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35.他人の誇りで飯は食えぬ。


 声のした方へと視線をやれば、見知らぬ男性がいた。相手も不審げな顔を隠そうともしない。それはそうだろう。どう見たって今のエディットは不審者である。

「もう公演は終わったんだ。誰も戻ってこないよ。早く出て行きなさい」

 男はどうやら見回りのようだった。こうした不審者が時折いるのかもしれない。だが、エディットは不満げに顔を顰めたのだ。此方とて、いたくているわけではないと、そう言外に告げるように。

「出て行ってもいいのですね」

「当然だろう。早く出て行きなさい。つまみ出されたくなければね」

「では、この劇場の責任はあなたが取ると言う事でよろしいですね、ビョルクさん」

 いつになく喧嘩腰で、そうエディットは告げた。知るはずのない名を口にして。男が目を丸くした。

「何処かで会ったことがあったかな」

「いいえ、初対面です」

「では何故俺の名を知っているんだ」

「私には、神から授けられた力があるのです」

 そうしてエディットは、男の頭の上を見た。そこには、名前が浮かんでいる。コーレ・ビョルク。だが、エディットにしか見えないのだ。エディットが神に望み、授けられた力だった。初対面と思しき少女に突然名を呼ばれ、男は警戒を強めた。

「君は一体なんだ」

「私は神官見習いです。今私が此処から去れば、あの柱は倒れます」

 だがビョルクの態度など意にも介さず、長話をする気すらないと言わんばかり、あっさりとエディットは言ってのけたのだった。あの柱。その言葉が示すものが何か、男は直ぐに理解した。今にも倒れそうで、だが、何故か倒れない不思議な柱である。

「待て、あの柱を止めているのが君だと?」

「そうですよ。御覧になりますか」

 言った直後、ぐらりと柱の傾きが一層強くなった。最早天井とは完全に離れている。崩壊は時間の問題だった。柱が傾くと共に、何らかの破片が落ちてきた。舞台にバラバラと当たる。男がギョッとした。

「待ってくれ!」

「はい」

 そうして、エディットの返事ともに、崩壊は一先ずストップしたのである。男が荒い息を吐いた。少女を見る。涼しい顔をしている。信じられなかった。何か出来の悪い白昼夢でも見ているような気持ちだ。だが止まっていても、夢は醒めないのだ。何せこれは、質の悪い現実だからである。

「そのまま待っていてくれ!」

 大声を吐く。その勢いのまま、走り出した。狭い通路を全力で駆けて行く。その様を見ながら、エディットは溜息をついたのだ。とっとと帰りたかった。この劇場はきっと古く歴史がある。そう簡単に壊すことが出来ないのも分かる。でも、エディットに建物を修復するような力はない。精々こうして、崩壊を一時的に止めるのみである。

 エディットを残して去った男は、薄気味悪い思いを抱きながら、ある人間の元へと駆けたのだった。その男の居場所は分かっていた。演目が終わり客が出ていくのを、何時もロビーで見ていたからだ。王立劇場、当代の支配人である。この劇場を誰よりも思っている人間だと言って過言ではなかった。だがその男は、誰かと話している真っ最中だったのだ。ビョルクは顔を顰めた。どうにも先程の得体の知れぬ少女と同世代の、やはり少女だったからである。ただこちらの方が年嵩だろうとも思ったのだ。

「ですから、中にわたくしの友人がおりますのよ。彼女が今一人で、劇場の崩壊を止めているのです」

 近くまで寄れば、話の内容が嫌でも耳に入った。もう我慢ならぬと飛び出していきそうな程、真に迫った様相で少女は食って掛かっている。その気持ちが分かったものだから、目を丸くしたのだ。何せビョルクの用件も同じだったからである。

