表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/41

36.観劇より甘味。


 王立劇場から大きな通りを挟んだ向かい側、そこに喫茶店があった。通りに面した窓からは、歴史ある劇場が良く見える。観劇帰りの客が多い店だった。軽食でも取りながら、劇の感想を言い合うのだ。店内は何時も賑わっていたが、この日人々の耳に入ったのは、悲鳴だったのである。それも、複数の。

 窓の向こう、通りの彼方側、重厚な劇場が崩れていくのを客たちは見たのだ。それも、不思議な崩れ方をした。建物の両端から、まるで砂の城が壊れるみたいに、消えて行ったのである。

「アミシー……」

 他の客同様、窓の外を眺めていたクレマンスが呟いた。現状他に縋る相手がいなかったのだ。初めて見る光景に、頭も体も動かない。常に冷静な侍女ですら、目を見開いていた。窓の向こうの景色は余りに現実味がなく、そこにあった筈の劇場は初めから存在しなかったかのように消えた。ただ、瓦礫の山だけを残して。

「どうしましょう」

 手で口元を押さえながら、声を震わせ言った。どうしようもなかった。今出来ることなど皆無である。店内にいた客の数人が、慌てて会計を済ませ出て行った。きっと現場を見に行くのだろう。野次馬か、それとも行かねばならぬ理由があるのか。クレマンスも行かねばならぬと思った。だが、体が動かないのだ。あそこには、残してきた友人がいる。やはり己も残るべきだったのでは、いや、残ったとて何が変わるわけでもなかっただろう。クレマンスが持つ力では、建物の崩壊など止められない。行くべきか、留まるべきか。

 思案していたその時だった。

「お嬢様!」

 珍しくアミシーが、切羽詰まった声を発したものだから、つられクレマンスは身を震わせたのだ。そうして、目を凝らしたのである。何故ならアミシーが、劇場の方を指で示したからだ。

「エディット殿……!」

 相変わらず片手で口元を押さえながら、感極まったようクレマンスはその名を呼んだ。自分が譲った、深緑のワンピースを着た少女が、所在なさげに大通りの方へと向かっているのが見えたのだ。どうやら、崩落に巻き込まれなかったらしいと知り、胸を撫で下ろした。

「お嬢様、わたくしが参ります」

 侍女の行動は早かった。己の主人が落ち着きを取り戻せば、直ぐにでも店を飛び出すと思ったのだろう。クレマンスが物申す前に、席を立ってしまったのだ。そのまま、店員に言付けて出ていく。例え短時間とはいえ、貴族の子女を一人にするのだ。見守る誰かが必要なのである。通りに出て、スカートが足にまとわりつかぬよう両手で少したくし上げながら走った。丁度、馬車は通っておらず、一直線へ劇場があった場所へと向かったのだ。

「エディット様!」

 何処かへ行かれてはたまらないと、声を張り上げた。名を呼ばれた少女が、目を丸くする。だが直ぐに知り合いだと分かったのか、表情を和らげたのだ。

「アミシーさん」

「ああ、御無事でよかった」

「お陰様で。クレマンス殿もご無事ですか」

「はい、彼方でエディット様をお待ちです」

 そうして、視線で、通りに面したカフェを示したのだ。カフェの方からは二人がよく見えているだろうが、エディットの目には余り良く見えなかった。カフェの窓ガラスは、中から外は良く見えても、外から中は見えづらい作りだったのだ。

「あの、エディット様」

「はい?」

 今正に道路へと出ようとしたタイミングで話しかけてきたものだから、足が止まった。丁度少し離れたところに馬車が見える。今渡れば間に合うだろうが、中々危ないかもしれない。だから、止めたのだろうか。ふと、そのような事を思いながらエディットはアミシーを見たのだ。だが、どうにも違うらしいと気付く。何やら、思いつめた顔をしているのである。はて? 内心でエディットは首を傾げた。

「クレマンス様の事を、悪くお思いでしょうか」

「えっ!?」

 思いもよらぬことを言われた。それも、全く前兆なく。ぽかんと口開け、エディットはアミシーを見上げたのだ。これが演技なら大したものだが、残念ながら素である。本気でエディットは驚いているのだ。それが分かったのだろう。アミシーの表情が和らいだ。

