34.困った時の何とやら。
人間本当に困った時、頼りにするのは果たして誰であろうか。己自身だと言う者もいるだろうが、大抵、自分より確実に問題を解決できる相手を選ぶのではないだろうか。それは、エディットにとって、神であった。今まで二度助けて貰っている。どうしようもない時、心から祈ったその時、神は応えてくれるのだ。
但し、二度と来てはいけないと注意されていたのである。
エディットは三度目ともなる神の園で、やはり、地に額を擦り付けていたのだった。
「エディット」
神様も溜息って吐くんだな、そんな現実逃避染みた事を思う。現世から離れたからか、幾分エディットは落ち着いていた。何せ此処には、倒れてくる柱はないのだ。
「あの、神様、大変申し訳ありません。ですがあの、今回に限っては不可抗力だと思います」
神相手に堂々と、偉そうに不可抗力だなどと述べたのだった。何故なら人命がかかっているからである。自分だけなら未だしも、隣に座っていた友人とその侍女だって巻き込まれるのだ。割かし舞台に近い所に座っていた。逃げるにしても、時間がかかる。だったらやはり、神を頼るしかなかった。これが出来るのは、エディットだけだ。
「エディット、何もあなたの人を助けたいと思う心を責めているわけではありません」
「では、助けて下さるのですか」
「いいえ、エディット。あなたはもう、望む力を持っているのです」
「えっ」
思わず、咄嗟に顔を上げてしまった。人の姿をした神は、静かにエディットを見ている。但し目には呆れが見て取れた。意外と表情があるのだな、と、至極失礼な事を思ったのだ。因みにエディットの感想など全て筒抜けである。
「分かりませんか、エディット」
「はい。私にある力は、神官の能力と水と光のスキルです」
言いながら考えていた。水で何とかするのだろうか。水浸しにする? 何の意味が? 例え光を放ったところで、明るくなるだけである。では、神官としての力はどうか。怪我人が出たら癒せるかもしれないが、命を落としては無理である。聖水など、この場では何の役にも立たないだろう。本当に、場を切り抜ける事が出来る心当たりがなかった。やはり、神を頼るしかないと言う結論に至る。
「お願いします神様。どうか助けては頂けませんでしょうか」
再度頭を深く下げた。因みに最初からずっと、正座である。
「わたしは既に二度、あなたに力を授けました」
「はい」
これは、いい加減にしろと言うお説教だろうか。そうだろうな。全てを受け入れるつもりでエディットは首を垂れている。ただ、何を言われたとて、助けてもらわねばならない。自分だけなら未だしも、沢山の人間があの場にはいるのだ。見殺しになど出来ない。
「最初は何でしたか」
「雑巾を浮かせて高い所を掃除する力です」
「違います」
「えっ」
「アッ、雑巾が二枚って事ですか」
「違います」
「えっ」
エディットは又もや顔を上げてしまった。そうして、ポカンと呆けたのだ。対する神は酷く渋い表情を浮かべていた。物分かりの悪い子供を前にした、大人の表情だった。これはまずい。エディットは思い出そうとした。一体何の力だったかである。掃除にしか使っていないものだから、雑巾限定の能力だと勝手に思い込んでしまっていた。だが、そうではない。
「わたしがあなたに授けたのは、物を浮かせ自在に動かす力です」
そうではないのだ。漸くエディットは、神が言わんとすることを理解したのである。物を浮かせ、自在に動かす力。雑巾だ等と限定していないのだ。つまり、何だっていいのである。それこそ、倒れてくる柱だって可能な筈なのだ。やったことはないが。何せ、出来るとも思っていなかったのである。
「エディット、あなたには落ち着きが足りないようです」
「仰る通りでございます……」
ぐうの音も出なかった。エディットが、神に与えられた能力をしっかりと理解していたならば、態々頼る必要もなかったのである。
「あなたがわたしの元を訪れたのはこれが三度目です」
「はい」
「前例がありません」
「えっ」
「決してよいことではありません」
まるで不吉な予言を耳にしたような気持だった。心がざわついたのだ。これ以上はいけない。確実にそう釘を刺されたのである。落ち着きが足りない、と、言われたのは警告である。すぐさま神を頼るのではなく、一旦立ち止って考えろと言われている。何せ既に二度も能力を授けられているのだ。それで大抵はどうにかなるし、どうにかすべきだと言われていた。十歳のエディットには過ぎた力だった。
「では、エディット、望みを」
「えっ!?」
最後にそう付け加えられ、エディットは大層驚いたのだった。
「どうしましたか」
「いえあの、既に助けて頂きましたし、望むものなどないのですが」
「決まりです」
「アッハイ」
心底エディットは困っていた。神に助けてもらうつもりで、神を呼んだのだ。そうして見事、神の園に辿り着いた。結果、既に与えられた能力で何とか出来ると教えてもらった。もう、望むものはない。なのに、何かを願えと言うのだ。エディットは困った。どうしよう、何も思いつかない。
「あの……念じたものを紙に写す力って貰えますか……」
結果頭に浮かんだのは、何故か、劇場のロビーの売店で見た、姿絵だったのだ。この世界には写真がない。人の姿を残すには、絵として誰かが描かなければいけない。でもエディットは別に絵が描きたいわけではない。だから、絵のスキルを貰っても使わないだろうと判断したのだ。それで出てきたのが、念じたものを紙に写す力である。念写と言えるかもしれない。ただエディットが思う使い道は、単なるカメラの代わりであった。
「ではその力を授けましょう」
「ありがとうございます」
再度深々と頭を下げた。使い切れない能力が増えていくな、と、思いながら。贅沢な悩みである。
「エディット」
「はい」
「人は必ずしもあなたが思うように動くわけではありません」
「はい」
「喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、あなたはこれからも沢山の感情に突き動かされるでしょう」
「はい」
「ですが、程々にしなさい」
「程々に、ですか」
「余りにも強い感情を抱くと、あなたは直ぐにわたしの元へと来てしまうようなので」
「アッハイ」
とはいえ、エディットはたかだか十歳である。タガが外れる事など、大いにあるだろう。先の事は分からない。だが、こうして注意された以上気を付けようとは思ったのである。
目の前に紙があったなら、直ぐにでも新しい力を試したかもしれない。
だが残念ながら、そう言う空気ではなかった。そう言う場所でもなかった。エディットが気付いた時、其処はもう神の園ではなく、今にも倒れそうな柱が目に映ったのだ。
浮いて!
