閑話 神呪:背水の試練
虚空を漂う巨大な海月。空を泳ぐ実態のない魚影。深海の底をそのまま切り取ったかのような、幻想的な空間。
そこに、今日も彼女は一人佇んでいた。
腰まで伸びた海色の髪に隠された背は、今にも消えてしまいそうな儚さを漂わせている。
「何しに来たの」
「僕がサシャに会いに来るのに、理由がいるのかい?」
背中越しに冷たくあしらわれる。あの子達を失った日から、顔を合わせてもらえた日は数える程しかない。
「……前も言ったでしょ、放っておいてくれる?」
「大切な話があるんだ」
「聞きたくない」
「カテリナ達のことだよ」
全身がぴくりと揺れたかと思うと、天色のワンピースを翻しながらサシャが振り向く。
「下手なことを言ったら、いくらフリクトでも許さないわよ!」
激情に呼応するかのように、彼女の髪が荒波のように波打つ。表情は怒り一色に染まっているが、凛々しく美しいその姿に心を奪われる。
「……綺麗だ」
「ふざけないで!」
素直な賛辞だったのだけど、反射的に呟いてしまった事を後悔する。サシャの背後の暗闇から、狂暴な顔つきをした幾多の深海生物が顔を覗かせる。
これ以上怒らせてしまう前に、本題を告げる。
「ヴィセンテが僕の呼びかけに応えてくれたんだ」
「えっ……?」
沈黙の後、消え入るような小さな声でサシャが聞き返す。
「……本当なの?」
「本当だよ」
一瞬喜色を浮かべたかと思うと、一転して激しい後悔と悲しみの滲む表情をしながらサシャが口を開く。
「毎日呼びかけてるのに……カテリナは私に反応してくれない……」
ワンピースのスカートをちぎれんばかりに握りしめながら、震える声でそう呟くサシャの頬を一筋の涙が伝う。
「そんな顔をしないで、サシャ」
見ていられなかった。彼女の手を取り、そっと胸に抱き寄せる。サシャはそのまま体を預けてくる。
「ヴィセンテがカテリナを説得してくれてる。だからもう少しの辛抱だよ」
「本当に??」
「本当に」
サシャの頭を撫でながら、背中をやさしくトントンと叩く。暫くそうしていると、落ち着きを取り戻したサシャが、ばっとこちらを見る。
「子供扱いしないで」
「君を子供扱いしたことなんて一度もないよ」
「……馬鹿」
――良かった……! サシャは一旦大丈夫そうだ。けどヴィセンテが言ってたことが少し気がかりだ。
ヴィセンテ達を、故郷まで送り届けると誓った青年について思いを馳せる。
――ずっと戦いを避けるように移動してるって聞いたけど、逃げ癖が付いてしまってるみたいなのは頂けないな……でも男気があるのは高評価!
「何笑ってるのよ?」
「ごめんごめん、何でもないよ」
気づかぬ内に笑っていたみたいだ。変なものを見る目でこちらを見る、サシャの頭を胸に抱き戻す。
――……それに『恨みたければ恨めばいい』か、痺れるね! 建前としては十分だ。闘神フリクトと水神サシャの愛し子達に、救いの手を差し伸べた君の背中を押してあげよう。
神力を贈り物に込める。
「退路は断った。闘志を燃やせ」
「さっきからなんなの?」
「ごめん、もう大丈夫だから」
――――――――
神呪:背水の試練
強者と惹かれ合い、逃げれば逃げるほど追い詰められる。逆境に立ち向かう覚悟を抱けない者に、活路は見出せない。