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33.初めての観劇。



 とうとうこの日が来てしまった。

 乗合馬車に揺られながら、そんな事を思ったのだ。勿論、見知らぬ誰かと馬車に乗ること自体、初めてである。前世で言うところのバスだな、と、思った。でも、想像よりも窮屈ではない。席の話である。服は窮屈だった。目に入るのは、深緑だ。本来であれば、濃紺の筈だった。以前クレマンスに貰ったワンピースは、濃紺である。なのに今日は深緑なのだ。勿論、エディットが持っている筈もない物である。つまり、買うか譲られなければ、手元にないのだ。

 ふと脳裏にその時のやり取りが浮かんだ。

 思い返せば何時だって、この貴族のお嬢さんは唐突なのだ。

「エディット殿、劇を見に行くわよ」

「クレマンス殿、予告って知ってます?」

 普通の事を言っているつもりだった。しかしクレマンスが、この子は何を言っているんだろうと言う顔をしたものだから、エディットは諦めたのだ。敵うはずがなかった。

「今日はね、これを着て行きなさいね」

「いえ、以前に頂いたもので十分です」

「エディット殿、あれは、夏物よ。今って秋なの」

「一緒ですよ」

「アミシー」

「はい、お嬢様」

 残念ながら、端からエディットの言い分など通るわけがなかったのである。そうして用意されたのが、深緑のワンピースだった。ワンピースであった事に少しホッとした。もしかすると、ドレスでなければいけないのではないか、と、そんな心配をしていたのだ。どうにも格式が高そうなので。ただエディットが分からないだけで、このワンピースがとんでもなく高価なものの可能性もあるわけだが。相変わらず服に着られている状態のエディットに向かい、クレマンスが言った。

「あら、素敵なポシェットね、エディット殿」

「ありがとうございます。頂いたんです」

「あなたって、人から物を貰うのが上手なのね」

 このクレマンスの一言は大いに刺さった。しかも事実である。だが、人から物を貰うのが上手と言うよりも、エディットの周りに優しい人が多いだけなのだ。つまり恵まれている事に違いは無いのだが、恐らく施さずに居られない程、見すぼらしく見えるのだろうと思っていた。概ね事実である。貧相で可哀相な少女なのだ。

「いつか、クレマンス殿にも返しますからね」

「楽しみにしているわ」

 挑むように告げた言葉も軽くあしらわれたのだった。敵わない。

 そうして、新しく貰ったワンピースを身に付け、馬車に乗っているわけである。歩く距離ではないと言う事だろう。今日は侍女のアミシーも、仕事服ではなかった。クレマンスと同じくらい、上流階級の女性に見える。事実、貴族の出なのかもしれなかった。侍女が平民とは限らないのである。

「どう、エディット殿」

「全てが目新しくて辛いです」

「意味が分からないわ」

 分かる筈がなかった。此処に座っているだけで、世間知らずの田舎者であることをまじまじと突き付けられているような気がするなど、絶対に理解されない感覚だった。乗合馬車は、広く、縦に長い。でも乗り心地は、教会の馬車の方が上だな、と、そんな風に思ったのだ。

 この世界の平日と休日の概念が未だにエディットは分からないのだが、劇場には沢山の人が訪れていた。まずエディットは外観に圧倒された。教会も相当だが、王立と言うだけあって、それはもう大きくて立派だったのだ。前世のバロック建築を彷彿とさせる重厚な佇まいだった。ポカン、と、見惚れていると、クレマンスが口を開いた。

