08.村には帰らない。
席に付く。机を挟み、エディットは神官と向き合った。隣にはケヴィンが座っている。門番はちゃっかり、神官の隣に座っていた。最早関係者の様相である。
「では、エディットさん、あなたは神官のスキルについてどの程度知っていますか?」
「傷を癒せること、スキルを見れること、聖水を作れること、くらいです」
ゆっくりと正直に答えれば、神官は二回頷いてみせた。あっているのか、あっていないのか不安になる。分からない反応だった。
「訂正していきましょう。傷を癒せる。これは本当です。しかし、全ての傷が癒せるわけではありません。癒せる傷の程度は、本人の資質によります」
「資質です、か」
「はい、如何に神様に祈りを捧げているか、信仰が身についているか。そのことによって、使える力の強さが変わってくるのです」
まるで神の教えを説くかのように厳かに告げられた言葉に、咄嗟に返事が出来なかった。うまく、言葉を呑み込むことが出来なかったのだ。素直に頷くことが出来ない。エディットは、子供であって、子供ではなかった。だから、余りにも曖昧であると思ったのだ。
言わんとする事は分かるのだ。神官たるもの敬虔に神の使徒としてすべきことをせよという事だろう。神に祈りを捧げる、信仰を身につける。つまりは、そう言う事である。だが、信仰の度合いで使える力の強さが分かるとは一体。信仰心を測る装置でもあると言うのだろうか。信仰が身に付いている、それを判断する方法とは如何なるものか。試験がある? 儀式の手順を完璧に熟す? エディットには何も分からない。生まれ持った力の違いだと説明された方が、納得出来た。これはエディットの勝手な想像であるが、貴族生まれの神官は力が強くて、農民出の神官は力が弱いと言われた方が、腑に落ちる。事実かどうかは別として。ただ、神官の言い分を信じるならば、生まれも育ちも関係なく、敬虔であればある程、強い力を使うことが出来るのだ。
果たして、本当だろうか。エディットは、疑っている。
何故こんなにも納得できないでいるか。
その理由は分かっていた。本当に神がいるのかどうか、先ずそこから不明確だからである。存在が、あやふやなのだ。
「人のスキルが見える、ですが、このことに関していえば、大事なのは神官ではなく教会なのです」
だからと言って、神様の有無など聞けるはずがない。
いること前提の話だからである。
もしかすると、とんでもなく敬虔な神官の前には姿を現すのかもしれない。あり得る。何と言っても、異世界である。スキルなどと言うものがある時点で、エディットの常識とは違うのだ。ただやはり、信仰の度合いと言うよりも、使えば使う程スキルは強くなっていきます、と、言われた方が納得できた。完全に前世の創作物の影響である。経験値だとか、使った回数によってレベルアップするだとか。しかしこれは現実であり、経験値もなければレベルもない。謎の数値は存在しない。少なくとも、エディットの目には映っていないのだ。
意味のない現実逃避は止めよう。
それよりも今大事なのは、目の前の神官の話に耳を傾ける事である。完全に別の事を考えていたが、そうと気付かれぬよう神妙な顔で頷いてみせた。
「スキルが浮かび上がるあの水、あれはですね、神の泉から汲まれたものなのです」
「神の泉」
「ええ、国としては隣になるのですが、かつて神様が御降臨されたと言う泉があるのですよ」
「つまり、その泉の水に触れると、スキルが分かるってことですか?」
「いいえ、ただ触れるだけではいけません。大事なのは場所なのです」
「……教会でないとダメということですか?」
「その通りですよ、エディットさん。神の泉の水は、教会においてのみ、スキルを映す鏡となるのです」
これ、何の話だっけ。
現実逃避を止めようと思った直後、もう逃げ出したくなった。
