32.好意と施し。
現れたのは、エディットが知る人間である。ギルド内で話をした相手としては、二番目に多かった。勿論一位はベイトソンである。
「物好きだなァ、ブランケル」
「やあ、相変わらず人相が悪いねギルド長」
「この面のお陰でギルド長なんだぜ?」
「魔物も逃げ出すからね」
この人、ブランケルさんて言うんだ。今初めて名前を知ったのだった。治療はするが、一々相手の名など聞かない。いや、聞くタイミングを完全に逃していた。きっと向こうも、エディットの名など知らないだろう。そもそもじっと頭の上を見れば分かるのだが、勝手に名前を盗み見るのも如何なものかと、これでも配慮しているのだ。
「今日も、何時もと一緒でいいですか」
劇場の事や服の事、引いては鞄や財布の事など話したいことはあるが、仕事が先である。エディットが出来る事は少ないのだ。だからこそ求められたら、一生懸命やる。しかも現状、このギルドでエディットを頼ってくれるのは、彼女だけである。例え力及ばずとも、出来る事はする。その決意からエディットは手を伸ばしたのだ。
「いや」
だがとうとうお役御免のようだった。端的な拒否の言葉を聞き、エディットは愕然とした。だが、考えてみればそうである。今まで効果がないのに、三千トリオレも払ってくれたのだ。ショックを受ける前に、先ず感謝すべきである。
「そうですか、今までありがとうございました」
「何を言うんだい。感謝するのはこっちの方さ」
「えっ」
女の言う言葉の意味が分からず、エディットはまじまじと相手を見た。すると応えるよう、布に手を遣ったのだ。これに驚いたのは、エディットだけではない。ベイトソンも、また、受付の女性も目を丸くしたのである。意図も容易く、全く躊躇することなく、左目、およびその周辺を覆っていた布を取ってみせたのだった。
「見ての通りさ」
傷一つない、女の顔が露わになった。
「えっと、良かったですね?」
「ああ。また人前で顔を晒せる日が来るとは思わなかったよ」
「えっ」
その言葉の意味を瞬時には理解出来なかった。少なくともエディットはそうだ。だが、周りは違う。
「お前、傷はどうした?」
ベイトソンが訝しみながら問う。
「だから、このお嬢ちゃんが治してくれたんだよ」
「そんな、馬鹿な」
ギルド長が、少し声すら振るわせて呟いた。そうして、エディットを見たのだ。まるで睨みつけるような、鋭い視線だった。
「どうやった?」
「えっ、普通に」
「普通とは何だ」
「えっ、ベイトソンさんの手の傷も治したじゃないですか。一緒ですよ」
「一緒なわけあるか!」
びくっと、エディットが身を震わせた。突然ベイトソンが大声を出したものだから、驚いたのだ。まるで小動物が危険に遭遇したような動きだった。
「落ち着きな、ギルド長。お嬢ちゃんが怯えているよ」
「これが落ち着いていられるか! 教会もさじを投げたんだぞ!」
「えっ」
「そんな事言うんじゃないよ。少なくとも私が生きているのは、教会のお陰なんだから」
「えっ」
大人たちのやり取りを、キョロキョロと首を動かしながらエディットは眺めていた。どうやら、自分が何かをしたらしいことは分かる。でも、自覚はない。何故なら、特に変わった事はしていないのだ。聞かれても分からないとしか言いようがなかった。
呆然とする少女を見て、ベイトソンも落ち着いたのか、少し声のトーンを落としたのだった。
「こいつはな、死にかけたんだ」
「はあ」
「魔物に手酷くやられてね。でも教会のお陰で一命は取り留めた」
「よかったですね?」
「ああ。でも、顔に呪いを受けてしまって」
呪い。日常生活で聞かない言葉である。この世界、そう言うのもあるんだ。一気にエディットの気持ちが沈んだ。
「傷は癒せても、呪いは解けなかったんだ」
「大変でしたね」
「ああ。酷い見た目だし、時折酷く痛むし、一生このままかと思うと気が病んでね……」
想像したら、とんでもなく嫌だった。痛くて、醜いなんて最悪である。しかも顔。そりゃあ、人前にも出たくなくなるものである。エディットは改めてブランケルを見た。奇麗な顔をしている。良かったな、と、素直に思った。
「でもお嬢ちゃんのお陰でこの通りだ。ありがとう」
「えっと、どういたしまして?」
「だから、何でだよ!」
