたのと、ほど遠い位置で化け物の巨体が地面にぶつかる音が聞こえてきたのはほぼ同じだった。
「アッ!! ギャ……アッ……!」
興奮のおかげか意識は驚くほどはっきりしているが、体が思うように動かない。痛みはほとんど感じられないが、強烈な寒気を感じ始めてから急激に意識が遠のいていく。
――血を流しすぎている……
「ア! ……アッ……!!」
遠くに聞こえる鳴き声を無視して、震える左手を収納鞄に伸ばす。
「アッ……」
視界が暗くなる中、ポーションの瓶の蓋を片手でなんとかこじ開ける。
「ギャ……」
死力を尽くしてポーションを何とか口元まで運び、中身を飲み干した。
「アーーーーーッ!!!!」
化け物が大気を震わせるような怨嗟を込めた叫びをあげた。
――あれで死ななかったのか……! クソ……
ポーションで傷が治っても流した血はすぐには元に戻らない。ボロボロの体に追い打ちをかけるように、魔力を全て放出した影響で強烈な倦怠感に襲われる。
――限界……だ……
全力で抗ったものの奮闘むなしく、薄れゆく意識を完全に手放した。
――――――――
「はっ……!!」
ばっと起き上がり周囲を確認する。
「なっ!!!」
胸に刺さった剣を右手に握った化け物が、先ほどまで自分が横たわっていた場所を憤怒の形相で睨んでいる。
即座に臨戦態勢をとるが、化け物は微動だにせず同じ場所を睨み続けている。
「死んでる……」
心臓が止まるかと思ったが、冷静に考えれば化け物が生きていたら自分は意識を失っていた間に殺されていたはずだ。意識を失う前に聞こえたのは、化け物の断末魔だったのかもしれない。
――なんだったんだ……こんな化け物見たことも聞いたこともない。
緊張の糸が切れその場で膝から崩れ落ち、そのまま四つん這いの状態で数分息を整えてから化け物の方を見る。
「……剣は返してもらう」
化け物の手からヴィセンテの剣を剥がそうとしても、死後硬直なのか化け物の最後の悪あがきなのかびくともしない。
――抜けない……
その後化け物の手に固く握られたヴィセンテの剣を中々回収できず、悪戦苦闘した結果すっかり日が落ちてしまった。
周囲の安全確認も簡易的な寝床の準備も出来なかったため満足に休む事もできなかった。
――散々な目に遭った……
あの名前も分からない化け物には二度と遭遇したくないと強く思いながら、何度目か分からない森林の夜明けを迎えた。