エディットは混乱している。目の前の男が、余りにも真剣に不思議な話をしているからである。かつて神様が御降臨なされた泉から汲まれた水が、教会にある場合のみ、スキルを教えてくれるものになる。ヤバいくらいファンタジーである。エディットの知らない現実がそこにはあった。意味が分からなくなった。つまり、神官には、スキルを見る力などないのでは? 大事なのは水なのでは? あくまで教会の中にあるものだから、神官が立ち会う事になっていると言う事だろうか。いや、そもそも水はどのように教会かどうか判断しているのか。水に意思があるのか。何それこわい。
「エディットさんは、教会とは何だと思いますか?」
「ええと、私は今日まで、教会っていうのはスキルを見てもらうところだと思っていまして……」
困惑しながらも素直に白状した。エディットの表情は、明らかに曇っている。いや、訝しんでいるのだ。全てを。普通ならば、神に祈りを捧げる場所だとでも答える場面だろうが、そもそも村には教会そのものがなかったのだ。ならば、知らなくても普通である。そう、結論付けたのだ。十歳だし。
「なるほど。では、どうすれば、教会になると思いますか?」
「ど、どうすれば? えーと、それは、建てる時に、ここを教会にしようと思って建てるとか、そういったことじゃないんですか?」
「いいえ、それでは教会にならないのです」
「ええ!? じゃあ、神様のお墨付きがいるとかですか?」
最早自棄である。絶対にそんなわけはないと思いながら、もう何も思い浮かばないので勢い任せに言ったのだった。教会を建てる際に、神様に聞く。此処に教会建てていいですか。聞くのは良い。だが、了承が返ってくるなど無理がある。もしそうであれば、存在が身近過ぎる。
「神官の有無です」
「え」
「極端なことを言えば、建物は何でもいいのです。その場所に神官がいるかどうか。これが全てなのです」
私は教会の礎だった……?
余計に神官の事が分からなくなったのだった。エディットの混乱は続いている。神官さえいれば、建物は何でもよい。極端な話、エディットが帰宅すれば、あの貧しい小さな民家ですら教会になると言う事ではないだろうか。更に、此処にある神の泉の水を持ち帰れば、自宅でスキルが見れると言う事ではないだろうか。
果たして、そのような事があり得るのだろうか。
疑いながらも、テンションは上がっていた。村に教会がない事を不便に思っていたのだ。それが一発解消できる可能性が出て来たのである。確実に村に貢献できる。いやそれだけではない。搾取される側から脱出できるのではないだろうか。村長に大きな顔が出来るのではないだろうか。
神官は、凄かった。
急に未来が開けたように思えたのだ。
「最後に聖水についてですが、これは、水のスキル、もしくは水の魔法が使える神官なら作ることができます。水のスキルを持つあなたなら、いずれ作れるようになるでしょう」
「今は無理なのですか?」
食い気味に尋ねてしまった。出来れば今すぐに作りたかったからである。住む村に必須なのだ。だが強い気持ちを向けるエディットとは裏腹に、神官は考える素振りを見せたのだ。どうやってこの子供に分からせてやろうかと、思案しているように見えた。尤もエディットが知りたいのは、作る方法である。出来ない理由ではなく。
「エディットさん、あなたは水と光のスキルを持っています。そのスキル、今使えますか?」
問いかけられ、エディットは動きを止め、考えた。
今までも考えた事はあった。特に水である。出ないものかと、必死に頭を悩ませたのだ。ぽちゃんとも言わなかったが。だから、使い方は知らないし、分からない。
その筈だった。
どうやって使うのか、自らに問いかけてみる。答えはない。知らないのだから返るはずがない。なのに、分かったのだ。不意に頭の中に浮かんできたのである。今までどうあってもなかったものが、急に生まれたのだった。これは、方法ではない。ただ、出来ると言う感覚だけが浮かび上がってくるのだ。エディットには分かった。己が、スキルを使える事。水と光を出せる事。今此処で、出せる。知らなかった筈なのに、生まれた時から知っているかのような、そんな感覚だった。まるで、神の啓示を突然受けたかのような。