再度大声を出したベイトソンを、うるさいな、と、言う目でブランケルは見た。勿論両目である。因みに態度には出さなかったが、エディットもうるさいと思っていた。無駄に声が通る。
「何が問題なんだい」
「呪いだぞ? 普通の傷とは訳が違う。それをこの見習いが治したって?」
「事実そうなんだから仕方ないだろ。いいじゃないか」
「いいわけあるかよ。どうしろってんだこんなモン」
「えっ、私もう此方へ来てはいけないのですか?」
「何てこと言うんですかギルド長! それでも大人ですか!」
「なんで俺が悪いみてぇになってんだよ! おかしいだろ!」
確かにおかしいな、と、エディットは思ったのだった。何せベイトソンの言っている事はそう間違っていない。得体の知れない教会の見習いなど、受け入れたくないに決まっていた。誰だって問題は抱えたくないのだ。エディットはどちらでもよかった。もし此処を追い出されたとしても、教会へ戻るだけだからである。現状、下手をすれば月に一度くらいしか来てないのだ。余り困らない気がした。
「それで、私は三千トリオレしか払っていないのだが、それではまずいのではないかと思ってね」
「確かに、まずいな」
「いえ、私は見習いなのでそれで大丈夫だと思います」
「お前の実力見習いってレベルじゃねえからな」
「でも十三歳までは見習いです」
「おかしいだろ」
おかしいと連呼されても現実である。実際教会からは何の指示も無いのだ。ならば、見習い価格で正解なのである。エディットには何の権限もないのだ。
「しかしこれだけの事をしてもらって、三千トリオレは納得がいかない」
「だったら服でも買ってやれよ。この嬢ちゃん何も持ってねえ」
「服?」
「ちょっと、ベイトソンさん! ありますってば! あの寄付! でしたら教会に寄付をお願いします!」
急にギルド長がとんでもない提案をしたものだから、エディットは焦った。エディットは、神官見習いである。立場以上のことをしてもらう方が、困るのだ。何故なら、返せない事が分かっているからである。
「財布も持ってねえって言うからよ、今やったんだよ」
「鞄もそうですね」
「あの、本当、要らないんで。寄付をお願いします」
「そういや、靴はマシだな。教会からの支給か?」
「いえこれは、神殿騎士のレモンド殿が下さって……」
「しっかり施されてんじゃねえか」
「ああああああああ」
とうとう頭を抱え、意味もない言葉が口を突いて出た。事実上の敗北宣言である。こうして勝手にエディットは凄腕だが、何も持っていない哀れな子供と言う位置づけになってしまったのだった。尤も、何も持っていないのは事実である。
結局この日も、治療人数はゼロだった。
今まで辛うじて一だったものがゼロになってしまったのだ。普通に考えれば治ったのだから、喜ばしい事である。もしかすると本当に、次からは呼ばれなくなるかもしれない。そんな風に考えながら、馬車に揺られていた。ふと、貰ったばかりのポーチが目についた。新品だろうか。新品だろうな。気に病まないよう、包装はしなかったに違いないのだ。良い人ばかりで困ってしまう。その内、何かお返しがしたい。自然とそう思った。貰っているばかりでは駄目なのだ。ベイトソンも言っていた。物事には対価が必要なのだと。ピンク色のポシェットを開ければ、中には白い皮の財布がある。年齢を考えれば、酷く大人っぽいデザインだった。でもこれはきっと、長く使えるようにと言う気遣いだろう。有難い。ずっと、ずっと大事にしよう。そう心に決め、中を開けてみた。
「えっ」
口を突いて出た意味のない言葉は、馬車の揺れに巻き込まれて消えた。エディットはまじまじと、空の財布を見ている。そう、空である。空の筈だった。空でなければ、いけなかったのだ。なのに、硬貨が一枚入っているものだから、驚いたのだ。恐る恐る、と、言った具合に確認する。それは、一万トリオレ硬貨だった。聖水の対価にとベイトソンが渡したものの、財布がないからとエディットが返したものである。それを今度は、財布ごと渡してきたのだ。
やられた。
素直にエディットは負けを認めた。諦めの境地で天を仰ぐ。見えるのは、馬車の天井だ。瞼を閉じた。良い人ばかりで、困ってしまうな、と、思いながら。優しい人々に、祝福が、あらんことを。何時もならば神に祈るところ、自然とそんな言葉が浮かんだのだった。