「小さなお嬢さん、残念だがそんな話は信じられない」

「信じようと信じまいと本当なんです!」

「そう、彼女の言う通りです支配人」

「なんだと?」

 すぐさまビョルクは援護に回った。今正に同じ事を、支配人に言いに来たのだ。

「中に一人少女が残っています。彼女が一人で、劇場の崩壊を食い止めています」

 そうして、同じ事を言ったのだ。初対面の子供の言い分は聞かずとも、顔馴染みの話は別なのだろう。支配人が、表情を変えた。

「笑えない冗談だ、ビョルク」

「冗談かどうか、どうぞ、御覧になって下さい。恐ろしい少女がいます」

 それはビョルクの正直な気持ちだった。にこりともせず、寧ろ親の仇でも見るような目で見てくる少女が恐ろしかった。こうして離れて考えてみれば、如何にも普通ではなかったのだ。どう見ても十にも満たぬ子供である。それが怯えるどころか堂々と意見してくる。いや、この大の大人であるビョルクを脅したのだ。この劇場の責任を取るのか、と。

 コーレ・ビョルクの顔が強張っていたものだから、流石の支配人も只事ではないと思い始めた。誰もいないであろう劇場内へと踵を返したのだ。これにクレマンスは続いた。

「これ以上はいけません、お嬢様」

 だが、侍女に止められたのだ。

「でもアミシー、中には未だエディット殿が残っているのよ」

「はい。それでも許可できません。クレマンス様に何事かあれば、私は子爵様と奥方様に顔向けできません」

 硬い表情で、はっきりと侍女は言い切ったのだった。これに反論できる言葉をクレマンスは持っていなかった。だから、下を向いて黙り込んだのだ。クレマンスは貴族の令嬢だ。対するエディットは只の平民。何方の命が重いかなど、論ずるまでもなかったのだ。

「どうしても、と、言うのであれば、このアミシーが参ります」

「いいえ、その必要はないわ」

 弱弱しくクレマンスは首を横に振ると、出口へと向かったのだった。こうなるともう、祈るしかなかった。祈りは神官の得意とするところではある。だが、誰に何を祈っていいのか、今のクレマンスにはよく分からなかった。

「少し離れたところで待っているのはいいかしら」

「勿論です。カフェに入るのはどうですか」

「そうね、きっと、エディット殿もお腹が空いたって戻ってくるわ」

「席を取っておきましょう」

 クレマンスとアミシーが劇場から離れた事を知ったなら、きっとエディットは喜んだだろう。自分の言葉を悔いていたからである。そのエディットはやはり前を見据えて、一人席に座っていたのだった。最早特等席にも見えてくる有様。一番劇場の崩壊が奇麗に見える可能性がある。質の悪い冗談を浮かべていると、人の声が聞こえた。

「お嬢さん、此方が支配人だよ」

「こんにちは。ルボシュ・チャペックさん。エディットと申します」

 出し惜しみなどするまいと、またもやエディットは知るはずのない名を諳んじてみせた。支配人が眉根を寄せる。

「私はあなたの事を信じてはいないのだがね」

「別に信じてもらわずとも構いません。じゃあ今から壊しますね。いえ、壊す、と、いう言い方はおかしいですね。私が何もしなければ、勝手に壊れるのですから」

 言うや否や、エディットは、ふい、と、視線を逸らした。恰も突然支えを失ったかのように、ぐらりと一本の柱が不安定にも揺れ、それまではゆっくりに見えていたものが突如速度を増し、その場にいた人間は全員首を竦めたのだ。ドォン、と、けたたましい物音が響いたのである。

 とうとう柱が、舞台に激突したのだ。

 その一本を皮切りに、次々倒れだす。天井が崩壊する。破片が飛ぶ埃が舞う。余りにも想定外の出来事に大人たちは呆け、だが、このままでは自らの命すら危ういと漸く悟ったのか、口を開いたのだ。

「待ってくれ!」

 建物の崩壊を止めながら、エディットは思った。待つとは一体。しかし現にこうしてあらゆるものは動きを止めたのだから、正しいのだろう。尤も一番待ちたくないのはエディットである。このままでは、巻き込まれる事は必至だ。

「君を信じる。信じよう」

「いえ、信じてもらわなくてもいいのですが」

 困惑しながら答えた少女に、これはまずいと大人たちは更なる焦りを見せた。誰が見ても分かる。エディットがどうでもいいと思っている事がである。この劇場に歴史がある事は分かるのだ。王立、と、冠している事から権威もあるだろう。しかしそれだけだ。今のエディットには劇場に対する思い入れも思い出も何もない。寧ろ悪印象だった。何せ初めて来て、これである。訪れたその日に、劇場の崩落に巻き込まれる等想像しろと言う方が無理であった。逆を言えば劇場の方は運がいい。エディットがいたお陰で、今の所怪我人はいないのだ。何か大きな力が働いている、そう、解釈してもおかしくなかった。所謂、神の力、運命である。余りにも出来過ぎている展開だった。