試しにエディットは、天井を見上げ、明るくなれと心の中で呟いたのだ。
「おお」
感嘆にも近い言葉を漏らしたのは、果たして誰だったのか。
それすら気にならない程、突然現れた光に目が離せない。
急に現れた。いや、そうではない。エディットが出したのだ。明るくなれと、光よ照らせと念じたのだ。スキルは応えた。何方もエディットである。エディットでありながら、他の誰かに命じたような感覚だった。しかし現実に光は生まれ、暗くもない部屋を照らしているのだ。自分が知らない生き物になってしまったような、不思議な思いだった。何故このような事が突然出来るようになったのか。分からない。分からないのに、使えて当然と言う思いもあるものだから、不安すら覚えたのだ。
「使えますね。では、エディットさん。聖水を作ることはできますか?」
一体自分はどうしてしまったのか。
そう思いながら、聖水を作ろうとした。作れると思った。今此処で光を出したのだ。水の出し方も分かる。エディットがほんの少し念じれば、この空間に突如として水は現れる。
では、聖水はどうか。
聖水よ出ろと念じてみる。出ない。そもそも、聖水とは何なのか。水は分かる。だから、出る。でも、聖水は分からない。しかしエディットは神官だ。神官であれば、聖水を作ることが出来る。だが、出ない。エディットは混乱した。水や光のように念じても、変化が訪れない。
神官のスキルとは一体何なのか。
分からない、分からない、分からない。
「出来ないでしょう?」
思考の渦に引き込まれそうになったところを、神官の声が引き戻した。
「はい、出来ません」
「神官のスキルとは、そういうものなのです。ただ得ただけでは使えないのです」
静かな宣告を聞きながら、エディットはじっと相手を見た。聞き入っているとみせかけて、全く違う事を考えていた。気付いたのだ。いや、ピンときた、と、言う方が正しいかもしれない。
そう、なにか、苦労をしないと駄目なヤツだと気付いたのである。
RPGで言うところの探索である。特定の場所に行かなくてはいけないだとか、特殊なアイテムが必要だとか、所謂、神官の封印を説くような何か。つまり、異世界なのだから、何があってもおかしくないと踏んだわけである。何せ、現状がこれだ。
うん、と、一つ頷いてみせ、エディットは口を開いた。
「では、どうすればよいのですか?」
結局考えても分からないので、素直に聞いたのである。この世界に生まれて十年。未だに知らない事の方が多いのだ。真っ直ぐに問われ、神官は目を細めた。
「祈りを捧げるのです」
「えっ」
「祈りを捧げ続けることによって、いずれあなたもスキルが使えるようになるでしょう」
選りにも選って。
そう、エディットは思った。
探索でも呪文でも封印でもない。一番曖昧なものがきてしまったのだ。
果たして、祈りとは何か。
先ず、そこからである。何と言っても前世も併せ、今世ですらも、祈りを捧げた事など無いのである。だから、方法が先ず分からないのだ。前世の感覚で言えば、お経を唱えるようなものではないかと想像し、しかしそれすら冠婚葬祭の主に葬でしか体験した事がない。一応仏教徒であったにも関わらずこれである。では、キリスト教はどうかと言われれば、教会にも行ったことが無いレベル。結婚式位のものである。それも他人の。その上、牧師と神父の区別もつかない。他の宗教に関しては、名前を知っている程度だった。
詰んだ。
いや、だが、此処で放り出す事はないだろう。流石に無いだろう。方法を教えてくれるだろう。聖書的なものがあるに違いない。因みにエディットは字が読めないので、あっても無駄である。
期待を込めて相手を見れば、通じたかのようだった。
「エディットさん、ここからが大事な話になります」
通じる筈がなかった。
ここからが!?