「えっと、何かありましたか?」

「いえ、クレマンス様はお戻りになると仰ったのですが、私が止めたのです」

「あっ。す、すみません、私が余計な事を言ったばかりに」

「余計な事、ですか?」

「ええ、聞いてきてください、なんて言わなければよかったなって、後から思ったんです。早く逃げてって、それだけ言えば良かったのに」

 きっとエディットがそう言う言い方をしなければ、クレマンスだって戻ろうとはしなかった筈なのだ。大事なのは、長くもない劇場の先より、友人の命だともっと早く気付くべきだった。その事を悔やんだのである。だから結果として、止めてもらって良かったのだ。これを聞き、アミシーは安堵した。そうして、自分の主人の外での初めての友人が、この少女で良かったと心底思ったのである。エディットの言葉が、平民と貴族との命の差を理解した上でのものか、それとも単に友人としての身を案じたものかは分からないが、何方にせよ正しい選択が出来ることを知ったのだった。

 カタカタと、馬車が通り過ぎてゆく。

 四つ足の馬が引く普通の馬車を見送って、漸く二人は道を渡ったのだった。

「遅いわ」

 カフェに入り、席に付いた二人へのクレマンスの第一声である。思わずエディットとアミシーは顔を見合わせ笑ってしまった。

「すみません、馬車が来ていたもので」

 窓際の席は四角いテーブルで、エディットは主従二人と向かい合って座った。青いテーブルクロスがかけられている。アミシーが店員を呼び止め、何やら注文した。恐らく、エディットの分だろう。礼を言おうとして、ふとクレマンスが黙っている事に気付く。見れば、まじまじと目を凝らすように己を見ていたものだから、不思議に思ったのだ。

「あの、クレマンス殿。何かありましたか」

「こちらの台詞よエディット殿。あなたこそ、どうしたの」

 問われ、目を丸くする。思い当たる節がなかった。いや、失念していたと言うべきか。何せエディット自身に違和感がないのだ。しかし、見る者が見れば分かる。信仰の度合いである。エディットは三度目ともなる、神との邂逅を果たしてしまったのだ。一度赴けば、百年の祈りと同等の輝きを得る、その神の園に三度も辿り着いてしまったのである。その異常さは、神官であれば、一目で分かる。だが、輝き自体は変わっていなかった。既に二百年の輝きを有するエディットの眩しさは相変わらずだが、そこに水色が加わったのだ。まるで波打つように、水色の光が揺れているのである。それこそ、風もないのに揺蕩う、神の御髪のようであった。ただ、自覚はない。

「まあ、何があっても、エディット殿はエディット殿よね」

「えっ」

 返す言葉がないのか、黙るエディットに向かいクレマンスは至極雑に纏めてみせたのだった。会った初日に神の園へと到達した人間である。最早何が来たとして、驚くに値しないと言わんばかりだった。普通の神官ではないエディットに、一番慣れているのは、クレマンスだったのだ。他の神官なら腰を抜かしてひっくり返ったとて、何ら可笑しくなかった。アミシーだけが、不思議そうに二人を見ている。神官ではない彼女に、信仰の光は見えないのだ。

 程なくして、カップが三つ運ばれてきた。それと、エディット用だろう。平たい更に盛られた、クレープの皮のようなものがある。クレープシュゼットに似ている。何方にせよ、現世で見るのは初めてである。自然、エディットの顔が輝いた。甘いものが好きなのだ。しかし、クレマンスが勧めたのは、カップの方であった。

「コーヒーよ」

「コーヒー!」

 エディットは驚いた。確かにカップの中は、黒い液体に満ちている。どう見ても、ホットのブラックコーヒーだった。エディットが知るはずのない飲料である。当然知らないものとして、クレマンスも勧めている。

「飲んで御覧なさいな」

「お嬢様」

 意地悪く目を細め、口角を上げて言った。小声でアミシーが窘めたが、聞く耳を持たない。言われるがままエディットはカップを取り、息を吹きかけたのだ。そうして、少し口に含んだのである。

 珈琲だ。

 確かに、珈琲である。

 エディットが感動していると、呆れたような声がかかった。

「あなた、苦くないの?」

 クレマンスである。この黒い液体の苦みに驚いて悲鳴位漏らすかと思っていたのに、平然と口にしたものだから、実につまらなそうな顔をしていた。悪戯が失敗した顔だった。

「滅茶苦茶苦いです」

 普通にエディットは答えた。大体、エディットは、珈琲が苦い事を知っていたのだ。口に含むと、上顎を刺すような酸味があり、実を言うと苦手だった。でもそれよりも、懐かしさに負けたのだ。このまま飲める気がする。そう思った矢先、砂糖とミルクが目の前に出てきたものだから、笑ってしまった。何処か拗ねた顔でクレマンスが差し出したのだ。素直ではないお嬢さんである。

