06.隣の隣の街に着いた。
エディット・マルカンの人生で、三指に入るであろう快適な目覚めを体験していた。
尤も、快適なのは目覚めだけではない。昨夜、夕食に感動していたエディットは、朝食にも感動していたのだ。パン、卵、野菜、と、言う組み合わせで言えばスタンダードではあるが、エディットの人生には馴染みの薄いものであったが故に、感動したのである。朝食と言うものが何たるかを知ったのだ。大袈裟である。ただ改めて、この村に移住したいと強く思ったのだった。無理らしいのだが。
「さあて、今日中に街まで行くぞー」
そう声をかけながら、ケヴィンがエディットを鳥の背に乗せた。昨日よりは、慣れただろうか。思いながら目を細めた。備えたのである。果たして、鳥の背に揺られて正味二日というのは、近いのか、それとも遠いのか。疑問に思ったが、基準がないので分からない。
昨日に引き続き、本日も晴れであった。天候には恵まれている。日頃の行いだろうか、と、エディットは自分に都合のいい事を思っていた。ケヴィンの可能性もあるのに。隣村から街に向けて出発すると、昨日までと違い、外にいても人の姿を見かけるようになった。流石に徒歩は余りいない。二人のように大きな鳥だったり、馬だったり、様々だ。それでも、人や物の流れがきちんとある事をエディットは何とも言えない気持ちで理解したのだ。村には来ないからである。何故決まった商人しか来ないのか。あの商人は何処から来ているのか。やはり、隣村だろうか。
ふと馬車が見え、あれはお金持ちの乗り物なのだろうか、と、そのような事を思った。完全にイメージである。或いは、公共の交通機関のようなものだろうかとも。不思議だった。十年生きてきて、この世界の事を何も知らない事に今更ながら気付かされたのだ。狭い世界で生きている事を否が応にも実感してしまう。知った方がいいのか、それとも、知らない方が良いのか。何故なら戻る先は決まっているからである。あの村に戻る以上、知らない方が幸せかもしれない。知ったら、きっと、焦がれてしまう。
周囲に配慮してか、鳥も昨日のような速度ではなかった。
だからエディットは、余計に周りを見てしまうのだ。
異世界でも空は青く、雲は白く、風は吹き抜けていく。草は緑で前世との相違点は思いの外少ないのかもしれないと気付く。尤も、魔物はいるし、鳥は大きいし、スキルなどと言う、よく分からないものがある点では全然違う世界に生まれたのだと実感せざるを得ないのだが。
鳥が足を止めた。
時計を持っていないから正確な時間は分からない。少なくともエディットには分からない。だが、ケヴィンが昼だと言うから、そうなんだろうなと思う程度だ。もしかすると、太陽の位置だとか、そう言う事から判断しているのかもしれない。
昼食はパンだった。ロールパンに似た丸いパンに、野菜とハムらしきものが挟まっている。これがまた酷く美味しいものだから、一々贅沢だな、と、エディットは呆れてしまった。そういう感想を抱く自分にも呆れたのだ。貧乏が身に染み付いている。ただ、飲み物は水だ。水だけはふんだんにあるのだ。エディットの父が持たせたからである。
昼休憩を経て少し進んだ頃に見えたものに、エディットは思わず口を開けてしまった。驚きのあまり、口が勝手に開いたのだ。もし歩いていたなら、足も止まっていたに違いない。
門が、現れたのだ。
ただそれは、隣村の物とは規模が違っていた。
大きさは勿論であるが、門だけがあるのではなく、街を囲むようにぐるりと大きな塀が見て取れた。最早壁と言うのが正しいかもしれない。城塞都市と言っても過言ではないような佇まいだ。エディットは想像を超えた景色に、呆けてしまったのである。余りにも、立派過ぎた。
「凄いだろ?」
「すごい」
ケヴィンの言葉に、まるで復唱するかのように応える。
他に言葉が出なかった。凄いの一言である。何と立派な都市であろうか。隣村ですら、エディットからすれば、文明のレベルが違うと感じていたのだ。今度はそれどころか、世界が違うとしか思えない光景だった。
門の前には、隣村同様門番がいた。ただ村とは違い、一人一人と時間をかけて聞き取りをしている。どうやら無条件では入る事が出来ないらしいと知る。鳥から降ろされ、二人で徒歩で近付いた。列を成すほどの人はいなかった。時間帯であろうか。それとも人の出入りはそこまで多くないのかもしれない。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
