37.やっちゃったのかもしれない。
やはり自分は神官なのだ。
教会へと戻り、着替えたエディットはそう思ったのである。単に、着慣れないワンピースより質素な見習いの神官服の方が身も心も楽なだけである。恐らく今日もうクレマンスに会う事はないだろう。彼方も疲れたに違いない。ただ劇を見に行くだけの筈が、想定外の事に巻き込まれてしまったのだから。勿論、疲れているのはエディットも同じである。ただ、空腹は別だ。カフェに入ったが、あれは食事ではなくおやつだと思っているのである。何にせよ貧乏性なので、金を払わずに食べられるものは食べると決めていた。第一、食べないと育たない。現状、普通の十歳児より小さめなのだ。比べる対象がすくすくと何不自由なく育った貴族のお嬢さんの時点で正しいかどうかは別である。
食堂へと向かう際も、食堂へ辿り着いてからも、エディットを見る他の神官の目は普通ではなかった。それはそうである。皆、見えているのだ。光に交じる水色が。波紋のように広がり、そうして揺れる不思議な色。全くの不可解な現象であった。それでいて、誰も尋ねなかったのだ。聞くのが怖いような、いや、エディット自体が恐ろしいような。同じ神官でありながら、既に異質だったのである。
だが、当の本人は気にせず食事へと向き合っていた。何せ、遠巻きに見られるのは今に始まった事ではない。最初からだ。最初は、全く光が見えなかったことから。次は、矢鱈と光り出したことから。更にその光は増し、今では色まで付く始末。最早どうしようもなかった。この状態のエディットに食堂で話しかけてくる人間は、一人しかいない。
「ご機嫌よう、エディット殿」
同じくらい光っている人間、ルシアン神官だけだ。
「こんにちは」
相変わらずエディットは前を向いたまま答えた。横を向くと、目に異常を来す恐れがあるので。如何にエディットが奇妙に光を放っていようとも、本来の美の前では霞むのである。
「今日は何がありましたか?」
「えっ」
不自然な問いかけであった。少なくともエディットにはそう感じたのだ。だがこれは、最大限の配慮であった。誰しも出来る事なら直接聞きたいところである。その光はどうしたのですか、と。それを一応十歳の見習いが相手だからと、遠回しにルシアンは尋ねたのである。尤も、エディットには己が纏う光がどうなっているかなど分からないので、直接聞かれても困っただろうが。
食事の手を止め、エディットはそれでも前を向いたまま、口を開いたのだ。
「えっと、今日は、クレマンス殿と一緒に劇を見に行きました」
「楽しかったですか?」
「ええ、でも、劇場が壊れてしまって」
ルシアンは眉根を寄せた。劇場が壊れた、の、意味が全く分からなかったからである。劇を見に行くのは分かる。同じ見習いの友人と見に行くのも分かる。だが、劇場が壊れるは分からない。何故なら劇場が壊れる瞬間に立ち会った事がないからである。恐らくそれは、ルシアンだけではない筈だ。
「すみません、エディット殿。劇場が壊れるとは? そう言う演目だったのですか?」
「ああ、いえ。観劇の途中で、柱が一本倒れて来たんです」
「舞台の演出でなく?」
「はい。本当の劇場の柱です。舞台の上に立っていた、大きな石の柱です」
「何処の劇場です?」
「王立劇場です」
沈黙が降りた。
ルシアンは、王立劇場を知っていた。いや、ルシアンだけではない。この王都に住まう人間であれば大抵の者が知っている、古い由緒ある劇場だった。その建物を、数か月前に王都に来たこの少女は意図も容易く壊れた、等と言ったのだ。俄かには信じられない話である。
「柱が一本倒れただけで済みましたか?」
そんな筈はないだろうと思いながら、ルシアンは尋ねたのだ。他に聞き方が分からなかった。或いは、詳しく聞きたくないような気もしていた。何だか、恐ろしい話が始まる予感を覚えていたのだ。エディットが放つ光の揺らぎが、己を試しているような気すらしたのである。
「いえ、跡形もなく無くなりました」
まるで、神の宣告のようだった。
この瞬間、食堂内が全て静まり返ったような錯覚を覚えたのだ。それ程に、衝撃的だったのである。口にした本人は、劇場の最後を思い浮かべながら、後片付け大変そうだな、等と呑気な感想を抱いていたが。