咄嗟にエディットは強く念じた。傾きかけた柱を睨みつけて、息を呑んだ。倒れかけた石の塊は、空に浮いたりはしなかった。だが、不安定なまま、確かに動きを止めたのだ。まるで、そこだけ時間が止まったようだった。このホールの中にいる全員が、不思議な演目の一部になったかのように、息を止めた。柱は、倒れない。
「おお! 神よ!!」
えっ?
一際大きな声が、舞台上から聞こえた。檸檬みたいな色のドレスを着た美人が、大袈裟な身振りで神を讃えたのだ。それが全ての合図であったかのように、指揮者がタクトを振り上げた。
えっ?
エディットは困惑している。柱は止まっている。楽器が鳴った。演者が歌う。
まさか、続行するの?
倒れかけた柱は何故か止まっている。ならば好機とあらんばかりに、演目が再開したのだ。それに沸いたのは客席である。大きな拍手が響いた。正に神の奇跡を讃えるかのような熱気に包まれる。エディットだけが醒めていた。柱を、建物の崩壊を止めているのはエディットなのだ。最後まで上演させるために止めたわけではない。この場にいる全員の命を助けるために、神の園まで行ったのだ。こんな風に、舞台装置の一つとなりたかったわけではない。早く逃げて欲しいのだ。何時までもつか分からないのだ。でも、声が出ない。盛り上がり始めた舞台を止められない。演奏が耳障りだ。既に話はクライマックスだった。今日一番の盛り上がり。エディットの気持ちは下へと向かっている。面白くない。こんなにもつまらない気持ちは初めてだった。苛立ちが募る。早く逃げて欲しいのに、誰も動かない。
最後に、一際大きな拍手が響いた。
「ありがとうございます! 皆さま! 神様!」
「これは、奇跡です!」
そうでしょう。奇跡でしょうとも。神の力ですよ。投げやりにエディットは内心で呟いたのだ。顔を顰めて唇を噛んだその時、ぐらりと柱が動いた。
「逃げて!」
舞台上の誰かが叫んで、咄嗟にエディットは、浮いて! と、内心で叫んだ。そうして、また、柱は止まった。エディットは思った。だから、いつまでもつか分からないと言っているでしょう! 別に言ってはいない。苛々しながら心の中で呟いているだけだ。そうして、また柱が止まったものだから、人々も息を吐く。もう悪循環だった。
「クレマンス殿お願いがあるのですが」
とうとう小さな声で、エディットは話しかけたのだ。演目は終わっている。口を開いてもいい筈である。これにギョッとしたのはクレマンスだった。エディットが酷く暗い目をしていたからである。こんな顔は見たことが無かった。
「この建物、壊していいですかって、誰かに聞いてきてはもらえませんか」
「えっ」
そうして、酷く驚いたのだ。自然と目が、倒れかけた柱へと向く。
「あれ、あなたが止めているの?」
「雑巾と同じです」
酷く端的な物言いは、その実クレマンスにしか伝わらないものであった。この力を一番近くで見てきたのは、クレマンスなのだ。まさか、雑巾以外にも応用が出来るとは思っていなかったが。その点は、エディットと同じである。上演が終わったので、人々はようやく動き出していた。本来なら幕が下がるところだろうが、柱の件があるからか、そのままだった。もし幕が下りていたら、柱は倒れていたかもしれない。エディットの視界から消えたその時、幾ら念じていたとしてもどうなるかは、分からないのだ。
出口へと向かう人の波に乗って、クレマンスはアミシーと共にロビーへと向かっていた。
「アミシー、この場合、誰に話をすればいいのかしら」
劇場の崩壊を許可できる人間が誰かなど、分からない。だがあのままエディットを放っておくわけにもいかない。何より、やりかねない空気があった。何時もなら絶対にしないだろうに、今日に限っては様子が可笑しかったのだ。
ホールから人々が出ていき、とうとうエディットは一人になった。ぽつんと席に座っている。まるで、劇場内に現れるそう言う幽霊のようだった。歴史がありそうな建物である。そう言った不思議な話には事欠かなそうな。だが現実問題、エディットは生きている。相変わらず仏頂面で、静かになったホール内に存在しているのだ。既にオーケストラピットも、舞台上にも誰もいなくなっていた。一人になって考えた。クレマンスに、余計なことを言わなければよかったと。冷静ではなかった。苛立っていたのだ。だから、劇場を壊す許可を取って来てくれ、等と言ってしまったのだ。もっと言うべきことは他にあった。戻ってこないで下さい。これである。しまった。完全なミスだ。はあ、と、息を吐いたその時、変化が訪れた。
「何をしているんだ君」
人の声が耳に届いたのである。