 待てと言われので、渋々エディットは動きを止めた。そうして、大人たちと向き合ったのだ。だが、言葉が出ない。何方からもである。此処からどうすればいいかなど、誰にも分からないのだ。エディットの方はさっさと帰りたい。劇場側からすれば、出来るだけ壊したくない。折り合いがつかない。睨み合いを終わらせたのは、第三者の声だった。

「支配人!」

 人の声は一人だった。だが、足音は複数である。エディットは顔を顰めた。まだ逃げていない人間がこれほどいると言う現実に嫌気がさしたのだ。恐らく先程の物音に驚いて、ホールへと向かってきたのだろう。舞台の上は立ち入ることが出来る状態ではなかった。嫌々見れば狭い通路で、人一倍輝きを見せる女がいた。主演女優だ。未だに、檸檬色のドレスを着ていた。まるで役そのままで現れたみたいに、現実味がない光景だった。

「おお、マリッタ!」

 支配人が心底安堵したように呼んだ。どうにも、心酔しているか信頼しているかのどちらからしい。エディットは女優の頭の上を見た。テルヒ・パレンと書かれている。全然違う。成程、この世界にも芸名ってあるんだな、と、そんなことを思った。

「これは一体どういうことですか? あら? 何なのあなた。子供がいつまでもいていい場所じゃないわよ。さっさとお帰りなさいな」 

「はいそうします。さようなら」

 居丈高に言われ、あっさりとエディットは頷いた。最早願ったり叶ったりである。当然これに焦ったのは、支配人の方だ。

「待ちたまえ!」

 まるでその言葉が合図であったかのように、劇場が振動した。大きな物音が響き、場にいた全員が目を閉じたり首を竦めたりしたのだ。咄嗟の恐怖から出た仕草である。

「な、何なの一体!?」

 女優が狼狽える間にも、柱は崩れ、天井が崩壊していく。

「頼む、待ってくれお嬢さん!」

 支配人が切羽詰まった叫びを発し、漸く音は止んだのだ。シン、と、静まり返った劇場内で、誰もが異常さに気付く。

「これは一体どういうことだ?」

 恰も芝居がかった物言いで、男が言った。女優もいれば、男優もいるのだ。

「いや、分からん。急に劇場が崩れ出したんだ」

「老朽化でしょう」

 分からない、等と曖昧な事を大人が言ったので、子供は訂正した。どう見ても古い。きっと、いつ崩れたとて可笑しくない状況だったのだ。それが今日訪れた。そんなところだろうと踏んでいたのだ。恐らくこの中で一番冷静だった。気味が悪い程に。

「いつから?」

「いつからかは存じませんけど、柱が倒れてきたのは劇の途中でしたよ。皆さん、ご覧になったでしょう」

 舞台の上からね。心の中で付け加える。だが口に出さずとも伝わったのだ。皆がその柱の方を見たからである。尤も既に倒れた後であった。割れて、舞台の上に転がっている。オーケストラピットまで巻き込んで。

「だったら神のお陰じゃなかったのね」

「は?」

 この世界に生まれてから、一番冷たい声が出た。そんな風に思った。

「だって、あなたの仕業なんでしょう?」

 エディットは神官である。必然、周りにいる人間は皆、神を信じるものばかりであった。神を軽視する人間など、いなかったのだ。だが、世の人間が全員そうではないことを恐らく今知ったのだ。

「神様のお陰ですよ。私の力は神様に頂いたものなので」

 神はいる。それをエディットは知っている。けれど、此処で今その事を力説したとて、きっと通じない。悲しいかなその事が分かってしまい、だがそれでも、神の存在を主張しないわけにはいかなかった。