また、沈黙が降りた。
だが、ただの静けさではない。エディットは何も考えていなかったが、ルシアンはそうではなかった。この見習いの言う事が本当であれば、可笑しなことに気付いたのだ。
教会の静けさである。
今この食堂が静まり返っている事とは訳が違う。もし本当に劇場が崩れたと言うならば、教会の方にも知らせがあると思ったのだ。何故なら、怪我人の有無である。建物が、それも、大勢の人間が詰めかけていた建物が突然崩壊したと言うのだ。人的被害もあって当然だった。なのに、教会が静かなのだ。つまり、そう言った要請は来ていないのである。
この見習いが嘘を吐いているとは考えていなかった。短い付き合いだが、エディットがそう言う人間ではないと分かっていた。だが、嘘はついておらずとも、言っていない事はあるだろう。ルシアンは暫し思案し、そうして、意を決したのだ。
「神に願ったのですか?」
エディットが纏う不思議な光、そして、建物が崩壊したと言うのに騒ぎが起こっていない現状を鑑み、答えを出したのだった。
「はい」
案の定、あっさりとエディットは頷いたのである。
実際願ったのは本当だった。ただ、人々を助けたのは神ではなく、エディットだったと言うだけの話である。尤もその力とて、本を糺せば神のものである。つまり、神に助けられたと言うのは間違いではない。しかしエディットが多くを語らないのには勿論訳がある。態々願わずとも、既に賜っていた能力で解決できたことを隠しておきたいのだ。ルシアンからすれば、神の園へと赴くほど人々を助けたいと強く願った事を称賛せずに居られないだろう。勿論エディットだって、そのつもりで願ったのだ。だが結果としては、注意を受け戻って来ただけなのである。しかも、無関係の新たな力を授かって。その事をエディットなりに反省していたのだった。しかも、怒りに任せて、初対面の人に強い言葉を発してしまった事も悔やんでいた。余りにも偉そうだった。今にして思えば、である。後悔は先に立たないのだ。
どうにも浮かない顔をしているエディットを、不思議そうにルシアンは見ていた。
「怪我人等は出なかったのでしょう?」
「恐らく……」
問われて気付く。そう言えば、知らない事を。全員逃げて貰わないと困る、等と偉そうに大口叩いたくせに、確認すらしなかったのだ。正直言うとあの時は、もうどうでもよくなってしまっていたのである。ルシアンは事実確認をしているだけだ。なのに、責められているように感じてしまっていた。浅慮ではないかと。だが、エディットは十歳なのだ。感情に任せて動く事だってある。寧ろ、それが普通だった。こうして落ち込んで、反省している方が、異質なのだ。
「あの、ルシアン殿」
「なんでしょう」
相変わらず前を向いたまま、カトラリーをトレイの上に置き、静かに呼びかけた。
「明日、もう一度劇場の方まで行ってもよろしいでしょうか」
神に誓って、こんな所二度と来ない。そう啖呵を切ったのは、数時間前の事である。神への誓いを破ろうとしている。恐らく、初めて。でも、行かねばならないと思った。劇場が壊れたのはエディットの所為ではない。だがもしそこに怪我人がいたとするならば、それは、エディットの所為だ。明日行ったとて、その場にはもう怪我人等いないだろう。だが、見に行かねばならないと思った。あの時エディットは、振り返りすらしなかったのだ。壊れた劇場を見に行かねばならない。何故か強くそう思った。
決して目を合わせない少女を見定めるようじっと見て、ルシアンは頷いた。
「いいでしょう」
そうして、許可を出したのだ。
見習いである以上勝手は許されない。だが、この少女はただの見習いではない。神に三度も見えたのだ。少女が纏う光には、神の色である水色が揺れている。果たして彼女の行動に意味はあるのか。恐らくそれは、本人も分かっていない。ただ、感情で動こうとしている。明日劇場があった場所へ行ったとして、何も起こらないかも知れない。意味すらないかもしれない。もし先のことを知っているなら、それは、神でしかなかった。エディットは人間である。神を知っている、人間である。