声に出さずエディットは驚いた。何故なら此処までも十分大事だったからである。それが、これ以上と言われ、驚いたのである。更に上の話があると言われても、予想がつかない。はらはらした面持ちで相手を見る。それしか出来ない。何故か息を呑んでしまった。
「次の一の月から、あなたは教会で三年過ごさなくてはなりません」
そう、難しい事を言われたわけではなかった。それでもエディットはよく考えたのだ。
つまり、親元を離れ、修道院に入るみたいなものであろうと想像する。修道院ではなく、教会らしいが。今までの流れを踏まえれば、恐らく祈りを捧げる為に入るのだ。しかしそれだけではないだろう。労働もあるに違いない。働かざるもの食うべからずだと理解している。特にエディットは貧しい生まれだったので、尚である。ただ祈りを捧げるだけで生きていけるなどとは思っていないのだ。そして、三年間は、外に出ることが出来ない。そこまで言われてはいないが、勝手に思い込んだ。記憶にある修道院が、外部との接触を禁じていたからである。ただエディットは元々、狭い村の中で一生を終える覚悟をしていた。だから、大丈夫だろうと楽観的に思ったのだ。両親と離れるのは寂しい反面、村長の息子と会わずに済むことに安堵も覚えていたのである。
神官は、次の一の月から、と、言った。つまり約二か月後になる。今は十月だ。この世界の一年は十二か月。エディットがかつて生きていたであろう世界と同じであった。だからその点では分かり易い。但し、季節が違う。エディットの知る十月は秋である。だが今は、春なのだ。彼女の体感でいう所の四月位なのである。よって、十年近く生きていると言うのに、未だに違和感を覚えていた。
「あの、こちらでお世話になるのでしょうか?」
恐らく、来年の一月から此処で世話になるのだろうと見越しての質問である。
「いいえ、ここではありません。あなたは、王都にあるアルメヴレハ大聖堂にて祈りを捧げるのですよ」
しかし、神官は首を横に振ったのだ。完全に想定外だった。今まで生きて来て、いや、これからの人生においても、王都に行くなどと言う事は全く考えた事もなかったのである。それどころか、何処にあるかも知らないのだ。エディットは、地図を見た事がない。
「王都? え、どうやって王都まで行くんですか?」
「ご安心を。大聖堂の方にはこちらから連絡しますから、一の月には迎えが来ますよ」
「つまり、一の月にまたこちらに来なければいけないということです、か?」
「はい、その通りです」
少女の物わかりの良さを褒めるかのよう、神官は、機嫌よく相手を見た。しかし喜ぶ余裕などなかった。次の一の月に、またここに来る。とても簡単な事だ。その簡単な言葉が急に理解出来なくなり、頭の中をぐるぐると巡っていた。
エディットは混乱している。
その混乱に終止符を打つよう、ガタン、と、硬質な音が響いた。
立ち上がったのだ。椅子の足が一瞬浮いて、もう一度床に当たった音だった。音の主を三人が異様な目で見ている。突然立ち上がった事もそうだが、思いつめた表情だったからである。
「エディットさん?」
戸惑いを露わにする神官の呼びかけに、ぐっと拳を握った。
「お願いします!」
そうしてエディットは、勢いよく頭を下げたのだ。
他に、出来ることが無かった。
エディットは、必死だったのだ。
「エディットさん?」
「私に出来る事ならなんだってします! ですから、次の一の月までこちらでお世話になることは出来ないでしょうか! お願いします!」
「……エディちゃん」
どこか悲し気に名を呼んだケヴィンだけが、少女の心情を理解していた。
「何か事情がおありですか?」
エディットの奇行に惑わされる事なく、落ち着いた声で神官は尋ねた。しかし相手は、エディットではない。ケヴィンだ。今エディットが、冷静ではない事を見越したのだろう。それに彼女は未だ十歳なのである。理由を聞くなら、大人の方であった。問われ、少し考える素振りを見せ、だが、黙っているわけにもいかないと思ったのか、小声で話し出す。
「貧しいんですよ」
たった、一言だった。
しかし、それが全てでもあった。
とはいえ、これで納得するはずもなく、神官は視線で先を促したのだ。