ケヴィンが門番に挨拶をしたので、急いでエディットも口にした。己の態度は不審ではないだろうかと心配になる。門番は腰に立派な剣を佩いた三十代くらいの男性だった。ケヴィンより若く見える。無論一人ではなく、何人かいる内の一人である。手分けして、聞き取りを行っているのだ。
「こんにちは。今日はどういった用件で?」
「この子が十歳になったので、スキルを見てもらいに来たのです」
「そうなんですか。おめでとう、お嬢ちゃん。お名前は言えるかな?」
「エディット・マルカンです」
「エディットちゃん、と」
言いながら門番が紙に記す。決して威圧的ではない。寧ろ友好的な態度だった。他人が当たり前に文字の読み書きが出来ることに、エディットは不安を覚えた。自分が出来ないからである。このまま生きて行く事に、強い不安を覚えていた。ケヴィンも、読み書きができるだろうか。もしそうであるなら教えて欲しいと思う程には。村から出ずに生きていくなら不要なのかもしれない。それでも、知らないより知っている方が良いに決まっている。
門番がエディットに直接尋ねたのは、名前だけだった。後はケヴィンが答えている。尤も、尋ねる事等たかが知れていた。エディットは、二人のやりとりを黙って見ている。子供が口を挟む場面ではなく、それが分かるくらいにはエディットは、十歳であり十歳ではなかった。村の名前を言った時には、門番が首を傾げているのを見て、辺鄙な所過ぎて分からないのだろうと思っていた。ケヴィンも隣村の名を出し、その更に奥だと説明した。
「随分遠くから来たのですね」
「ええ、しかし教会がある街ではここが一番近いのです」
せめて隣村に教会があれば。きっとそう思うのは、エディットだけではないだろう。余りにも不便である。隣村の子供も、十歳になった時にはこの街に来ているに違いない。教会を建てることは難しいのだろうか。それとも、建物があったとして、神官の方がいないのかもしれない。恐らくワンセットだろう、と、勝手に想像していた。
村の名に聞き覚えが無いからか、最後に門番は村長の名前を聞いた。念の為と言う事だろう。勿論ケヴィンはすんなりと答えて、二人はアグロレーの街に漸く立ち入ることが出来たのである。
「お嬢ちゃん、いいスキルを頂けるように、神様にお祈りするんだよ」
街に入る直前、門番がエディットに言った。にこにこと人好きのする笑みを浮かべながら。まるでそれが当然であると言わんばかりであった。
エディットは首を傾げた。
「ケヴィンさん、神様にお祈りするといいスキルが貰えるんですか?」
「と、言うより、スキルは神様が授けて下さるものだから、普段から祈りを捧げている程いいスキルがもらえるかもって話だ」
エディットは衝撃を受けた。
言わずもがな、生まれてこの方、神様に祈りを捧げたことが無いからである。そもそも、信じていない。前世の記憶が信仰の邪魔をしているのだ。
明らかに、どうしよう、と、顔に書いて寄越したエディットを見て、ケヴィンが笑った。
「そう気にしなくても大丈夫さ。実際そんなことをちゃんとしてるのは、御貴族様くらいのもんだ。平民の俺達にはまあ関係ない。誰だって望んだスキルが手に入るとは限らないもんさ」
突然出て来た貴族と言う言葉に、エディットは目を丸くした。
身分制度に疎かった。今までの人生、前世も含め、身分の差を感じた事がほぼ無かったからである。だが、この世界は違うようである。貴族と平民に差があるのだ。恐らくではあるが。もしかすると先程の門番は、貴族に近い人間なのかもしれない。そのような事が頭に浮かんだ。神に祈りを捧げよと言う言葉が自然に出たからである。貧しい農民には、祈りを捧げる余裕もない。少なくとも、エディットや、その両親にはない。神に祈っても、頼りにならない事は身を以て知っているのだ。前世の感覚に引き摺られている事も一因ではあるが、今一つ信じ切れないでいる。だが、こうして記憶を所持しながら生まれ変わっているのは、神の仕業と言えるのかもしれない。
「休めなくて悪いんだがな、エディちゃん。このまま教会へ行ってもいいか?」
「うん、いいよ」
「そんでな、スキルを見てもらったらすぐに街から出る。悪いな、今日は野宿だ」
「うん、大丈夫」
素直に頷いた。金銭的な不安が理解できるからである。周りを見ても、前の村よりさらに立派で、ついでに物価も高そう。二人が気兼ねなく泊まれるような宿など見当たらない。探せばあるのかもしれないが、その時間が勿体ないと言ったところだろう。