 次に手を付けたのは、クレープである。おっかなびっくり、ナイフとフォークを手にする。ナイフとフォークで切らなければ食べられないものに普段余り馴染みがないのだ。それこそ先日クレマンスの部屋でご相伴に預かった、肉位のものである。小さく切って口に運べば、甘さが広がった。そう、甘かった。オレンジの気配は微塵も感じなかった。つまりこれは、クレープシュゼットではないのだ。甘いクレープの生地にバターが乗っている、パンケーキのクレープ版だったわけである。何にせよ、美味しいことに変わりはない。

「あなた、美味しそうに食べるわね」

「あ、召し上がります?」

「頂くわ」

「お嬢様」

 行儀が悪いと言いたいのか、アミシーが窘めたが、クレマンスは聞かなかった。それどころか、エディットに向かって口を開けて見せたのだ。食べさせろと言う訳である。そうして、躊躇うことなく、エディットはフォークにちょん、と、刺して、クレマンスの口へと運んだのだった。自然とやってのけたが、お互い初めての事だった。経験と思い出は、こうして増えるのである。

「そう言えば、劇場はどうなったの?」

「無くなりましたね」

「そうだけど、そう言う事じゃなく」

 エディットの返答に呆れてみせた。無くなったのは誰が見ても分かる。聞きたいのは詳細である。でももしかすると、聞かれたくないのかもしれない。劇場が崩壊に至るまでの間に、口にしたくない何かがあったのかもしれない。何せ、神官でない者には分からないが、この変貌ぶりである。クレマンスは話を変える事にした。勝手に気を利かせたのである。

「劇、どうだった?」

 観劇後にすべき、ごく普通の問いかけをしたのだった。しかし、問われたエディットは即座に答えられなかったのだ。劇のことを思い出そうとすると、あの居丈高な主演女優が頭に浮かんでしまった。だが、と、思い直す。

「とても素晴らしかったです」

 感動、したのだ。あの、柱が倒れてくるまで、エディットは見入っていた。それは紛れもない事実であり、普通に劇を見に来た人間にとって、女優の人間性などは二の次なのだ。あくまで、役の彼女を見に来たわけである。それを態々、ちょっといけ好かない感じでした、等と水を差す必要はないのだ。確かにエディットは嫌な思いをした。だが、それは、劇が終わった後の話だ。現実と虚構は、違うのである。マリッタ・ルオナヴァーラと名乗るあの女性は、確かに一流の女優だったのだ。劇場と共に死んでもいいと言ったあの言葉だって、きっと、嘘ではない。ただ、生き延びるチャンスがあるなら其方を掴むだけの事。誰だってそうだろう。死ねばすべて終わりだ。

「また、見に行きたいわね」

「でも、劇場が無くなってしまいました」

「他にも劇場はあるわよ」

 王立劇場は一つかもしれないが、観劇する場所は他にもある。都は広いのだ。ふと、怒りに任せて、こんな所二度と来ません、等と啖呵を切ってしまった事を思い出した。思えば、劇場の崩落が著しい速さで始まったのは、あの後である。余計な事を言っただろうか。だが、エディットの宣言と劇場の崩落は無関係である。その筈だ。それでも、例え他の劇場であっても、暫く観劇はいいかな、と、思ったのだった。結局のところ、余りいい思い出にはならなかったのだ。このカフェの方がずっと、いい思い出である。

 借りを作るばかりではいられないと、カフェの支払いはエディットがした。だが、硬貨を財布から出す際、今生の別れのような苦悶の表情を浮かべたものだから、クレマンスは呆れかえったのだった。きっと次の支払いは、アミシーがするだろう。

 帰りの乗合馬車で、エディットは眠ってしまわぬよう細心の注意を払った。乗り心地は教会の馬車の方が上だが、一定の速度で揺らされると、睡魔が手招きしてきたのだ。これはマズイ。一先ずエディットは神に祈りを捧げることによって、眠気に抗ったのだった。酷く人間味のある、神の呆れ顔が脳裏に浮かんだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