「私たちは二つ先の村からきたんですが、暮らしが貧しくて、今日ここまで来るのもやっとだったんです。二回目なんて土台無理な話ですよ。今日だってこの後すぐに街を出て、野宿するんですから」
「……野宿」
小さい声で呟くように口にしたのは、門番だった。そして、少女を見る。恐らく、こんな小さい子が野宿、と、でも思っているのだろう。哀れみだ。しかしエディットに文句はない。無理はものは無理で、今更どうにもできないからである。諦めと言えばそれまでだが、己だけが辛い境遇にいるわけではないと知っていた。だから、耐えられる。
だが、幾ら貧しさに耐えることが出来ようとも、次の一の月に此処へ来ることは絶対に無理なのである。先立つものが無いのだから。
「教会に行かなきゃいけないってのは、決まりなんでしょう」
「はい、王侯貴族平民全て、神官のスキルを持ったものは十歳の翌年から三年教会にて祈りを捧げなければいけない決まりです」
「村の方へは迎えに来てくれないんでしょう」
「ええ、あくまで教会にしか来ません」
「でしたらやはりこの子は、こちらでお世話になるしかないと思います」
思わずエディットは、感動の眼差しをケヴィンに向けた。余りにも頼りになる大人だった。きっと子供のエディットがどれだけ必死に頼み込んだとしても、この説得力には敵わない。重みが違うのだ。
事実、マルカン家の財力では、二回も街まで来ることなど出来ない。日々食べるだけが精一杯、そういう暮らしなのだ。今日この場にいる事すら、エディットにとっては信じられない程だった。今エディットは十歳。全てを両親に頼り切って生きている。だから、もし来れるとするなら、己で稼いだ後、と、言う事になる。だが、そう言う訳にはいかないのだ。今でなければいけない。王侯貴族平民、神官のスキルを持つ全ての人間の決まりだからである。神の下には皆平等と言わんばかりの。もしこのまま帰ってしまったら、罰則があったりするのだろうか。俄かに心配になった。
「エディットさん」
少し難しい顔をして、神官が口を開いた。
「このまま残るということは、今から三年はご両親に会えないということです。分かっていますか? 別れの挨拶もできないのですよ?」
静かな口調は、エディットを試している。そう、感じた。それ程の覚悟があるのかどうか、一時の感情で動いてはいないかと、見定めている。しかし、他に選択肢はないのだ。覚悟なら、疾うに決まっている。
「それはもちろん寂しいですが……でも、このまま二度と会えない、と、いうわけではないですよね?」
「ええ、三年経てば、その後は自由です。神官になるもならないも、です」
「えっ」
神官のスキルを持っていても、神官にならなくてもいい。
言った本人は平然としているが、エディットは落ち着いていられなかった。そもそも、神官のスキルを持っている人間は、絶対に神官にならなくてはいけないと思っていたのだ。スキルとは、つまり、そう言うものだと思っていたのである。だが、この言い分であれば、神官のスキルを持った剣士がいてもいい事になる。神官のスキルには、傷を癒すものがある。つまり単純に、医者になってもいいのではないか。いや、兎に角、傷を癒す、と、言うのは、どのような職であっても大抵重宝されるのではないだろうか。今更ながら、人生には沢山の選択肢がある事を知ったのだった。大体、あの村に住んでいる以上、選択肢はないも同然だと思っていたのである。
尤もその前に、きちんと三年お務めを果たさなければならないのであるが。大前提である。
「しかし、そのまま神官になる方が殆どですね」
「神官にならない方は、どうするんですか?」
「そういう方は、大体が貴族の方ですから本来の地位に応じた職務に就かれますよ」
一気にクールダウンした。落ち着いたのである。あっ、なるほど……。こんな具合である。
つまり結局、エディットのような平民はやはり神官になるべきだと言っているわけである。それはそう。神官のスキル持ちが神官以外になろうと言うのは、恐らく難しい事なのだろう。大人しく、神官として職務に励みなさいと言う事である。そうでなければ、神官が減る。そうそう自由など、認めるわけにはいかないだろう。
だったらやはり、何としてもこのまま留まるしかないのだ。
立派な神官になり、安定した生活を望みたいところである。
「あの、神官様、やっぱり私このままここでお世話になりたいです」