「はい、エディット殿、チケット」

「えっ」

「エディット殿、チケットがないと見れないわよ」

「いえ、それは知っていますが」

 驚いたのは其処ではない。今から買うと思っていたのだ。まさか既に用意してあるとは思わない。エディットは困惑しながら受け取った。

「あの、クレマンス殿、私支払ってないんですけど」

「その内頂くわ」

 借りばかりが溜まっていく現状に恐怖を覚え、顔が引き攣ったのだった。もう少しお金が溜まったら、纏めて返そう。こまめに返していかないと、大変な事になるに違いない。最悪、お嬢さんではなく、侍女の方に渡そう。きっとクレマンスは些細な事は覚えていないに違いないのだ。でも、侍女は違う。覚えている筈である。把握していて欲しい。勿論、エディットだって日記に書いてはおくが。

 劇場内にはロビーがあって、売店もあった。別に食べ物が売っているわけではない。遠目に見たが、どうやら、演者の姿絵が売っているようだった。世界が変わっても、こういうところは同じなんだな、と、思ったのだ。実際の劇場がどうであるかは別として、好きな俳優のプロマイドを買う行為は前世にもあった。恐らく写真は無いので、本当に絵なのだろう。少し見てみたいな。思うだけである。演者よりも、絵の方に興味があった。今まで、そう言ったものに触れる機会がなかったのだ。しかし言い出せず、そのままホールに入ったのだった。

 円形のホールには舞台の前にオーケストラピットがあり、歌劇場だと分かった。客席も平面の他に、壁面に張り出したバルコニー席がある。如何にもお高そうな席だ。エディットの席は、オーケストラピットの少し後ろだった。演奏は良く聞こえそうである。

 折角来たのだから、値段の事ばかり気にしているのは勿体ない。

 ホールの中は薄暗く、外の明るさとは全く違い時間の感覚を失くした。昼でも夜でも、舞台には関係が無いのだ。

「楽しみね」

「うん」

 クレマンスの言葉に素直に頷いて、程なくして舞台は幕を開けたのだった。

 案の定演目は、歌劇だった。エディットは全てに見惚れていた。舞台装置から、俳優から演奏から、そうして、演技、歌全てが別世界の産物だった。一人の美しい女を巡る、複数の男たちの攻防が描かれていた。言い争ってみたり、剣を振るって戦ってみたり、かと思えば歌を披露し、如何に自分こそが相応しいかを示してみせた。男と女が複数いて、そこに愛と憎しみが渦巻くならば、如何様にも事件は起こるのだ。エディットには縁がない世界の話だ。大体未だ十歳である。愛も恋も分からない。でも憧れや好きは分かるのだ。男が愛を口遊めば、女も歌で応える。男が踊り手を出せば、女もまた手を取り踊るのだ。場面は車窓から見る景色のように変わっていき、決して飽きる事は無かった。ぼうっと、エディットは見惚れていた。舞台は酷く奥行きがあって、まるでダンスホールを半分に割ったみたいだった。それも宮殿を思わせるような豪華なホールである。両端に立派な彫刻を施した柱が等間隔に何本も立っている。大道具など不必要な程、完成された舞台だった。ただ、演目によっては、合わないだろうが。屋外が舞台となったらどうするのだろうか。ふと、エディットが疑問を抱いたその時、演奏が途切れた。そう言う演出だろう。だが、どうにも様子が可笑しい。急に客席が騒めき出した。それは恐らく一瞬の事だったのだ。だがどうにも長く感じたものだから、エディットは目を見開き、息を吸ったのだ。まるで、水中で息苦しさを覚えた時のような、呼吸だった。

 崩れる。

 咄嗟にそう思った。

 演奏が止んだのは、舞台から妙な音が聞こえたからである。それを見て、客席が騒めいた。次の瞬間、舞台を支える柱が嫌な音を立てた。突然耐え切れなくなったと主張するよう、悲鳴を上げたのだ。もし一本でも倒れたら、後は連鎖するに違いない。あんなものが倒れては、下にいる人間は無傷ではいられない。何より、建物自体が持たないだろう。危険を察知して、直ぐに動く事が出来る人間と、出来ない人間がいる。

 果たして、己は何方だろうか。

 顔を引き攣らせ、エディットは内心で叫んだのだ。

 神様!! 



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