「あらそう。でもあなたに礼を言うわ。ありがとね」

 かなり上から目線だった。どう聞いても、礼を言っているようには聞こえなかった。しかし、エディットが一番腹に据えかねたのは、その次だったのだ。

「最後まで演じ切ることが出来たわ」

 誇らしげにそう言ったのである。

 別にエディットは、女優の言い分が分からないわけではなかった。今日観劇をしにきた人々にとって、この女性の行動こそが正しかった。金を払って、態々見に来たのだ。最後まで見たいに決まっていた。だから、腹を立てているエディットの方が、勝手なのだ。

 それでも、早く逃げて欲しかった。

 その為に己は、神の元まで行ったのだ。神に縋ったのだ。恐らく、その行動に報いが欲しかったのだ。理解はできる。だが、納得は別。そう言う事である。

「……いつ柱が倒れて来るとも分からないのに、逃げようとは思わなかったのですか」

 まるで呟くように言葉が口を突いて出た。聞かなければいいのに、聞いてしまったのだ。相手は、子供の質問を鼻で笑ったのである。

「私は、マリッタ・ルオナヴァーラよ? 舞台の上で死ねるなら本望だわ!」

 何やら劇の一部に巻き込まれたらしい。そんな事をエディットは思った。マリッタの宣言を聞き、周りにいた人間が、おお、と、感嘆の声を上げる。何だか酷く馬鹿らしくなって、エディットもまた、鼻で笑ったのだ。

「素晴らしいですね。では、私はこれで。さようなら、テルヒ・パレンさん」

「え?」 

 劇場と生涯を共にどうぞ、とまで言わなかった事を褒めて欲しい。そんな事を思いながら全く未練はありませんとばかり、エディットは背を向け歩き出したのだ。響き出した轟音は、恰もエディットの退場曲のようだった。美しさも何もない、ただ耳障りなだけの恐怖を与える音である。

「お、お待ちなさい!」

 まだ何かあるのかと、うんざりしながら振り返る。音が止んだ。檸檬色のドレスの女性が、山ほど文句があると言いたげな顔で立っていた。だからエディットは言ったのだ。

「幾らあなたの決意が素晴らしくとも、私は巻き込まれて死にたくありません。死にたい方は残ればよろしい。でも死にたくないなら、早く逃げた方がいいんじゃないですか」

 この言葉に、マリッタに心酔している人々はとても気まずそうな表情を浮かべたのだ。暗に死にたくはないと言っていた。それとこれとは、別問題だとも。人間とは面倒な生き物なのだ。

「あなたに女優としての矜持があるように、私にも神官としての誇りがあります。だから全員助かって貰わないと困るんです」

 何せそのために、二度と来るなと言われていたにも関わらず、神の園まで行ってしまったのだ。尤もこれは単に本人が抜けているだけである。最初に授かった力の事を思い出していれば、そのような愚は犯していない。八つ当たりと言えるかもしれなかった。

 再度静まったホールで、睨み合っていたのはエディットとマリッタだ。だがそこへ、もう一人違う女性が首を突っ込んできたのだ。エディットの記憶には余りないが、三番手位の女優だった。

「アンタが引き起こしてるんじゃないの!?」

 しかも、堂々とエディットを責め立ててきたのである。完全にお門違いであった。

「何のために?」

 全く疚しい事など無かった。だから冷静にそう言い放ったのだ。

「この劇場を壊して、私に何の利があるんですか。今日初めて来たんですよ。友人に誘われて、楽しみにしてきたんですよ。それでこの仕打ち? どうしてこんな目に遭わなければいけないんですか? 聞きたいのはこっちですよ。大体こんな大きな建物が急に壊れる訳ないでしょう。普段から点検してましたか? 異変を見逃していたんじゃないですか? これだけの人々が、命まで懸けると仰る方がいて、本当に今日まで何一つとして気付かなかったのですか?」

 一気に責め立てた。子供に真っ直ぐ問い質され、大人たちが視線を彷徨わせた。これだけで察せられる。何かしら、気付いていたことがあったのだと。なのに己を責め立ててきたことに我慢がならず、エディットは大きく息を吸ったのだ。

 この劇場に、いや、この世界全てに宣言してやるような気持ちで、言い放つ。

「神に誓って、二度とこんな所には来ません!!」



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