「暫くご両親と会うことはおろか、帰ることもできませんが、よろしいですか?」
「はい、ケヴィンさんに言伝を頼みますので……」
「手紙を認めていただいても結構ですよ?」
「私も両親も読み書きができませんので」
「では、私から言うことは何もありません。こちらであなたをお預かりしましょう」
「ありがとうございます!」
エディットは、心の中で快哉を叫んだ。
完全にやり切った思いで一杯だった。第一関門を突破した、そういう気持ちである。国の決まりも破らずに済み、後は祈りを捧げるだけである。まさかその、祈りを捧げることが最大関門になろうとは、この時のエディットは想像もしていなかった。
「神官様」
黙って少女と神官のやり取りとみていたケヴィンが、鞄から何かを取り出しながら呼びかけた。小さな巾着袋である。机の上に置くと、じゃら、と、硬い音がした。硬貨だろうか、と、思いながらエディットは、眺めていた。
「これはこの子の両親が、旅費にと用意したものです。帰りは要らないようなので、どうぞ、お受け取り下さい」
そう言うと、机の上でずいっと、差し出すように押した。
エディットは、ハッとした。
何という事だろうか、と。
人が一人増えると言う事は、出費も増えるのだ。本来であれば、その分支払うべきで、しかしエディットは無一文である。だからこそ、何でもすると啖呵を切った。だが、子供が出来る事等たかが知れている。精一杯働くつもりではあったものの、足りるわけがない。それでも、帰りの分の旅費を返してもらおう、等とは全く考えていなかったのだ。何故ならケヴィンも又、あの村にいる以上、裕福ではないと知っていたからである。
エディットは、胸が痛くなった。言葉が出ない。硬貨の入った袋を差し出された神官は、緩く首を横に振った。
「いいえ、これはあなたが持ち帰り、そして彼女のご両親にお返しください。子供を一人預かるくらい、何の負担でもありませんから」
この時エディットが神官を見る眼差しは、正に神を見た時のそれであった。実際に、神を見たことは無いのだが。人間が、出来過ぎていて、若干恐ろしい程だった。初対面の他所の子供を預かるだけでも面倒事であろうに、何も受け取らないと言うのだ。エディットが、どのような迷惑をかけるかも分からないのに、何故笑顔でそう言えるのか。これは、アーローズが凄いのか。それとも、神官とはこういう人間なのか。己もこのようになれるだろうか。
エディットは疑問に思い、いや、そうではない、と、己に言い聞かせた。なれるだろうか、ではない。ならなくてはいけないのだ。無理を言ってまで残る以上、結果を残さなければいけない。
さあ、エディット、覚悟を決めるのよ。
内心で、自分に話しかける。両親と離れ、三年間頑張るのだ。立派な神官になる。それがきっと、色んな人への恩返しになると信じて。
この世に生まれて十年。
これだけの決意をしたことは、なかった。
エディット・マルカンは、覚悟を決めたのだ。己がこの世界で生まれた理由はここから始まるのではないか、と、そんな風に感じていたのだ。誰もその少女の気持ちを笑わなかった。
少女は十歳にして、人生を選択したのである。
始まりには終わりがあり、出会いには別れがある。暗くなる前に街を出る、と、ケヴィンは言った。最早引き止める理由はない。二人で訪れた街から、一人で去ろうとしている。エディットは彼を見送る為に外に出た。街の入り口までも行かず、教会の外で立ち止まる。
「ケヴィンさん、気を付けて。両親に、よろしく伝えてください」
「ああ、必ず伝えるよ。エディちゃん、頑張ってな」
大きな手で、エディットの頭を撫でた。それだけで、涙が滲みそうになり、堪えた。本当はもっと言うべきことがあるのかもしれない。両親に伝えたい事もあったと思う。だが、上手く言葉にならなかったのだ。今生の別れではないのだからそんなに気負う必要はないだろうとも思い、けれど、納得することもできず、唇を嚙み締めた。
少女の気持ちが分かるのか、男もそれ以上何も言わなかった。無言で背を向け歩き出す。きっともう振り返ってはくれないだろうと思いながら、エディットは手を振った。子供がいない分、行きよりも早く帰れるだろう。
この日、エディット・マルカンは神官見習いになったのだ。